2010年1月の本
Index
- 『越境』 コーマック・マッカーシー
- 『スクール・デイズ』 ロバート・B・パーカー
- 『ウルトラマリン』 レイモンド・カーヴァー
- 『ボブ・ディラン自伝』 ボブ・ディラン
- 『鉤』 ドナルド・E・ウェストレイク
越境
コーマック・マッカーシー/黒原敏行・訳/ハヤカワepi文庫
僕はこれまでにコーマック・マッカーシーの作品を3作読んでいるけれど──でもって、そのうちの 『すべての美しい馬』 は読んだのがかなり前なので、ほとんど覚えていないけれど──、4作目のこれがもっとも文学度が高いと思った。これまでの作品がどれもハードボイルドと文学の狭間(ところにより若干文学寄り)という印象だったのに対して、これはハードボイルド文学の極北とでもいった風格がある。しかもボリュームも過去最高の650ページ超。いやぁ、おかげで手こずった、手こずった。読み終わるのに3週間以上かかってしまった。
物語の始まりは、父親の牧場を荒らす狼を罠にかけて捕まえたカウボーイの少年(16歳)が、その牝狼に対してなぜだか仏心をおこして、メキシコの山奥へと逃がしてやろうと思いたち、ひとり国境を越えてゆくという話。少年は家族にひとことも告げずに、父親のライフルをたずさえて、単身メキシコへと乗り込んでゆく。
この部分が母国で絶賛されたと解説にあるけれど、僕もこの狼に関するエピソードだけで普通の長編一作分くらいの筆圧があると思った。すごい読みごたえがあった。
それなのに、この小説ではそのパートが全体の三分の一に過ぎないんだから恐れ入る。最初は狼の話だけで全編を引っぱるのだろうと思っていたら、途中で早々とその話にケリがついてしまって、それから先がまったく話が読めなくなった。
ミステリやスリラーのように解くべき謎も戦う相手もいないので、いったいこの少年は──もしくはこの物語は──これからどこへ向かうんだろうと不思議に思っていると、これがまた、その先にも思わぬ展開が待ち受けている。狼の話もいいけれど、このあとのエピソードも負けていない。すげー、コーマック・マッカーシー。
きわめて文学的でありながら、ハードで端正で男くさくて悲しいこの小説は、まさに二十世紀末に生まれたハードボイルド文学の頂点ともいうべき作品じゃないかと思ったりする。軟弱な僕の手には余るけれど、それでもこれは素直にすごかった。脱帽です。
(Jan 05, 2010)
スクール・デイズ
ロバート・B・パーカー/加賀山卓朗・訳/早川書房
このシリーズを一手に引き受けていた菊池光さんがなくなってしまったため、翻訳家が加賀山卓朗へと替わった、おなじみスペンサー・シリーズの第33作。
僕はこれまでこのシリーズはずっと文庫だけで読んできたのだけれど、まるで菊池さんのリタイアにあわせたかように、前作から文庫版の装丁が変わってしまい──ハヤカワ文庫全体のサイズが変わった(ちょっと背が高くなった)のにあわせて、なぜだかデザイン変更することにしたらしい──、それがあまりに味気なくてどうにも好きになれないので、ちょうど翻訳家が替わるという節目でもあることだし、この作品からは思いきって単行本で読むことにした(ちょっと贅沢だけれど)。ということで、個人的には記念すべきスペンサー・シリーズの単行本第一弾。
今回の話はスペンサーが、ハイスクールで無差別銃撃事件を起こした生徒の祖母から、孫の無実を証明して欲しいと頼まれるというもの。アメリカで起こった似たような事件を題材にして、パーカーは青少年の心の闇に迫ってみせる。
──なんて書いてみたけれど、事件の真相はとてもパーカーらしいものだ(どうパーカーらしいかは読んでのお楽しみ)。でもって、ちょっとばかり感動的。渦中の少年がその胸のうちを吐露する場面で、僕は思わずじーんときてしまった(このごろ涙もろい)。スペンサー・シリーズを読んで泣きそうになるなんて思ってもみなかった。
まあ、とはいっても涙腺に訴えるのはその一箇所だけで、大半はいつもどおりのユーモラスな語りで占められている。少年による無差別殺人という悲惨な事件を扱いながらも、決してシリアスになりすぎない──かといって不真面目なわけでもない──その絶妙の語り口があいかわらず見事だ。
あと、この作品のポイントは珍しくスーザンとホークが出てこないこと。スーザンはどこぞの学会に出かけているという設定で、ラストシーンで帰ってくるまでは電話での会話にしか登場しない。ホークにいたっては、前作で出ずっぱりだったせいか、有休をもらったかのように一度も出てこない。スーザンと離れていることは一、二度あった気がするけれど、ホークがまったく出てこないなんて、ひさしくなかったんじゃないだろうか。
なんにしろ、このレギュラーふたりが不在なため、スペンサーは今回、ほぼ全編をひとりきりで行動している(もしくは犬のパールとふたりで)。おかげで「私立探偵が独力で難事件に挑む」という、正統的なハードボイルド色がいつになく強くなっている。とはいっても、事件の舞台はハイスクールだから、聴き込み相手の多くはティーンエイジャー。つまりこの作品は、典型的なハードボイルド・ヒーローがいまどきの若者たちと対決するというミスマッチな構図になっているのだった。こういうなにげない設定の妙が、ハードボイルドとしては異例の長寿となったこのシリーズを支えているんだろう。
いや、これはおもしろかった。なんだか、この頃は以前に増してこのシリーズが好きになっている気がする。この先にまだ4作も未読の作品があって、それをいつでも好きなときに読めると思うと、ちょっぴり幸せな気分だったりする。
(Jan 10, 2010)
ウルトラマリン
レイモンド・カーヴァー/村上春樹・訳/村上春樹翻訳ライブラリー
白状します。この本はきちんと読めませんでした。
新年早々、詩集なんか読もうと思ったのがバカだった。いまの僕には詩を読むのに必要なだけの集中力がなかった。
そもそも詩なんてものは、言葉からいかにイメージを喚起するかが勝負の分かれ目だろうに(なんの勝負だ)、その点ではじめから負けている。読んでいても、言葉が目から入ってどこにもとどまらず、後頭部からするりと抜け出て行ってしまうようで、まったく僕の内側に残らない。
これが小説ならば、ちょっとばかり読み飛ばしても、物語の吸引力に引きつけられて、いつのまにかその世界に……ってことになるんだけれど、詩ではそうもいかない。一編が長くても二、三ページなので、あっという間、気がつけば、なんにも残らずに終わっている。ということで、僕にはこの本について、語るべきことがほとんどない。
かろうじて印象に残っているのは、この本の中でもっとも具体的な物語のある 『電話ボックス』 という作品。あともうひとつ、『絵を描くのに必要なもの』という、そのタイトル通り、絵を描くのに必要な道具や心意気を羅列した詩(「ルノワールの手紙より」というコメントがついている)。とくにその最後の三行のフレーズに、おっと思った。
キャンヴァス以外のことすべてに対する無関心
機関車みたいに働く能力
鉄の意志
これって「いい文章を書くときに必要なもの」と置き換えてもそのまま通じると思う。ああ、いまの僕にはないものばかり……。
(Jan 14, 2010)
ボブ・ディラン自伝
ボブ・ディラン/菅野ケッヘル・訳/ソフトバンク パブリッシング
祝・来日記念ということで、ようやく読んだボブ・ディランの自伝。刊行と同時に購入したのに、発行は05年7月だそうだから、じつに4年半も放ったらかしになっていたらしい。いかんなぁ。もっと本を読まないと。
いやしかし、この本は『自伝』といいながら、あまり自伝っぽくない。
なんでもディランは出版社とこの本を含めて三冊を書くという契約を結んでいるんだそうで、これはそのうちの第一弾。つまり三分の一にしか過ぎない。英語の原題は 『Chronicles Vo.1』 だから、一応そうとわかるけれど、邦訳は 『ボブ・ディラン自伝』 とあるだけで、タイトルを見てもそんなことわからない。それってどうなのよと思ってしまう。
まあ、要するにディラン本人はこれを「自伝」ではなく「年代記」と名づけているわけだ。そういわれてみると、なるほどという感じ。たしかに自伝というよりは、それぞれの時代をピンポイントで切り取って組み合わせたような内容になっている。しかも彼は自らの人生を語るにあたって、時系列を無視した、意外なアレンジを加えている。
短めの第1章ではコロンビア・レコードと契約するためにオフィスに出向いたデビュー直前の思い出を語り、つづく第2章ではそれより少し前の、まだ方向性を模索していたニューヨークでの放浪生活の思い出へと時間を戻してみせる。
さあ次はデビューしてからの話だろうと思うと、あにはからんや。第3章ではいきなりデビューから何年もあとの第11作目、『New Morning』(邦題『新しい夜明け』)のころまで話がぶっ飛ぶ。つづく第4章ではさらに時計を進めて、80年代最後のアルバム、『Oh Mercy』 のレコーディングの顛末を詳細に語ってみせる、といった具合(本書のうちでは、おそらくこの章がもっともページ数が多い)。
第5章でようやく時間軸が戻り、コロンビアとの契約話のつづきが語られるのだけれど、この本はそこでおしまい。つまりディランはデビューさえ果たさないで終わる。 『風に吹かれて』 で時代の寵児となり、ロックに転向して大変な逆風を浴びた、もっとも華やかなりし時代については、いっさい語られていないのだった。
とくに評価が高くもない中期のアルバム一枚をめぐって、そのころ奥さんとツーリングに出かけたときの思い出などまで事細かに語っておきながら──さすが詩人だけあって、いちいち描写が素晴らしい──、その一方で誰もが知りたがる栄光の時代をいっさい省くという、この構成のものすごさ。まあ、とりあえず三冊書くという契約を交わしてあるんだから、もっともドラマティックな時期の話はあとあとまで取っておこうってことなんだろうけれど、それにしても、やってくれんなぁ、ディラン翁。ファンとしては、このまま2巻目以降が書かれずに終わらないよう祈るばかりだ。
個人的なところでいえば、『Oh Mercy』 は僕が一番最初に買ったディランのアルバムだし(アナログ盤で持っているのもこれだけ)、なおかつその直前のトム・ペティとのジョイント・ツアーというのも、僕がディランを生で観た唯一の来日公演だったりする(「ペティ絶好調、俺最悪」みたいなディランの愚痴がおかしい)。そこんところの思い出をたっぷり語ってくれているあたりに、自分とディランとの浅からぬ因縁を感じた……なんて馬鹿なことはないです、もちろん。でもまあ、それでもちょっとは嬉しかった。
読んでみて、その書きっぷりの見事さとか、ものの見方の意外な普通さとか、感じ入るところも多々あったけれど、話が長くなるので割愛。いずれにせよ、偉大な人たちが次々と姿を消してゆく昨今だけに、無事この続編が刊行されるよう、願ってやみません。
(Jan 20, 2010)
鉤
ドナルド・E・ウェストレイク/木村二郎・訳/文春文庫
二ヵ月ほど前に 『泥棒が1ダース』 を読んでウェストレイクが亡くなったことを知り、名残惜しくて本屋へと走ったものの、ドートマンダーもの以外の作品はほとんどがすでに絶版。かろうじて入手できた二冊のうちの一冊がこれ。
ウェストレイクがいなくなって寂しいとか思っているわりには、気がつけば僕はこの人の作品を、ドートマンダーもの以外には読んだことがなかった。リチャード・スターク名義で書いているもうひとつの柱、悪党パーカー・シリーズはタイミングを逸して読みそこなっているし、ドートマンダーものにしても、いいと思うようになったのは、ここ数年だった。それまでは適度におもしろいシリーズくらいにしか思っていなかった気がする。
ここへきて評価が急上昇したのは、僕の本の読み方が変わったせいだ。自分があまりに文章が下手なものだから、うまい文章を書く人に対する憧れがとても強くなった。なかでもユーモアあふれる語りを絶やさない作風の文筆家には最大限の敬意を惜しまない。その代表がカート・ヴォネガット、ドナルド・E・ウェストレイク、ロバート・B・パーカーといったあたり。彼らの作品は、物語がどうであれ、その文章だけで十分に楽しめてしまう。よりによってこれらの人たちが、ここ二、三年であいついで他界してしまったのは、なんの因果かと思う。
ウェストレイクのこの作品はノン・シリーズのサスペンス。長引く離婚調停のせいでスランプに陥ったベストセラー作家と、書いても書いても売れない貧乏作家が再会し、それぞれの問題を解決すべく、とある契約をとり交わすという話で、ちょっぴりホラーのようなあと味がある。ドートマンダーもののようには笑えないけれど、それでもやはりその語りの
そういえば、ドートマンダーものは笑える泥棒話ばっかりで殺人事件なんか起こらないので、この人の作品で人が殺されるのを読むのは、おそらくこれが初めてだ。ミステリ作家でそういうのってすごく珍しいがする。人の死なないミステリを書けるってのも、僕がウェストレイクが好きな理由のひとつかもしれない。
(Jan 29, 2010)