2017年1月の音楽
Index
- THE ELEPHANT KASHIMASHI / エレファントカシマシ
- THE ELEPHANT KASHIMASHI II / エレファントカシマシ
- 浮世の夢 / エレファントカシマシ
- 生活 / エレファントカシマシ
- エレファントカシマシ5 / エレファントカシマシ
- 奴隷天国 / エレファントカシマシ
THE ELEPHANT KASHIMASHI
エレファントカシマシ / CD / 1988
エレファントカシマシのデビュー三十周年にあやかって、これまで文章を書いていなかったデビュー・アルバムから『風』までの作品について、これからしばらくかけてだらだらと語ってゆこうと思います。
題して『エレファントカシマシと俺』。おひまならおつきあいくださいませ。
ということで、まずはファーストから。
僕がこのエレカシのデビュー・アルバムを聴いたのは、たぶん大学三年のときだった。ロッキング・オンが破格の新人バンドとして大プッシュしていたところへ、当時の僕のガールフレンド──というのは、つまりいまの僕の奥さんなわけだけれど──が試聴用のサンプル・テープをもらったから、興味があるならといって持ってきてくれたのだった。
どうして彼女のもとにデビューしたばかりのエレカシのサンプル・テープが回ってきたかというと、それは彼女のお父さん──というのはつまり、いまや僕の義理の父なわけだけれど(しつこい)──が某レコード会社のプロデューサーだったから。そしてそのお父さんの知人のAさんという人がエレカシの初代マネージャーをつとめていたからだった。「今度こんなバンドを手がけるんです」とかいって渡されたものらしい。それが巡りめぐって、僕の手もとに届けられたわけだ。
業界人ならばいざ知らず、一介の大学生にして、そんな風に裏ルートを通じてエレカシと出会ったのは──そしてそれから四半世紀以上をともに生きてきたのは──、世のなか広しといえども、僕ぐらいなもんじゃないだろうか。その後の長きにわたる僕のエレカシ・ラッキー運は、この時点ですでに始まっていたんだと思う。
いや、さらにさかのぼっていえば、僕の高校のときのクラスメイトには、なんと宮本の幼なじみだったという女の子がいたりもするのです。
つまり僕は宮本の幼なじみのクラスメイトなのである(──ということをファンになってずいぶんと経ってから知った。彼女が宮本のことを「ひろちゃん」と呼ぶのを聞いて、どれだけ驚いたことか……)。そのつてで僕の親しい友人たちは、アマチュア時代のまだ七人編成だったころのエレカシのライブを観たことがあるとも聞く。それってちょっとすごくないですか?
まぁ、なにはともあれ、そんなわけで僕のエレカシとの出会いは、一本のカセットテープだった。当時はまだ主流だったアナログ盤でもなく、急速に勢力を伸ばしつつあったCDでもない。ありふれたソニーのカセットテープ。それも市販のなんの変哲もないやつ。自分でもエアチェックなどによく使った、緑色のレーベルのやつ。いまでもわが家の押入れをあされば、現物があると思う(もの持ちがいい)。
そのころはまだインターネットなんかなかったし、僕はレンタル・レコードが大嫌いだったから(どう考えたって著作権法違反だろう)、新しい音楽を聴きたいと思えば、ともだちに借りるか、金を出してレコードを買うしかなかった。そして当然のように、貧乏な学生は、なけなしの金を出して、見ず知らずの新人バンドのアルバムを買ったりはしない。そのテープがなければ、僕がエレカシと出会うのは、もっとずっとあとのことになっていたはずだ。
そして、もしそれが『ココロに花を』以降だったとしたら、おそらく僕がこれほどまでにエレカシにはまることはなかっただろうと思う。そういう意味では、そのテープがその後の僕の人生にあたえた影響はことのほか大きかった。
とはいえ、そのときのそのテープには、その後三十年近くの長きにわたってつづくことになるエレカシとのつきあいを予感させるような特別ななにかがあったかといえば、残念ながら答えはノーだ。そんなスペシャル感はこれっぽっちもなかった。
僕の目に映った(というか耳に届いた)当時のエレカシは、反語満載のひねくれた歌詞をRC的なストレートなロックンロールに乗せて歌う、奇妙な歌い回しのボーカリストのいるロック・バンドというに過ぎなかった(──とか書いてみるとずいぶん個性的な気もするけど)。
『習わぬ経を読む男』や『花男』は素直にいいと思ったし(いまでも大好きだ)、『BLUE DAYS』のボーカルのすさまじさには恐れ入った。『やさしさ』の歌詞にスライダーズの『one day』と同じ心象風景を見いだして大いに共感しもした。
とはいえ、自身の趣味として、ストーンズ、スライダーズ的なものからオルタナティヴなもの──ストーン・ローゼズのデビューがその翌年だった──へと舵を切りつつあった当時の僕にとって、彼らのギター・サウンドはあまりにオーソドックスすぎた。サウンド面でこれといって新しいところがないがゆえにもの足りなかった。
おまけに、そのころの僕はそれまでつづけていた中途半端なバンド活動に見切りをつけて、音楽から足を洗った直後だった。そんなやつに自分と同い年のロック・バンドを正しく評価しろったって無理な相談だ。ひがみ根性が手伝って、どうしたって目が曇ってしまう。そうは思いたくないけれど、実際にそういう気持ちがなかったとはいいきれない。
はたして、僕がふたたびエレファントカシマシと出会い、大いなる衝撃を受けるまでは、それからおよそ二年の歳月を費やすことになるのだった……。(つづく)
(Jan 15, 2017)
THE ELEPHANT KASHIMASHI II
エレファントカシマシ / CD / 1988
エレカシのアルバムで、僕が唯一リアルタイムで聴いていないのがこのセカンド。
正確にいうと、次の『浮世の夢』も聴いたのはリリースされた翌年だったけれど、それでもあれはその時点での最新作だったから、僕がいわゆる「旧譜」という扱いでエレカシのアルバムを聴いたのは、あとにも先にもこれ一枚きりだ。シングルでは『ふわふわ』だけ。
ただ、結果論ではあるけれど、いまから思えば、僕はこれをリアルタイムで聴いていなくてよかったかもと思う。ここでの変化を知らなかったからこそ、僕は次の『浮世の夢』にあれほどの衝撃を受けたのだろうから。
このアルバムのエレカシはあきらかにファーストの彼らとは違う。「金がともだちさ」とうそぶいてみせた宮本のやんちゃさはすっかり影を潜めてしまっている。かわりに全編に重い空気が立ち込めている。鬱屈した怒りのようなものが満ちている。
ビートもよりゆっくりとしたミディアム・テンポのもの中心となり、軽快なロックンロールはほとんどない。速い曲といえば、せいぜい『ゲンカクGet Up Baby』くらいだけれど、その曲もなんだか、やぶれかぶれな感があって、軽快という言葉は似つかわしくない。
僕は、こうした変化はファーストで掲げた理想主義がきちんとリスナーに伝わらないことに対して、宮本が内なる憤りをくすぶらせた結果ではないかと思っている。
宮本はデビュー作の『ファイティングマン』で「お前の力必要さ」と歌った。最初からリスナーにともに戦うことを求めていた(そしてその姿勢はいまだに変わらない)。
でもその一方で、観客を「バカヤロー」とののしり、「踊るんじゃねぇ」と怒鳴りつけもした(と聞いている)。それは「ともに戦おう」という彼の呼びかけに対して応えない──もしくは応えていないように彼の目には映る──人たちに対する苛立ちのためだったのではないかと思っている。
ただ、そうした性急な言動の結果として、彼は自ら居心地の悪い状況を招いてしまう。
彼のもとへと集まってきたのは、彼に力を貸してともに戦おうとする仲間ではなかった。彼の孤独な戦いを、じっと黙ったまま見守るリスナーだった。
もちろんエレカシを愛して集まった人たちだ。その視線が冷たかったはずがない。それでも、そんなただ温かいだけの生ぬるい視線は、宮本が本来望んでいたものではなかったんだろう。いまならともかく、当時の彼を力づけはしなかった。そして、おそらく彼はそんなリスナーに反発した。
自分の音楽を求めて集まってくる人たちが自分の敵であるはずがない。──そうと知ってか知らずか、彼は自分を支持する人たちに不満を抱かざるを得なかった。
味方であるはずの人々を味方として受け入れられない。――そんな状況が、彼をして内なる怒りを鬱屈させ、その結果が音楽として形をとった。それがこのセカンドではないかと僕は勝手に解釈している。
さらにここでの内なる怒りが究極のとまどいへと変わったのが3枚目、その先の絶望を開き直って爆発させたのが4枚目、息苦しい諦観へとたどり着いたのが5枚目……と話はつづいてゆくのだけれど、その話はまた後日。
とにかくこの2枚目は暗くて重い。エレカシの諸作品のなかでも、もっともとっつきにくいアルバムのひとつだと思う。少なくても僕にとってはそうだ。
それでも、このアルバムで聴ける宮本のボーカル・パフォーマンスの凄まじさはハンパじゃない。とくにラストを飾る名曲中の名曲、『待つ男』の鬼気迫る怒号を前にしては、どうしたってこのアルバムを悪く思えるはずがないのだった。
ほんと、この一曲にどれだけ僕は救われたかわからない。この曲のためだけにも僕はこのアルバムを一生聴きつづけずにはいられないと思っている。
(Jan 15, 2017)
浮世の夢
エレファントカシマシ / CD / 1989
わが生涯最大の衝撃作といっても過言ではないエレカシのサード・アルバム。
もしもこの作品と出会っていなかったら、その後の僕の人生は少なからず違うものになっていたんじゃないかとさえ思う。
とはいっても、このアルバム、僕はみずから聴こうと思って手にしたわけではなかった。ファーストのときと同じで、『浮世の夢』もまた幸運な巡りあわせで僕のもとへと届けられた。
ときは社会人生活一年目の春のこと。
あまり社交性が高くない僕が、同期入社した新人社員のなかでなかよくなった数少ない友達のひとりにMという男がいた。
おたがい性格は違ったけれど、ともに集団のはみだし者どうし、音楽の趣味も近かったから、僕らは自然となかよくなった。ふたりでよく酒を飲みにいった。一緒に野音にスライダーズを観にいったこともある。
そのMがたまたまエレカシのファンだった。それでぜひ聴けと薦められた──のかというと、またちょっと違う。
彼は学生時代からひとり暮らしの貧乏生活を送っていたので、その当時まだCDプレーヤーを持っていなかった(その頃はCDラジカセとかもまだ普及していなかったのです)。そんな彼が「エレファントカシマシの新譜が聴きたいんだけれど、CDを買うからカセットテープにダビングしてくれないか」といって持ってきたのがこの『浮世の夢』だったのです。
Mが僕にそんな頼みごとをしてきたのは、いうまでもなく僕がエレカシのファーストを聴いていたからだ(さすがに知らない人にこれを聴かそうとは思わない気がする)。
つまり、もしも僕がその時点でエレカシを知らなかったり、Mと出会わなかったり、出会っても友達にならなかったり、彼がCDプレーヤーを持っていたりしたら、僕が『浮世の夢』を聴いていなかった可能性も大いにあるわけだ。なんたって僕はMに渡されるまで、そんなアルバムが出ていることさえ知らなかったのだから。
どこぞにいる音楽の神様は、よほど僕にエレカシを聴かせたかったに違いない。
サンキュー、神様。いろいろあれこれお世話になってます。
ということで、かくして僕はふたたびエレファントカシマシというバンドと出会うことになった。
そしてこのたびはかつてないほどの激しい衝撃を受けることになる。
え~っ、なにこれ!?
なんでこんなことになっちゃってんの???
そこで鳴っている音楽は予想だにしないものだった。
疾走感ゼロのひなびたアルペジオをバックに、まるで文部省唱歌のような復古的なメロディに乗せてとつとつと歌われる孤独な人生へのとまどい。
ベランダのスズメにほほえんだり、上野の花見客をうらやんだり。
そこにある心象風景にはロックンロール的な要素は皆無だった。そこにはただひたすら穏やかな停滞があった。そしてこのうえなく優しいメロディがあった。
『GT』や『珍奇男』のような曲もあるけれど、この作品でもっともインパクトがあったのは、やはり『夢のちまた』や『うつらうつら』のような静かな楽曲群だ。
なまじファーストのエレカシが王道のロックンロールバンドだっただけに、その振り幅の激しさは僕を大いに驚かせた。そして愕然とさせた。かつては自分でもバンドをやっていただけに、そこにある変化が信じられなかった。
俺にはどうあがいたって絶対こんな音楽にはたどり着けないぞ……。
ただ単におとなしくなっただけだったら、そんなにも衝撃は受けなかっただろう。でもこのアルバムは違った。全体的におとなしい中にも、ときおり感極まったように爆発的な尋常ならざる咆哮があがる。
ところどころで爆発する宮本の怒号のようなボーカルはひたすら圧巻だった。そこには計り知れないほど深い絶望が顔をのぞかせていた。なかでもとくに強烈だったのが『見果てぬ夢』で、そのサビのボーカルは身震いがするほどだった。
「我も彼らに負けまいと/やさしい日本の四季を見て」
「これも浮世とあきらめて/すずしげに」
同い年のロックバンドがわずか二年ばかりのあいだにこういう境地にたどり着いてしまったことに僕は心底愕然とした。ここにある絶望は如何ばかりかと思った。
そこには紛れもなく、そのころ僕自身が日々感じていたのと同じ種類の孤独と憂うつがあった。それを宮本浩次という人は、僕にはとうてい成しえないような形で音楽にしてみせた。そのことにどうしようもなく感動した。
いまとなると、べつにこれがエレカシの最高傑作だとは思わない。スタイル的に画期的とはいえないし、音響的にもいま聴くとかなりしょぼい気がする。でもその時そこにあった音楽は、ほかでは一度たりとも感じたことのないような圧倒的な共感を僕のなかに呼び起こした。
僕は自らの悲しみや憂うつを、ここまで優しく、激しく、切実に代弁してくれた音楽をほかに知らない。
「ブルース」という言葉が文字通り「憂うつ」を音楽にしたものだとするならば、これこそが純日本製のブルースなんじゃないだろうかと思った。メロディ的にはどれも明るいし、音楽スタイル的にブルースと呼べる要素はほとんどないけれど、それでもここにはブルースという音楽の本質に極めて近いものがあるのではないかという気がする。
ということで、僕はすぐさま自分でもそのCDを買い求め、それからしばらくのあいだは、ただひたすら繰り返しこのアルバムだけを聴きつづけた。いくら聴いても聴き飽きなかった。聴くのをやめられなかった。
で、あまりに好きが高じて、その当時のガールフレンド(のちに僕の奥さんとなる)にも「これはすごいぞ、大好きだから一度聴いてみて」と勧めてみた。
僕と彼女とは音楽の趣味がそれほど近くないし──そのころから彼女は佐野元春やネオアコやモータウンが好きな人だった──、彼女がエレカシを好きになるとは正直なところ思っていなかった。それでも自分がこれほどまでに好きになった音楽だから、とりあえず聴いておいてもらおうというくらいのつもりだった。
ところが僕の予想に反して『浮世の夢』は彼女にも人生最大級の賛辞をもって迎え入れることになる。
かくしてここから僕らふたりがエレカシとともに歩む人生の第二章が始まった。
すべてはこの『浮世の夢』から始まったのだった。
(Jan 22, 2017)
生活
エレファントカシマシ / CD / 1990
『浮世の夢』との衝撃的な出会いからわずか数か月後にリリースされたエレカシの四枚目のアルバム。
個人的にはファンになって初めての新譜だったので、特別な愛着がある。収録曲がわずか七曲というエレカシ史上もっとも曲数の少ないアルバムでもある。そしておそらく、エレカシ史上最大の問題作でもある。
この作品はとにかく宮本のボーカルが凄まじい。
前作で僕を驚愕させた爆発的なボーカル・パフォーマンスが、冒頭の『男が行く』と『凡人 -散歩き-』からほぼ全編にわたって炸裂している。ふつうの人にはこんな歌、絶対に歌えない。
そのあとにこのアルバムで唯一ファーストからの流れを汲む石くん主導のロック・ナンバー『too fine life』を一曲挟んで、残りはスローバラードばかりが並んでいるけれど(どれも名曲!)、それらもサビでは必ず大絶叫が待ち受けているので、印象的にはアルバム一枚まるまる絶叫しているような印象さえ受ける。その悲痛なまでの叫びがとにかく圧巻。
過去の作品にだって『BLUE DAYS』や『待つ男』など、最初から最後までとんでもないボーカルを聴かせてくれる曲はあった。でもこの作品がすごいのは、その印象がアルバムほぼ全編に渡っている点。そしてそれに加えて特筆すべきは、それまでとは違ったラウドで荒々しいギター・サウンドが鳴っている点。
当時これを聴いた僕の友達からは「ツェッペリンの真似」みたいなことを言われていたけれど、でもこの音のラウドさこそが確実にこのアルバムのもうひとつの肝だ。
宮本の破格のボーカルにこの轟音ギターの組み合わせこそが、その後のエレカシ・サウンドの核となってゆく。前作『浮世の夢』にはロックと呼ぶのをためらわせるようなところがあったけれど、ここでふたたびエレカシはロックに回帰した。しかもよりアグレッシブなギター・サウンドとともに。
このアルバムで重要なのは、そのサウンドの変化を主導していたのが、石くんではなく宮本であった点(当初はそうと知らなかった)。前作の『珍奇男』で垣間見られた宮本の非凡なギターのセンス――いまだに技術的には問題ありだけれど、このころからフレージングのセンスはあきらかに独特で非凡だと思う――が、このアルバムでは全編に
アメリカでグランジが興隆を迎えるのがこのしばらくあとのことだ。それまではサウンド的には昔ながらの平均的なロックバンドだったエレカシが、このアルバムで宮本のギターに引っぱられて、そんな時代に沿ったオルタナティブなロックバンドとして覚醒した。それがなにより重要な点だと思う。おかげですっかり影が薄くなってしまった石くんには気の毒だったけれど。
まぁ、とはいえ、それがすぐさま万人に受け入れられるものだったかといえば、残念ながら答えはノーだった。
そりゃそうだろう。誰が「豚が真珠だ貴様らには/聴かせる歌などなくなった」なんて歌われて嬉しいだろう? 「どうだ貴様も暮らさぬか?/俺と一緒に寝て暮らそう」なんていわれて、「はいそうしましょう」と答えられる人はそうそういない。
サウンド面での充実はともかく、そこにある言葉はあまりに排他的だった。
前作で「人の思いは十人十色/やさしい言葉をかけるもいい」と歌っていた宮本が、その次回作ではもうちゃぶ台をひっくり返して、リスナーを罵倒している。「俺を嘲笑う」世間に背を向けて、ひとり部屋に引き籠っている。このアルバムにおけるメッセージは、そのサウンドの迫力を差し引いてあまりあるほど内向的で過激だった。
のちの『奴隷天国』なんかもそうだけれど、そういう宮本の過激なメッセージに対して、よくぞいったと思える人は幸せだ。
残念ながら僕にはそこまで単純に盛り上がれない。なぜって僕自身はおそらく豚や奴隷の側の人間だから。残念ながらそうじゃないと言い切れるほどのものをなにひとつ持っていないから。「俺はお前に負けぬから/お前も俺に負けるなよ」と歌う宮本には、残念ながらすいませんとしか言えない。その思いにこたえたいという思いは当然あるのだけれど、結局こたえられていない。
だから、このアルバムで好きな曲はというと、アルバムを代表する『男は行く』や十二分を超える大曲『遁生』よりはむしろ、「あぁ、俺には何か足りないと/何が足りぬやらこの俺には」と自らを嘆く『偶成』や、この重いアルバムで唯一ポップなメロディとポジティヴなメッセージを持った『too fine life』ということになる(まぁ、後者は音響的にこのアルバム最弱だけれど)。僕は二十代のほとんどを「明るい未来を/暗き今日を/俺はここで考える」と口ずさみながら過ごしていた気さえする。
まぁ、それでも僕はその当時に、このアルバムのメッセージを真正面から受け取り、その轟音サウンドを浴びるようにして聴いた。数限りなく聴いた。放たれるメッセージがどれほどネガティヴであろうと、そこには掛け値なしのパワーがあふれていた。二十代前半の僕にとって、そんな宮本のパワーを全身で浴びる経験は本当にかけがえのない切実なものだった。
僕が初めてエレカシを生で観たのも、このアルバムのリリース直後のことだ(それがよりによってエレカシ初の野音だという。なんという幸運な男)。
そこでの宮本は、このアルバムのハイ・テンションを上回るとんでもないパフォーマンスを見せてくれた。『生活』もすごかったけれど、ライブでの宮本はさらに輪をかけてすごかった。いまとは違って正味一時間半たらず、アンコールなしの短いステージだったけれど、その間に彼は持てる力のすべてを出し切っていた。その日に限らず、この時期の彼はいつでも、とてもじゃないけれどアンコールなんて望めないってくらいに消耗し切った姿でステージを去っていった。
いまや三時間のライブをあたりまえのようにやる男が、その潜在能力をわずか一時間ちょっとに圧縮して一気に放出していたのだから、どれくらい凄まじかったか推して知るべし。ひとりのアーティストがステージ上で、あれほどまでに全身全霊をかけて、持てる力のすべてを使い果たす姿を見たのは、あとにも先にもあのころの宮本だけだ。
いまさらながら、とんでもない人と出会ってしまったと思う。
(Jan 22, 2017)
エレファントカシマシ5
エレファントカシマシ / CD / 1992
その名のとおり、エレカシ5枚目のアルバム。
エレカシがバンド名をタイトルにかかげるのはファースト、セカンドについでこれが三度目だけれど、まえの二枚が定冠詞つきの英語だったのに対して、これはカタカナに数字で『エレファントカシマシ5』。こんなところにもデビューからわずか数年でエレカシに生じた変化が表れている。英語よりもカタカナのほうが、借りもの感がなくて、よりエレカシらしい。
今回あらためて聴き直してみて、このアルバムは内容的にエピック期のエレカシの完成形と呼んでいい作品なのではと思った。少なくても僕がエピック期のエレカシといってイメージするのは、このアルバムの音だ。
『生活』でいったんは爆発させた世間に対する憤りが沈静化して、メッセージ的にはふたたび『浮世の夢』に近い──それでいてどことなくユーモラスな──停滞モードに落ち着いている。ただしサウンド面では『生活』での宮本主導のハード・ロック路線を踏襲しているので、今回は音楽としてのダイナミズムが『浮世の夢』とはぜんぜん違う。
あとから聴いた人にはそれほどアグレッシヴなサウンドには聴こえないかもしれないけれど、この時期のエレカシのライヴはほんと轟音と呼べるほど大音量だった。ライヴのあとは毎回耳鳴りがやまなかった。このアルバムにはそのころのモードが如実に反映されている(これでもうちょっと録音がよければなぁ……と思う。その点は『浮世の夢』や『生活』も同じで、そういう意味ではこの時期の作品をリマスター盤でぜひ聴きたい)。
とにかく、『浮世の夢』と『生活』とこれとは三部作的なイメージがあって、なかでもこれは前二作の延長線上にある点で、エピック時代のエレカシを代表する一枚と呼んでもいいんじゃないだろうか。
まぁ、とはいっても、『浮世の夢』は優しくひなびたサウンドをバックに、ところどころで宮本のボーカルが爆発するところに唯一無二の味わいのある傑作だと思うし、『生活』のシリアスさと迫力には他の追従を許さないものがあるので、その二枚と比べるとこの作品はどっちつかずで地味な感が否めない。というか、むしろその地味さこそがこの時期のエレカシを象徴しているように思う。
そもそもこのアルバムの場合、歌詞にしてから停滞し切っている。ここでの宮本は「あぁ、この世に生まれて暇と酔狂の繰り返し/やることがない」と歌い、「たいくつ」を「おれのともだち」と呼び、「働いた/疲れて寝た」とか、「暑い暑いと/何もせずにいた」とか、「ひまつぶし人生」とか歌う。とにかく全編がこの調子。そして最後にはそんなダメさ加減をどーんと爆発させる、超ヘビーな『曙光』が控えているという……。
いや、アルバムに先駆けて先行シングルとしてこの『曙光』を聴いたときには、おいおい、次のアルバムはどうなっちゃうんだよと思ったものだった。
なにこの昭和の香りたっぷりな楽曲は。昭和というか、戦前の軍歌? とか思ってしまうような古めかしく厳めしいメロディと、「まったくよぉ/うまくいかねえよ/この世の暮らし/俺の暮らしは」という人生煮詰まりまくりな歌詞。ときはバブル末期だよ? 時代錯誤にもほどがある。
この曲にかぎらず、『男が行く』から『この世は最高!』に至るまでのこの時期のシングルには、「この人たちは本当に売ろうって気があるんだろうか?」と首を傾げたくなるようなものがあった。アルバムを聴けばもっと売れそうな曲はあるのに、わざととっつきにくい曲を選んでリリースしているとしか思えなかった。なかでも『曙光』はもっともその印象が強い一曲だった。こんなのシングルに切っちゃ駄目だろうと思った。
そういう意味で、エピック時代にセールスで苦戦したのは、自業自得の感が否めない。だからポニーキャニオンに移籍して、売れそうな曲を出して売れたのは、至極当然な気がした。なにをいまさらと思わずにいられなかった。エピック時代で問題だったのは、作品の質ではなく、プレゼンテーションの部分ですから。そこんところ誤解なきようお願いします──といいたくて仕方なかった。
とにかく『曙光』にはまいった。いや、好きですよ? ここまでのエレカシの楽曲についていえば、愛着にレベルの差こそあれ、嫌いな曲なんてひとつもない。『奴隷天国』までのエピック時代のアルバム収録曲は、すべてが僕の宝物といっていい(『東京の空』はまたちょっと別)。でも初めて聴いたときには正直、戸惑ったし、その方向性を疑問に思ったと。そういう話です。
まぁ、さいわいアルバムには『曙光』のような曲はほかにはなく、全体的には『浮世の夢』のグランジ的な発展形とでも呼べるような内容に仕上がっていたので、正直なところほっとした。そしてこれも延々と繰り返し聴いた。この時期は僕自身の人生も停滞しきっていたから、このアルバムのモードはまさにどんぴしゃだった。『生活』のような過剰さがない分、日々の生活に馴染みやすかった。
そのころの僕は社会人生活三年目で、思うようにいかない毎日に情緒不安定になって、職場へと向かう飯田橋の歩道橋の上で、わけもなく涙ぐみそうになったりしていた。そんなやつにとって、「あぁ、涙ホロホロといつの間にか落ちていた/どうしたんだろう」なんて歌う宮本が他人事と思えるわけがないのだった。
そんなわけで、なかでも『シャララ』には特別な思い入れがあるのだけれど、まぁ、その曲にかぎらず、全曲がその時期の僕の生活にそのまま重なってくるようだった。いわば、わが青春時代のサウンドトラックのような。そんな一枚。
(Jan 29, 2017)
奴隷天国
エレファントカシマシ / CD / 1993
エレカシで僕がもっとも好きなアルバムのひとつがこの六枚目。とはいえ、残念ながらこの作品に対する僕の期待値は、実際にその音を聴くまではとても低かった。
『浮世の夢』から始まった僕のエレカシ・フィーバーは、前作『5』の停滞気味の世界観をへて、落ちつきつつあった。このころになると、エレカシが新たな方向性を模索して煮詰っているのはあきらかだったし、そこへ届いた先行シングルの『奴隷天国』がそんな下降気味な気分に追い打ちをかけた。「おめえだよ、おめえ、そこの奴隷、奴隷!」と罵倒されて、意気消沈した。ジャケットの写真もおどろおどろしくて惹かれなかった(いまでもこのジャケットはどうかと思う)。
なのでこのアルバム、僕は自分では買っていない。僕の奥さん──当時はまだ結婚していなかったので一緒には暮らしていなかった……とかいう説明がしつこい気がしてきたので、これ以降省略──が買ったのを、べつにすぐに聴かなくてもいいよとかいって、何日か遅れて借りたのを覚えている。
でも、予想に反して、僕はこのアルバムにはまった。むちゃくちゃはまった。一聴したとたんに、うぉーなんだこりゃカッコいい!──と思って、その晩からしばらくのあいだ中毒状態で繰り返し聴きつづけることになった。
仕事ではちょうど千葉沿岸の石油コンビナートのシステムを担当していた時期で(絶対に若いころのほうがすごい仕事をしていた)、僕にしては珍しくその翌日から出張だったので、カセットテープに落としてウォークマンで持ってゆき、出張先の五井のビジネスホテルで深夜に聴きまくった記憶が鮮明に残っている。
なぜこの作品にそんなにもはまったかというと、至極単純、このアルバムが予想外に明るかったからだと思う。
宮本主導で新たなギター・サウンドを確立した前の二枚は、サウンド面では充実していたものの、セールス的に振るわなかったこともあって、バンドとしての行き詰まりを感じさせた。そこでエレカシはここで軌道修正を試みる。ふたたびファーストのころのストレートなスタイルを取り戻そうとする。
このころの宮本はギターを弾くときには全曲椅子に座って演奏していた。最近は客席から見やすいようにパイプ椅子の背もたれの部分に座って演奏しているけれど(あれでよく転んだりしないもんだと思う)、そのころは普通に坐っていたから、会場によってはその姿が見えないこともままあった。
ハンドマイクを手にステージ狭しと駆け回る宮本の姿を生で観るのがライヴのなによりの楽しみって人もきっといるだろう。この時期はそうした姿を見る機会が激減していたわけで、おかげでライヴが視覚的なダイナミズムを失っていた印象がなきにしもあらず。それをこの時期のエレカシは是正しようとしていたわけだ。
ということで、このアルバムではふたたび石くんのギターが前に出たファーストに近いロックンロールが多く聴ける。かといって突然すべてが戻るはずもなく、あくまで『生活』からのハード・ロックのテイストは残っているし(というか、ほとんどのギターのフレージングは宮本節だ)、メッセージも前作までの世界観を踏襲している。
このアルバムのいいところは、そのメッセージが内に引きこもりっぱなしではなく、人に語りかけるような調子のものになっているところ。タイトル・トラックの『奴隷天国』にしても、暴言を吐きつつ人に語りかけているわけだし。『絶交の歌』みたいな曲でさえ、絶交を告げる相手に対するもの言いにはあっけらかんと開き直ったような思いきりのよさがある。
僕はこのアルバムの楽曲には、以前のどのアルバムよりもひらかれた風通しのよさを感じる。とくに好きなのは『果てしなき日々』と『道』だけれど、でもそのほかも、ほんと全曲ハズレなしにいい曲ばかり。2曲目の『太陽の季節』から最後の『寒き夜』まで、ほんとにすべて好きだ。
でもだからこそ。このアルバムが『奴隷天国』のような排他的な曲をタイトルにかかげて、まるでホラー映画のようなアートワークとともにリリースされたのがほんと残念だった。内容的にはもっと評価されていい作品だと思うし、ファンとしては心から売れて欲しかった。でもこのアルバムは表面的に、あまりにとりつく島がない。親しくなれば伝わる魅力も、親しくなる前に睨みつけられては伝わりようがない。さすがにこれじゃ売れなくても仕方ないよなぁと思う。
べつに『奴隷天国』という曲が嫌いなわけではないけれど、このアルバムに
でも僕個人にとっては、『浮世の夢』についで、エレカシのセカンド・インパクトともいえる体験を与えてくれた特別な作品。これがあったことで、僕のエレカシに対する思い入れは、より強固なものになったといってもいい。
ということで、タイトルやジャケットにひるまず、ひとりでも多くの人に聴いていただきたい名盤です。誰がなんといおうと、僕にとってはまぎれもない名盤。英語にすればマスターピース(だからなんだ)。
(Jan 29, 2017)