2013年9月の本

Index

  1. 『エドの舞踏会(山田風太郎明治小説全集八)』 山田風太郎
  2. 『博士が愛した数式』 小川洋子
  3. 『天使エスメラルダ:9つの物語』 ドン・デリーロ
  4. 『牧師館の殺人』 アガサ・クリスティー

エドの舞踏会(山田風太郎明治小説全集八)

山田風太郎/ちくま文庫

エドの舞踏会―山田風太郎明治小説全集〈8〉 (ちくま文庫)

 山田風太郎の明治シリーズの特色は、その時代に実際に生きた有名な政治家や文化人を多数出演させて、物語に広がりと意外性を加えているところにある。
 ただ、これまでに読んだ作品では、そうした実在の有名人たちはあくまで脇役に徹していた。『地の果ての獄』の有馬四郎助や『明治斬頭台』の川路利良のように、語り手が歴史的人物という作品はあったけれど、それにしたって知る人ぞ知るというレベルの人たちだし、彼らはあくまで語り手であって、物語のメインはあくまで架空の人たちだった。
 でもこの作品はちょっと違う。鹿鳴館での舞踏会をきっかけとして、そこに集まる政治家たち──伊藤博文や井上薫、山県有朋、大隈重信ら──の妻に焦点をあわせた連作短編集で、要するに登場する主要キャラクターの過半数は実在の人物なのだった。
 とはいえ、ここで描かれる夫人たちの波乱の人生が、すべて実際の出来事なわけもない。ウィキペディアには旦那のページがあり、そこに妻として彼女たちの名前はあっても、彼女たち自身のページはない。山田風太郎は奔放な想像力でもって、明治期に名を残した偉人たちを陰で支えた女性たちのもうひとつの姿を浮かび上がらせてみせる。
 主役が実在の女性たちという作品の性格上、これまでの風太郎作品とは違って、ほとんど流血事件が起こらない。その点もこの作品の特色だと思う。その分、他の連作短編のように最後に畳み掛けるような大どんでん返しがあったりもしないけれど、いまの僕にはこれくらいのさじ加減がちょうどいい。明治ものではこの作品がいちばん好きかもしれない。
(Sep 15, 2013)

博士が愛した数式

小川洋子/新潮社/Kindle版

博士の愛した数式 (新潮文庫)

 Kindle版が安くなっていたので、ためしに読んでみましたシリーズ第何弾は、僕にしては珍しく、馴染みのない日本人作家の作品。
 映画化もされているし、本屋大賞の第一回受賞作品とのことだから、物語としては有名なんでしょう。記憶が八十分しかつづかない元数学教授と、彼のもとへ通うようになった家政婦さんとその息子(小学生)の交流を描いている。
 記憶がつづかない人の話といえば、まず思い出すのはクリストファー・ノーランの『メメント』。あの映画は主人公の記憶がつづく時間を十分間として、なおかつ物語のシーケンスをそれ以下に区切って断続的に描くことによって、記憶がつづかない男の苦悩と焦燥を観客に疑似体験させつつ、最上級のスリルを煽るという、非情に稀有な作品だった。
 同じように記憶がつづかない人物を主役に据えながら、こちらの小説はまったく手法もテイストも異なっている(そもそもジャンルが違うというのは置くとして)。
 こちらは記憶障害を持った人ではなく、その人を見守る側に視点を固定して、外側からその障害へとアプローチしてみせる。ときにはコミカルに、ときには悲しみを漂わせつつ。その語りは女性らしく、やわらかで心地よい。全編にちりばめられた数学にまつわる薀蓄{うんちく}も嫌みがないし、悪くない小説だとは思う。
 ただ、僕には節々に引っかかるところがあって、素直に物語に入りきれなかった。
 たとえば、八十分しか記憶がつづかず、毎日会うたびに初めましての挨拶から始めないといけない人と、こんなふうに親密な交流ができるものかという部分。僕には博士のなかに徐々にルート親子の記憶が積み重なっているようにしか思えないのだけれど、この小説はその部分がきちんと説明できていないように思った。
 金に困っているはずの家政婦さんが、プロ野球のチケットを博士の分まで購入するというのも、貧乏人の感覚からするとやたらと説得力に欠けるし、そもそも人混み嫌いでシャイの博士が──彼からすればいつでも初めて会った人であるはずの──家政婦親子と野球観戦に行ったり、誕生日会を開いたりするってのもどうなのかと思う(博士をスタジアムに連れてゆく家政婦さんのデリカシーのなさも疑問)。全身にメモを貼りつけた博士の奇矯な姿とか、逆さ言葉を一瞬でひねり出せる特殊な才能とか、野球を見たことがないのに野球カードを集めていたりする設定とか、奇をてらった不自然なディテールもいちいち引っかかる。
 そんな風に、僕にはこの小説のあちらこちらに作り手の作為が透けて見えてしまって、その不自然さゆえに楽しみ切れなかった。読み始めたころにはよさそうな小説だと思っていたのに、読み進むにつれて徐々に失速してしまった感じ。あまりのスピード感に記憶障害を疑う余裕さえ与えてもらえなかった『メメント』とは対照的だった。残念。
(Sep 15, 2013)

天使エスメラルダ:9つの物語

ドン・デリーロ/柴田元幸・上岡伸雄・都甲幸治・高吉一郎・訳/新潮社

天使エスメラルダ: 9つの物語

 ドン・デリーロ、キャリア初の短編集。1979年から2011年までに書かれた短編が時系列に収録されている。
 僕がデリーロの本を読むのは、これが五作目。とはいえ、過去に読んだ長編四作の内容はほとんど覚えていなくて、この本の表題作『天使エスメラルダ』が大長編『アンダーワールド』の一部に組み込まれているということを解説で読んで、「え、そうなの?」と思ってしまうような駄目読者なので、読んだと語るもおこがましい。
 とはいえ、この本に関しては、短編集という性格上、ひとつひとつの物語が少ないページでさくっと終わるので、デリーロの作品ではこれまででもっとも読みやすかった。作風もバラエティに富んでいて(なかにはSFまである)、それそれが違った角度から人間性のさまざまな側面(主にあまり人に見せたくない部分)を浮かび上がらせるような短編ばかり。どの作品もはっきりとしたオチがあるわけではないけれど、それゆえの余韻にはこと欠かない。とくに『天使エスメラルダ』は表題作に選ばれるだけあってイメージが鮮烈だった。
 あと、刑務所で幼い娘たちの出演するテレビ番組を観る経済犯の話とか、見ず知らずの女性をストーキングしたあげく、映画館の女子トイレで映画論を語ってしまう映画オタクの話とかも、痛すぎて響く。どちらかというと、個人的にはそれら近年の作品のほうが好きだった。
 いずれにせよ、これは解説にある通り、デリーロの入門編としてはもってこいという意見に納得の一冊。これを読んだら、あらためて『アンダーワールド』を読み返してみたくなった。
(Sep 18, 2013)

牧師館の殺人

アガサ・クリスティー/羽田詩津子・訳/早川書房/Kindle版

牧師館の殺人 (クリスティー文庫)

 およそ三週間ぶりのクリスティーは、十二冊目にしてようやくミス・マープル初登場の記念すべき一冊。
 ミステリとして見た場合、トリック自体は(ネタばれごめん)ポアロ第一作の『スタイルズ荘』の焼き直しという感じで、いまいち目新しさがない気がしたけれど、それでもまぁ、僕自身はそのことを最後まで見抜けなかったし(再読とは思えない記憶力のなさ)、なによりこの作品はミス・マープルを登場させた時点で勝ち。近所の美人からいじわるばあさん扱いされている名探偵ってのがもう最高だと思う。
 この作品を含めて、(初期の?)クリスティー作品には「わーい、殺人事件だ~」みたいな軽すぎる面がけっこうあって、震災やなんだで、人の命の重さを実感させられている昨今の感覚からすると、どうかと思うことも少なくないのだけれど、それでもなんだかんだで夢中で読めてしまうのは、ミステリとしての優れた構成力とともに、そのユーモアのセンスの効用も大きい。オールド・ミスの老嬢を名探偵にすえたこの作品では、とくにそのユーモアのセンスが前面に出ている気がした。
(Sep 18, 2013)