2009年11月の映画
Index
- スター・トレック (2009年版)
- プライドと偏見
- ウォンテッド
- ブレードランナー(ファイナル・カット)
- 50回目のファースト・キス
- パッション
- パリ、恋人たちの2日間
- 最後の恋のはじめ方
- ラストキング・オブ・スコットランド
- スリー・キングス
- 大丈夫であるように - Cocco 終わらない旅-
- マイケル・ジャクソン THIS IS IT
スター・トレック
J・J・エイブラムス監督/クリス・パイン、ザカリー・クリント/2009年/アメリカ/BS放送
最近のブームに乗っかって、「カーク船長ほか、エンタープライズ号のクルーたちがいかに集まりしか」を、ジェームズ・T・カーク誕生の瞬間までさかのぼり、テンポよく描いてみせた 『スター・トレック』 劇場版最新作。
いや、じつはうちの奥さんがスター・トレック好きであるにもかかわらず、僕自身はこれまでこのシリーズをほとんど観たことがなかった。さすがにこうやることが多いと、あの長大なシリーズを一から観ようという気にはなれないし、それ以前にあの衣装が格好悪くて、どうにも食指が動かなかった。
でも、この新劇場版はかなり評判がよさそうだし、たまたま見た予告編──幼い少年がクラシック・カーをかっ飛ばして、警官に追われているやつ──がすごく興味をかきたてるような出来だったので、ちょっと観てみようかという気になった。
でも、オリジナルを知らないのは、やっぱり痛かった。この映画の見どころのひとつは、ファンにはおなじみの個性的なクルーたちが、紆余曲折をへて最終的にエンタープライズ号に終結する、その過程にあると思うので、その部分が楽しめきれない分、少なからず損をしている気分になった。
そういう内情を知らないで観ていても、一編のSFアクション映画として十分に楽しめる作品だとは思う。でも、なまじおもしろいだけに、なじみがあればもっとおもしろいんだろうなと思えて、ちょっと残念になるという、これはそういう作品。まあ、オリジナル・シリーズとどれくらいイメージが重なるのかわからないので、もしかしたら「こんなのスター・トレックじゃない」という人だっていそうな気もする。いや、元祖スポックのレナード・ニモイが意表をついた形で出演しているので、そんなことはないのかな。
キャスティングでへえっと思ったのは、主役のカークを演じるクリス・パインが 『スモーキング・エース/暗殺者がいっぱい』 でいかれた殺し屋三兄弟のひとりを演じていたり、スポック役のザカリー・クリントが 『24』 のシーズン3に出ていたりすること。そしてスポックの母親の役がウィノナ・ライダーだったこと。僕はどれひとつ気がつきませんでした。なじみのない最初のふたりはともかく、いくら老け役だったからって、ウィノナ・ライダーに気がつかないたあ、不覚もいいところだ。きれいな人だけど、いったい誰だろうとか思っていた自分が情けない。
(Nov 01, 2009)
プライドと偏見
ジョー・ライト監督/キーラ・ナイトレイ、マシュー・マクファディン/2005年/イギリス/BS録画
ジェイン・オースティンの原作 『高慢と偏見』 を読んだばかりなので、鉄は熱いうちに打てとばかりに観ることにした、2005年の映画版。
『つぐない』 の監督ジョー・ライトと主演のキーラ・ナイトレイがコンビを組んだ第一作とのことで、ジョー・ライトはこれが劇場デビュー作らしい。そうとは思えないほど、落ちついた撮りっぷりでびっくりした。原作にくらべると、物語自体はやや駆け足気味で、ディテールの説明が足りないかなと思うようなところもあるけれど、映像の美しさと俳優陣の演技は文句なし。とてもいい映画だと思う。
とくに主演のキーラ・ナイトレイの演技がよかった。ダーシーの告白を受けたあと、拒絶のことばを早口でまくしたてるところとか、ラスト・シーンでの幸福そうな笑顔とかに、すごく惹かれた。僕の趣味からすると、このところの彼女はややスレンダーすぎる気がしているのだけれど、それでもこの人の出ている映画を観るたびに、その演技にはいつも好印象を受けている気がする。まあ、もともときれいな人だとは思っているので、好みじゃないといいつつも、贔屓目があるのかもしれない。いずれにせよ、気になる存在。
原作ではエリザベスの目線から描かれるために、ダーシーが彼女を愛するようになる過程がいまいちわかりにくい気がしたけれど、この映画ではそんな風にヒロインが魅力的なので、キーラ・ナイトレイを追うマシュー・マクファディンの視線から、その辺の展開がわかりすぎるほどに伝わってくるのがおもしろかった。ダーシー役の彼もけっこういい味を出している。
そうそう、あとこの映画でへえっと思ったのが、舞踏会のシーン。小説を読んでいるときには、舞踏会というくらいだから、社交ダンスみたいな落ちついたやつを想像していたのだけれど、いざ映像で再現されたそれは、やんやと騒がしいフォークダンスみたいなやつだった。ああ、十八世紀のイギリスの舞踏会ってこういうやつだったんだと、目からウロコでした。
(Nov 08, 2009)
ウォンテッド
ティムール・ベクマンベトフ監督/ジェームズ・マカヴォイ、アンジェリーナ・ジョリー、モーガン・フリーマン/2008年/アメリカ/BS録画
ジェームズ・マカヴォイ演じるうだつのあがらない青年が、じつはエリート・アサシンの息子だったことから、千年の歴史を持つ暗殺組織にスカウトされて、猛特訓のすえに、殺された父親の仇をうつべく乗り出してゆくというアクション・ムービー。
この映画、「新感覚」をうたうだけあって、序盤からなんだそりゃって思ってしまうような超絶的なアクション・シーンのオンパレード。SFでもないのに、あり得ないようなことが平気でガンガン起こるので、苦笑ぬきには観られない。あとからアメコミ原作だと聞いて、ああ、なるほどと膝を打ってしまうような作品だった。
とにかくアクション・シーンは相当ふるっているので、序盤のマカヴォイくんのうだつのあがらないサラリーマンぶりとのギャップには、なかなかインパクトがあった。なんだこの映画って感じで、とても新鮮だった。ただ、殺し屋が主役の映画ということで──なおかつ、もともとグラフィック・ノベルということもあって──、かなり血なまぐさいシーンが多いので、僕としてはやや
ちなみに監督のティムール・ベクマンベトフという人は、変わった名前だと思ったらば、カザフスタン出身なんだそうだ。カザフスタン人がハリウッドでCGバリバリの超娯楽大作を取るという、インターナショナルな時代性を象徴するような一品だった。
(Nov 08, 2009)
ブレードランナー(ファイナル・カット)
リドリー・スコット監督/ハリソン・フォード、ショーン・ヤング/1982年/アメリカ/BS録画
近未来のロサンジェルスを舞台に、レプリカントと呼ばれる人間そっくりのアンドロイドを追う特殊捜査官の追跡劇をハードボイルド・タッチで描く、SF映画の金字塔。
この映画に関しては、昔から物語的にはあまり惹かれないものの、その世界観はさすがに見事だと思う。雨が降ってばかりのアジア・テイスト豊かな未来のロサンジェルス──なかでも日本文化の多さがやたら目を引く──が、独特の陰影をもって迫ってくる。デジタル修復された映像もとてもきれいで、意味不明な炎の上がるオープニングの夜景など、とても30年近く昔の映像とは思えない。
ディテールでおもしろいと思ったのが、一枚の写真を解析して、犯人(?)の手がかりをつかむくだり。時代が時代だけに、ハードウェアはアウト・オブ・デートな感が否めないけれど、音声指示によるオペレーションは、インターフェースとしてマウスやキーボードよりもよほど先進的で、これって本当に使えたら便利そうだなと思った。
それにしても、この映画の時代設定が2019年というのには驚いた。つまりいまから10年後ですよ。オーウェルの 『1984年』 なんかもとうの昔の話になってしまっているし、科学の進歩はまるで人間の想像力に追いついていないんだなぁと思う。
ちなみにうちの奥さんはこの映画の内容をまったく知らなかったそうで、タイトルのイメージで「誰かが走っている映画」だと思っていたんだそうだ(なんだそりゃ)。「だってほら、あのコヨーテとおっかけっこをしている……」って、それはロードランナー。そのくせ、見終わったあとで「ハリソン・フォードはレプリカントだったの?」とか、核心をつくようなことを言うし。ぼけてるんだか鋭いんだか、よくわかりません。
デッカードがレプリカントだという議論については、僕自身はまるでそんなことは思ってもみなかったのだけれど、ウィキペディアによると、監督のリドリー・スコットがそう断言しているんだそうだ。でも、僕は彼が人間であるとしたほうが、より倒錯した味が出ていいと思う。
(Nov 08, 2009)
50回目のファースト・キス
ピーター・シーガル監督/アダム・サンドラー、ドリュー・バリモア/2004年/アメリカ/BS録画
交通事故による記憶障害で、ひと晩眠るごとに前日の記憶を失って、延々と同じ一日を繰り返して過ごすことになってしまった美女と、彼女に恋をした水族館勤務の獣医との恋模様を、常夏の島ハワイを舞台に描くロマンティック・コメディ。
バカらしくも楽しかった 『ウェディング・シンガー』 の主演のふたり、ドリュー・バリモアとアダム・サンドラーが再競演した作品だというので、同じようなバカバカしさなのかと思っていたら、さにあらず。これが意外と真面目。なんたってヒロインが重度の記憶障害をわずらっているという設定なので、さすがにコメディだとはいっても、そんなふざけてばかりはいられなかったらしい。おかげで思いのほか心に染みた。
まあ、とはいっても、下ネタは盛んに使われているし、セイウチや子供を使った一発ギャグがあったりと、わかりやすい笑いもそれなりに盛り込まれている。セイウチや子供たち可愛かったからいいけれど、下ネタのほうはちょっと控えてもよかったんじゃないかと思う。けっこう感動的な話だし、いっそ、その手の下品なギャグはなくして、もっとハイブローな笑いを狙っていれば、あわよくばアカデミー賞候補という可能性だってあったのではという気がする(ちょっと褒めすぎ?)。その点、ややもったいないかなあと思った。
ま、エンディングはそんなのありですかって感じだったけれど、その意表のつきかたにけっこう潔い感じがあって、なかなか気持ちよかった(──って、たんに寒い場所で終わるから、それまでのアロハな印象とのギャップで、身が締まる気がしただけかもしれないけれど)。あ、でも南国が舞台だということで、ボブ・マーリーなどのレゲエを中心としたサントラには、やや安直な印象を受けた。それともハワイでレゲエって選択は正しいんでしょうか。南国とまったく縁のない僕には、よくわからない。
なんにしろアダム・サンドラーは今回も好感度が高かった。この人、いまだ2作しか観たことがないけれど、僕はけっこう好きです。
(Nov 11, 2009)
パッション
ジャン=リュック・ゴダール監督/イザベル・ユペール、ハンナ・シグラ、イエジー・ラジヴィオヴィッチ/1982年/フランス、スイス/DVD
レンブラントの 『夜警』 やゴヤの 『裸のマハ』 などの名画を実写でそっくりに再現しようという映画の撮影が、天才肌の監督のわがままにより難航するさまを追ってゆく実験的作品。ゴダールが商業映画に復帰した第2弾という紹介のされ方をしているけれど、僕にとっては十分すぎるくらいに実験的だった。これが商業的だといわれてしまうたぁ、70年代のゴダールって、いったいどんな映画をとっていたのやら。
若いころに 『気狂いピエロ』 に魅せられて以来、ミーハーにぽつりぽつりとゴダードの作品をフォローしつづけている僕だけれど、調べてみたら、70年代以降のこの人の作品を観るのは、これが初めてだった(この作品は82年公開)。でも、これがわからない。見事にわからないし、まるで楽しめない。
60年代の作品は、わからない作品でもわからないなりに、アンナ・カリーナら、ヒロインの艶めかしさにドキドキしたり、鮮やかな映像の色使いや哲学的モノローグに感心してみたりと、それなりに感じるところがあったのだけれど、この作品では、僕を惹きつけた初期のころのそういう要素がすっかり影を潜めてしまっている。ヒロインはとくに艶めかしくもないし、恋愛面でのせつなさも感じない。映像的な華やかさもない。
いや、歴史的名画を実写映像で再現してみせたビジュアルの見事さは大いなる見どころなんだろうけれど、なんたって学のない僕は、それらの絵画を知らなかったので、インパクトもいまひとつ。ウィキペディアで調べみたら、映画に出てくる絵画がいくつも紹介されていた。たしかにそんなシーンを見た気もするので──というレベルなのが情けない──、あらかじめこれらの絵を熟視してから映画を観ていたら、印象も変わったのかもしれない。
まあ、かなり集中力を欠いた状態で観てしまったのもよくなかった。これに懲りずに、いずれまた、きちんと集中した状態で観ることにしたい。でも、DVDのボーナス映像──僕が観たのは東北新社版なので、最新のユニヴァーサル版にも同じ映像が収録されているかどうかは不明──で、ゴダール自身がこの映画について延々と語っているのを見ても、やっぱりわかんないというか、まるで理解する助けにならなかったりするくらいだから、これはもう、いつ観てもわからないままなんじゃないかと思ったりもする。
(Nov 15, 2009)
パリ、恋人たちの2日間
ジュリー・デルピー監督・主演/アダム・ゴールドバーグ/2007年/フランス、ドイツ/BS録画
『ビフォア・サンセット』 のヒロイン、ジュリー・デルピーがみずから監督をつとめた作品。
僕は知らなかったのだけれど、この人は少女のころに出演した 『ゴダールの探偵』 が出世作らしいので、図らずしてひとつ前の 『パッション』 から、ささやかなゴダールつながりとなった。どうせならば 『パッション』 ではなく 『ゴダールの探偵』 を観ておけば、もっと「おおー、なんて偶然!」ってことなったのに、ちょっと惜しい。
さて、タイトルからして 『ビフォア・サンセット』──パリで9年ぶりに再会した恋人どうしの数時間を描いた作品──を思い出させるこの作品。印象的としては、あの映画を撮ったことがきっかけとなって、生粋のパリっ子であるデルピーが「私だったらば、もっと違ったパリの顔を見せられるわ」とか思って、実践してみせた作品なのだろうと思う。彼女自身が演じるパリっ子の主人公──彼女の両親を演じているのは、本当の彼女のご両親だそうだ──が彼氏にパリを案内するという名目で、さまざまなパリの風景が織り込まれている。
内容は、ふだんはニューヨークで暮らしているフランス人女性とアメリカ人男性のカップルが、ヨーロッパ旅行のついでに彼女の実家に2日間だけ滞在したことから、お互いのあいだに横たわるカルチャー・ギャップがあきらかになって、痴話げんかに到るというコメディ。女性の側の奔放さがいかにも「恋の都パリ」にふさわしい。
それにしてもジュリー・デルピーが監督をつとめているのは知っていたけれど──というか、それだから観たのだけれど──、クレジットを見てみれば、彼女の役割はそれだけにはとどまらず、製作に、脚本に、編集に、音楽にと、到るところに名前があってびっくりだった(なんとひとり6役!)。でもって、どの面でもしっかりとした仕事をしているからすごい。自作自演のエンディング・ナンバーもカッコいいし、音楽まで含めてこれだけマルチな仕事ができる人は、男性にだってそうはいないだろう。脱帽です。
(Nov 21, 2009)
最後の恋のはじめ方
アンディ・テナント監督/ウィル・スミス、エヴァ・メンデス/2005年/アメリカ/BS録画
ウィル・スミスがアクション抜きのロマンティック・コメディに出演してるってのも珍しい気がして、観てみようという気になった作品。でも、主人公がヒロインを水上バイクでのデートに誘うあたり、やっぱりアクション・スターだなぁという感じで、ちょっとおかしかった。
この映画でウィル・スミスが演じるのは、もてない男たちに恋の手ほどきをして、意中の人との片想いを叶えさせてあげるコンサルタント。ヒロインのエヴァ・メンデスは、セレブのスキャンダルを追いかけるゴシップ記者。この二人が、ともに人の恋路に介入することで生活しているにもかかわらず、自分たちの恋愛に関しては極めて悲観的かつ保守的だという設定になっている。いわば、男女関係の裏の裏を知ったる者どうしゆえの純愛とでもいった展開で、ふたりの関係がなかなか成り立たないところがこの映画のみそ。
ふたりの関係に並行して、ケヴィン・ジェームズという人が演じるふとったドジな会計士が、自らの雇い主であるセレブな美女に恋をするという、かなり強引なサブ・ストーリーが描かれる。この人が笑いの半分以上を担っている感じ。あまり有名な人ではなさそうだけれど、存在感はなかなかだった。
映画としてはそれなりにおもしろかったけれど、僕はエンド・クレジットで主要キャストが踊りまくっているのがあまり好きになれなかった。男性ふたりはともかく、女性たちはそれまでの役柄とのギャップがありすぎて、ちょっとなぁという感じだった。
(Nov 22, 2009)
ラストキング・オブ・スコットランド
ケヴィン・マクドナルド監督/フォレスト・ウィテカー、ジェームズ・マカヴォイ/2006年/イギリス/BS録画
これくらいタイトルのイメージと内容がかけ離れている映画も珍しいんじゃないだろうか。なにも知らずにこのタイトルを聞いて、アフリカの話──しかもウガンダの独裁者アミン大統領による恐怖政治の裏側を、彼の専属医となったスコットランド医師の立場から描いたもの──を想像するのは絶対に無理だと思う。この謎のタイトルはアミン大統領が自身のことをスコットランド王と称したことに由来するんだとかなんとかいう話だけれど、なんで彼がそう称したのか、この映画ではそのわけが説明されることもなかったので、僕は最後までタイトルの真意がわからないままだった(まあ、僕が見落としただけという可能性も)。
物語はジェームズ・マカヴォイ──この人もすっかり僕の映画ライフの常連さんだ──演じるところの主人公が、大学卒業とともに海外派遣医としてウガンダに向かうところから始まる。この人が旅の行きずりにその土地の女性と関係を持ったり、派遣先の村の先輩医師の奥さんを口説こうとしたりと、最初からかなり軽薄な青年として描かれている。
そんな彼がひょいとしたことからウガンダの大統領になったばかりのアミンの目にとまり、彼の専属医に取り立てられる。もともと冒険気分でアフリカにやってきた彼のこと。最初はいい体験だ、くらいの軽い感じで楽しんでいたのだけれど、やがてアミンの恐怖政治の実態に気がつき、こりゃまずいと思ったときには、すっかり首まで泥沼につかった状態で、逃げ出すこともできなくなってしまっている。なおかつ、大統領夫人のひとり──この国は一夫多妻制らしい──との不倫がもとで、のっぴきならない状況に……。
いやあ、テーマがテーマだけに、なかなか重い映画だった。物語上、悪役のアミン大統領は当然として、主人公も前述のとおりで、あまり共感を誘わない軽薄な人物なので、なおさら救いようがない気分になった。まあ、でも終盤の彼の無口さには、幾分とはいえ反省の気配が滲んでいるので、その点はいくらか救われたかなと思う。
キャスティングで意外だったのは、序盤に登場してマカヴォイくんに口説かれる村医者の妻役の女優さん。なんとなんと、『X-ファイル』 のジリアン・アンダーソンじゃないですか。そうだった、僕は彼女が出てるってんで、この映画を観ようと思ったのだった。ところがいざ観はじめた時点ではそんなことすっかり忘れていた上に、彼女の見た目がスカリー役のときとはあまりに違っていたので、観ているほとんどのあいだ、その人だと気づかないでいた。ああ、なんてこった。不覚もいいところだ。
(Nov 23, 2009)
スリー・キングス
デヴィッド・O・ラッセル監督/ジョージ・クルーニー、マーク・ウォールバーグ、アイス・キューブ/1999年/アメリカ/BS録画
うちの奥様いわく、前の『ラストキング・オブ・スコットランド』 から、キングつながりで観た作品(嘘です。たまたま)。あまり戦争ものは好きではないんだけれど、これは All Movie Guide で星4.5という高評価を受けていた上に、ジョージ・クルーニー主演だったので、観てみようかって気になった。
舞台となるのは湾岸戦争終結直後のイラク。敵兵が隠し持っていた埋蔵金の地図を手に入れたジョージ・クルーニーたちが、それを少人数でこっそり着服しようと企てたことから巻き起こる一大騒動を、スタイリッシュな映像でもって、ときにはシリアスに、ときにはコメディ・タッチで描いてみせる。
なるほど、これはよくできている。なにより映像がきれいだし、脚本もなかなかだ。出演者もジョージ・クルーニーを筆頭に、マーク・ウォールバーグ、ラッパーのアイス・キューブと、大物ぞろい。高い評価がつくのもうなずけた。
でも、個人的にいちばんインパクトがあったのは、マーク・ウォールバーグの親友役のへなちょこな男が、現在 『かいじゅうたちのいるところ』 の監督として大ヒットを飛ばしているスパイク・ジョーンズだったこと。なんだ、スパイク・ジョーンズって自ら俳優もやる上に、こんなに冴えないタイプの人だったんだ……。名前からして、もっとシャープな人を想像していたので、ぜんぜんイメージと違っていておかしかった。いや、いい駄目男っぷりでした。
(Nov 24, 2009)
大丈夫であるように -Cocco 終わらない旅-
是枝裕和監督/2009年/日本/DVD
映画監督・是枝裕和が Cocco の全国ツアーに密着して撮りあげたドキュメンタリー・フィルム。
是枝裕和という人はエレカシのドキュメンタリー 『扉の向こう』 のプロデューサーも務めていた。普段ほとんど邦画を観ない僕の視野に入ってくるくらいだから、とても音楽好きな映画監督なのかもしれないけれど、残念ながらその作品からは、「この人ってあまり音楽そのものには、のめり込んでないんだろうなぁ」という感じを受ける。その撮り方が、音楽ファンとしての僕のツボを刺激してくれないのだった。その点、音楽オタクなマーティン・スコセッシあたりとは決定的に違う。
Cocco にしろ、宮本浩次にしろ、ミュージシャンとしての才能には間違いがない上に、その人となりがとてもエキセントリックだから、ただ単にその姿を追っているだけでも、それなりにおもしろいものが撮れてしまう。是枝監督がやっていることは、単にそういったレベルで終わっているように僕には思える。料理にたとえれば、材料がいいので、なるべく手間をかけず、素材の味を活かしました、みたいな感じ。
要するに Cocco や宮本の姿を記録するばかりで、彼らの音楽の魅力とその源泉には、まったく迫っていかないのだった。確かに核再生処理施設のある六ヶ所村の現状に、米軍基地をかかえる自らの故郷・沖縄の歴史を重ねあわせてステージで涙する Cocco の真摯さは胸を打つ。 Cocco という人の人間としての魅力は十分に伝わってくる。ただこれを観ても、なんで Cocco の音楽があんなに素晴らしいんだかはわからない。というか、そもそも音楽そのものがまるでフィーチャーされていない。
たとえばライブのシーンなどでは、カメラは Cocco にのみフォーカスして、彼女のまわりで演奏しているミュージシャンたちの姿を写そうともしない。どこぞで行われた弾き語りのミニ・ライヴでの映像では、Cocco の表情ばかりにフォーカスしていて、彼女が弾いているギターさえ映らない。
僕は音楽が大好きなので、その時に鳴っている音がどういう人たちのどんな演奏によって生まれているのか、彼らがどんなふうに演奏しているのかにとても興味がある。それってべつに特別なことではなく、音楽好きな人ならば共通の関心だろうと思っている。
ところが是枝裕和という人は、この映画のなかで僕のそういう欲求にまるで答えてくれない。カメラは最初から最後まで Cocco ひとりの姿を追いつづける。彼女のお母さんや息子さんでさえも、なんの紹介もされないまま、まるで背景のひとつでしかないような扱いを受けているくらいだから、仲間のミュージシャンなんか、いないも同然。あくまでこれは Cocco が主役のドキュメンタリーなんだから、まわりの人なんて撮る価値がいわんばかりに見える。そこがむちゃくちゃもの足りない。
僕はこのDVDを観た翌日に、たまたまマイケル・ジャクソンのラスト・ツアーのドキュメンタリー・フィルム 『THIS IS IT』 を観にいった。生前のマイケルが最後に行っていたリハーサル風景をおさめたこのフィルムは、ツアー・ダンサーたちのインタビューから始まる。でもって、なかなかマイケルが出てこないのだった。マイケルの追悼作品だと思えば、最初から最後までマイケルばかりにフォーカスすることだってできただろうに、あえてそういう形はとらず、マイケルが最後に作り上げようとしていたショーの全貌をあきらかにするような内容になっている。
まあ、監督はそのショーの責任者だった人らしいし、マイケルはもうすでにいないので、新たなインタビューなどが追加できないという関係もあるんだろうけれど、それでもこの作品は、そうした構造ゆえにとても感動的なのだった。なぜって孤高の天才だと思われているマイケルが、多くのリスペクトを受けながら、多くの人々に支えられて音楽を生み出していたという事実がくっきりと浮かび上がっているからだ。プライベートのマイケルは孤独だったかもしれないけれど、少なくてもステージにいるマイケルは孤独には見えない。そこにはたくさんの愛とリスペクトがあった。
Cocco を主人公にしたこの映画からは、そうした音楽人としての Cocco を取り囲むまわりの人々との絆がほとんど見えてこない。 Cocco だってたくさんの仲間たちや愛する家族に支えられて素晴らしい音楽を生み出しているんだろうに、そうした家族や仲間にフォーカスが当たることがないがゆえに、まるでたったひとりで孤軍奮闘しているような印象を受けてしまう。人間 Cocco にのみ関心がある人にはこれでも十分なのかもしれないけれど、ミュージシャン Cocco のことをもっと深く知りたいと思う僕なんかにすると、この内容はとてももの足りない。もっと長田さんらのインタビューも交えて、Cocco のいまを明確に描き出して欲しかった。
ああ、日本にもマーティン・スコセッシのような映画監督がいてくれたならなぁと思ってしまう、これはそんな作品。でも日本のカルチャー・シーンには、そういう多角的な才能を生み出す土壌がない気もする。
(Nov 29, 2009)
マイケル・ジャクソン THIS IS IT
ケニー・オルテガ監督/2009年/アメリカ/ユナイテッドシネマとしまえん
未公開に終わったマイケル・ジャクソンのラスト・ツアー──同一会場で50日という、ポップ・コンサートとしては前代未聞の大公演──のリハーサル映像を編集したドキュメンタリー・フィルム。
本来は公演終了後のライヴDVDのボーナス・ディスクにでもなるはずだった映像なんだろうけれど、マイケルの急逝により、それが主役にならざるを得なかったという不幸な生い立ちの作品ではある。
でも、これがすごい。とにかくコンサートのスケールが破格。なんたってリハーサルのためだけに、本番の会場となるはずだったU2アリーナと同規模のホールを2ヶ月も貸し切っているんだから、そのスケールや推して知るべし。たかがリハーサルと侮るなかれという、おもしろいシーンが目白押し。
もちろん、単にステージが派手でおもしろいというだけじゃない。リハーサルだからこそ、マイケル・ジャクソンというアーティストの真の才能があきらかになっている感もある。とにかく、その歌とダンスがとても見事なのだった。だって本番じゃないんだぜ? なのになぜにここまでしっかりしたパフォーマンスが残っているんだろう。これが完成形になった
僕は最後の来日公演で彼のパフォーマンスを見たときに、そのあまりの完成度に「これって大半は口パクに違いない」と思いこんでいたけれど、この映像を見てしまうと、もしかしてマイケルって正真正銘の天才で、あの日のパフォーマンスも口パクなんかじゃなかったんじゃないかと思えてきてしまう。それくらい、このリハーサルにおけるマイケルはしっかりとした歌を披露していた。
リハーサルを見学している仲間のミュージシャンやダンサー、スタッフらが、まるでファンのように拍手喝采している姿にも心が温まる。ホントにみんな楽しそうだ。
でも、それだからなおさら、マイケルの突然の死を知ったとき、彼らが感じただろう喪失感の大きさが思いやられて、いたたまれなくなる。一世一代の大仕事が、本番のわずか一週間前に、愛するヒーローとともに突然消滅してしまったんだから……。きっと世界が瓦解したような衝撃だっただろう。僕はそれほどまでの喪失感を味わったことはないと思う。
実現しなかった夢の断片のようなこの映画を観ながら、僕らはその未完成なままでも十分に輝かしいステージに目を奪われつつ、それが完成することなく失われてしまったという悲しい事実を前に、ひそかに胸を痛める。
(Nov 29, 2009)