2010年2月の本

Index

  1. 『堕ちてゆく男』 ドン・デリーロ
  2. 『ドリームガール』 ロバート・B・パーカー
  3. 『誕生日の子どもたち』 トルーマン・カポーティ
  4. 『ナイン・ストーリーズ』 J・D・サリンジャー

堕ちてゆく男

ドン・デリーロ/上岡伸雄・訳/新潮社

墜ちてゆく男

 個人的には 『アンダーワールド』 を読んで以来、4作目となるドン・デリーロの(邦訳)最新作。
 デリーロがこの小説でとりあげたテーマは、ずばり9・11の同時多発テロ。あの事件に人生を左右されたひと組の家族を中心として、アメリカ国民が受けた心の傷の深さを描き出す。
 夫のキースは国際貿易センターで働いていた弁護士。彼はあの事件を当事者として体験して、茫然自失のまま、別居中だった妻のもとを訪れる。誰のものともわからないブリーフケースを片手に。顔じゅうにガラスの破片が刺さった血みどろの姿で。
 もとより別居していたわけだから、夫婦の仲は冷めている。それでも妻のリアンは彼を受け入れて、ともに暮らし始める。崩壊直前だった彼女たちの家庭は、同時多発テロのトラウマを拠りどころに、いびつながらも形を取り戻す。
 とはいっても、これを機にふたりの仲が急速に回復したりはしない。彼らはそれぞれにあの事件をトラウマとして抱え、二度とそれ以前の自分に戻ることができない。すれ違い気味の彼らの行動を、デリーロはそれぞれ別々の視点から交互に描いてゆく。ふたりのあいだのつかず離れずの距離感にはとても説得力がある。
 ふたりの行動に絡んで、さらに多くの人々が群像劇的な形で加わる。ふたりの幼い息子ジャスティン(彼のエキセントリックな言動は、そのままポスト同時多発テロ期のアメリカの不安定さを反映したようで、心穏やかには読めない)。事件の実体験をキースと共有する黒人女性のフローレンス。リアンの母親とその恋人のドイツ人画商マーティン。リアンがケースワーカーを務める認知症の老人たち。事件の当事者であるテロリストたち。そして作品のタイトルにもなっている「落ちる男」。
 「落ちる男」は、同時多発テロの際に撮影された、国際貿易センタービルから転落する男性の写真のタイトルだとのことで──Wikipediaにも解説があった──、この小説での「落ちる男」は、その男性の形態模写をして、無許可でビルの屋上などから宙吊りになってみせるゲリラ的パフォーミング・アーティスト(ただし彼については詳しくは語られない)。見る者すべてに9・11を思い出させるその人の無言のパフォーマンスに、リアンは絶えず心を乱される。
 この物語は9・11のその瞬間から始まり、キースとリアンを中心にした人間模様を描き出しながら、結局どこへも行き着かずに終わってしまう。安易な解決や気休めはまったくなし。デリーロがこの小説を書いた時点では、9・11でアメリカが受けた深い傷はまったく癒えていないし、いつ癒えるかもわからなかったということなんだろう。
 タイトルである『堕ちてゆく男』のパフォーマンスに象徴される、その宙ぶらりんな感覚こそが、この小説のメイン・テーマなのではないかという気がした。
(Feb 09, 2010)

ドリームガール

ロバート・B・パーカー/加賀山卓朗・訳/早川書房

ドリームガール (ハヤカワ・ノヴェルズ)

 1月18日にロバート・B・パーカーが亡くなってしまったので、追悼の意味で急遽{きゅうきょ}読むことにしたスペンサー・シリーズの第34作。
 この作品のポイントは、いうまでもなくエイプリル・カイルの存在。 『儀式』 と 『海馬を馴らす』 に登場した不遇な少女が、すっかり大人になって、見まごうばかりの美女としてスペンサーの前に姿をあらわす。『海馬を馴らす』 が13作目だから、じつに21作ぶりの登場。
 エイプリルといえば、スペンサーにとっては、『初秋』 のポール・ジャコミンと並ぶ特別な存在だ。ポールとのように擬似親子というほど深い間柄ではないけれど、自らがその人生に大きく関与したという点においては、より強い責任を感じているだろうという存在。
 そんな彼女が今回はみずから進んでスペンサーの助けを求めてくる。彼女がパトリシア・アトリイから経営を任されている娼館でトラブルがあったという。
 そう、彼女はいまや単なる娼婦ではなく、娼館のマダムなのだった。ポールが立派な大人に成長したのと同じように、彼女も(娼婦ながら)一人前の大人になって、立派に身を立てているんだ、ああよかったなぁ……と思ったら、さにあらず。
 彼女がいまだに困った人だというのが、話が進むに従って徐々にあきらかになってゆく。で、彼女のことを気にかけているスペンサーは、そうとうやりきれない思いをさせられることになる。読んでいるこちらまで、居たたまれなくなる。
 そんな話なものだから、パーカーお得意のユーモアにも切れがない。いつものように笑いながら読むには、ちょっとばかり苦みが強い仕上がりの作品。パーカー追悼というには、ややふさわしからぬ印象の一冊だった。
 いやしかし、これでもうスペンサーに会えるのもあと3冊かぁ。名残り惜しすぎる……。
(Feb 09, 2010)

誕生日の子どもたち

トルーマン・カポーティ/村上春樹・訳/文春文庫

誕生日の子どもたち (文春文庫)

 村上春樹がトルーマン・カポーティの作品のうちから、イノセンスをテーマにしたものを選りすぐって翻訳したという短篇集。
 収録されているのは、表題作 『誕生日の子どもたち』 ほか、『感謝祭の客』、『クリスマスの思い出』、『あるクリスマス』、『無頭の鷹』、『おじいさんの思い出』 の全六編。
 このうち 『クリスマスの思い出』 はつい先日 『ティファニーで朝食を』 で読んだばかりだし、表題作ほか三編は 『夜の樹』 に収録されているので──おぼえちゃいなかったけれど──、僕が初めて読むのは 『あるクリスマス』 と 『おじいさんの思い出』 の二編のみ。再読する作品のほうが多い上に、『無頭の鷹』 を除くと、あとはすべて少年の日の思い出話だというのもあって、なんとなくノスタルジックな気分にさせられる一冊だった。幼いころの思い出を語るカポーティの文章はとても鮮やかだ。
 今回読んで、おっと思ったのは、表題作の 『誕生日の子どもたち』。タイトルの意味はまるで不明ながら、近所に越してきたエキセントリックな少女にまつわる悲しくせつない思い出を、第三者である青年が回想するそのスタイルが、その後のジェフリー・ユージェニデスの 『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』──映画 『ヴァージン・スーサイズ』 の原作──にまんま通じる。思わぬところにアメリカ文学の潮流のひとつを見いだしたようで、ちょっとばかり気分がよかった。まあ、ささやかな自己満足だけれど。
(Feb 17, 2010)

ナイン・ストーリーズ

J・D・サリンジャー/柴田元幸・訳/ヴィレッジブックス

ナイン・ストーリーズ

 柴田元幸氏がサリンジャーの 『ナイン・ストーリーズ』 を新たに翻訳したというんで、いい機会だからひさしぶりに読み直そうと単行本を入手して、はや一年弱。そろそろ読もうと思っていた矢先に、まるでタイミングを見計らったかのように、サリンジャーの訃報が飛び込んできた。
 僕にとってサリンジャーはそれほど思い入れの深い作家ではなかったし、隠遁生活に入ってひさしく、すでに過去の人というイメージだったから、ヴォネガットやパーカーのときのような喪失感はないけれど、それでもひとつの時代に確かな足跡を残した作家の訃報には、やはり寂しさをおぼえる。なまじ、ここへきて村上春樹氏の 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 やこの本で、その魅力を再発見したところだけになおさらだ。
 若いころの僕はホールデンに近親憎悪的な感情を抱いていたため、『ライ麦畑』 を好きだと言えないところがあったのだけれど──本当にこの本が好きな人が多いなら、世の中こんなに生きにくいわけないだろうとか思っていた──、この 『ナイン・ストーリーズ』 は素直に好きだった。『バナナフィッシュ』 や 『笑い男』、『エズメ』 あたりが、特に気に入っていたように思う。まあ、あとの作品については、まったく忘れてしまっていたけれど。
 で、今回二十年ぶりかそこらで読み返してみても、やはりこの本はおもしろかった。というか 『ライ麦畑』 同様、年をとったいまのほうが、なおさらおもしろく読める気がした。もともと好きだった作品はもとより、記憶に残っていなかった作品まで、すべてがいい。もはや捨て駒なし。どうやら読者としての僕は、二十年かけてようやく若き日のサリンジャーに追いついたらしい。なんだかなぁと思う。
 この好感度の高さが柴田さんによる新訳のおかげかというと、読み比べてみたわけではないけれど、たぶん違うと思う。少なくてもタイトルだけで言えば、僕は旧訳で野崎さんのつけた 『バナナフィッシュにうってつけの日』 や 『愛らしき口もと目は緑』 というタイトルのほうが邦題として断然好きだから(柴田訳では 『バナナフィッシュ日和』 と 『可憐なる口もと 緑なる君の瞳』)。なので単純に本文に関しても類推するに、一概に新訳のほうがよくなっているとは言い切れなさそうな気がしている。
 ま、時間があれば、いずれ両者を読みくらべてみたい。積読がなくなった{あかつき}には、野崎訳の新潮文庫をポケットにしのばせて町へ出よう。
(Feb 18, 2010)