2008年5月の本

Index

  1. 『ラヴ』 トニ・モリスン
  2. 『プードル・スプリングス物語』 レイモンド・チャンドラー&ロバート・B・パーカー
  3. 『アムニジアスコープ』 スティーヴ・エリクソン
  4. 『ジェイン・エア』 シャーロット・ブロンテ

ラヴ

トニ・モリスン/大社淑子・訳/早川書房(トニ・モリスン・コレクション)

ラヴ (トニ・モリスン・コレクション)

 トニ・モリスン──どうでもいいようなことながら、出版物では大半が「モリスン」となっているけれど、ヴァン・モリソンやジム・モリソンの名前に親しんでいるロック・ファンの僕としては、「モリソン」として欲しかった──はアメリカの黒人女性作家。今年で77歳になるというのに、5年前に発表されたこの最新作がまだ8作目という寡作な人だ。僕は93年にノーベル文学賞を受賞して話題になったときに知って、それ以来フォローしている。
 この小説は、かつて黒人リゾート地として栄えた小さな村へ、ひとりのふしだらな黒人少女ジュニアが家政婦の仕事を求めてやってくるところから始まる。彼女が訪ねあてた屋敷では、ヒードとクリスティンというふたりの老女がひとつ屋根の下、たがいに激しく憎みあいながら暮らしている。少女が住み着いたことで、彼女たちのあいだでかろうじて保たれていた均衡が崩れ、物語が動き出す。幼いころには親友同士だったという彼女たちが、いったいなぜ憎みあうようになったのか。少女はどういう成り行きで、その屋敷にたどり着くにいたったか。いくつもの過去をさまざまな視点からフラッシュバックしつつ、物語は徐々にその全貌をあきらかにしてゆく。
 この作品もそうだけれど、トニ・モリソンの最近の小説は、難しい名画のジグソーパズルみたいだ。最初に物語の現状が枠として語られたのちに、そこに収まる過去の断片が、徐々にあきらかにされてゆく。固有名詞よりも代名詞を用いることが多く、語られているのがなんのことなのか、誰の話なのかがつかみにくい。僕ら読者は、注意深く文章を読み解き、それぞれのパーツがどこに収まるべきか、よく考えないといけない。雑な読み方をしていると、物語はきちんとした絵にならない。そんな風に読むのは、なかなか大変だし、骨が折れる。
 それでもいったん完成形が見えてくれば、しめたものだ。なんたって、たった6作の長編でノーベル文学賞を射止めたくらいの人だから、できあがる絵の見事さはその筋のお墨つき。どの作品も完成度が高くて、はずれがない。いつだって苦労して読んだだけのことはあったと思わせてくれる。その点は今回も例外じゃなかった。基本的には決していい話ではないのだけれど、それいて心地よい余韻の残る作品だった。
(May 06, 2008)

プードル・スプリングス物語

レイモンド・チャンドラー&ロバート・B・パーカー/菊池光・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

プードル・スプリングス物語 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 レイモンド・チャンドラーの未完の遺作をロバート・B・パーカーが完成させた作品だと聞いていたけれど、なんでもチャンドラーが書いたのは最初の四章だけということで、つまり正味三十ページにも満たない。残りはすべてパーカーの手によるもので、要するにストーリー自体はほぼ完全にパーカーのオリジナルということになる。そう知って、なんだかちょっと拍子抜けしてしまった。
 物語はリンダ・ローリングと結婚したマーロウがハネムーンから帰ってきて、プードル・スプリングスという砂漠のリゾート地(パーム・スプリングスがモデルとのこと)に仮の新居をかまえ、その地で新しく探偵オフィスを探そうというところから始まる。この部分までがチャンドラーの筆で、そのあとでカジノを経営する小悪党からマーロウが仕事を依頼されてから先がパーカーの担当。
 正直なところ、パーカーのマーロウはご本家のそれと比べると、セックスについてのほのめかしが露骨すぎて、やや品格が足りない印象がある。おまけにマーロウが結婚してしまっていることで、スペンサー・シリーズほかでおなじみのパーカー独自の恋愛観が前面に出てしまって、ますますパーカー色が強くなってしまっている。翻訳も菊池光氏が会話文の一人称に「おれ」を用いてしまっているせいで、マーロウが妙にマッチョでチャンドラーっぽくない。フィリップ・マーロウの最後の物語としてみるには、かなり疑問が残る作品だと思う。
 ただし、チャンドラーの遺作だなんて思わずに、一編のハードボイルドとして見たならば、決して悪い出来ではないとも思う。チャンドラーが残した冒頭部分は、ハードボイルドならではのユーモアに満ちていて、十分すぎるくらいに楽しいし──逆に楽しすぎるところがネックかもしれない──、そのあとを引き継いで一編の長編に仕立てあげてみせたパーカーのハードボイルド作家としての力量もさすがのひとことだ。
 結局、この作品の問題は、チャンドラーのスタイルがあまりにオリジナルである上に、ロバート・B・パーカーという人自身もまた、しっかりと独自のカラーを持っていることなのだと思う。
(May 06, 2008)

アムニジアスコープ

スティーヴ・エリクソン/柴田元幸・訳/集英社

アムニジアスコープ

 架空の大震災後の超時空的ロサンゼルスを舞台に、ホテル住まいの映画評論家(兼、作家)が、乱交パーティー気味の日々の果てに、愛も仕事もなにもかもを失ってゆく──と、おそらくそういう話。
 僕はいままでに翻訳されたスティーヴ・エリクソンの作品はすべて読んでいるのだけれど、恥ずかしながら、そのうちのひとつたりとも、まともにあらすじを説明できない。6冊も読むくらいだから、気に入っているのは確かなのだけれど、じゃあどこがいいんだと問われると困ってしまう。この作品も読み終えたばかりだというのに、すでにどういう本だったか、わからなくなりかけている。記憶喪失(アムニジア)をタイトルに冠した作品だけに、すでに忘れましたって言って済ませてしまおうかという気になる。
 この本の最後のほうには、こんな独白がある。

だがそれを言えば、私自身だって自分の本で自分が何を言っているのかいつもはっきりわかっているわけではなかった。自分が何を言っているのか、きちんとわかることが大事だと思ったことは一度もない。私にとって文字どおりの理解よりももっとリアルな場所から本は生まれてくるのだから。(p.225)

 柴田氏の解説によると、この作品には自伝的な要素が多く盛り込まれているそうだから、つまりこれはまさしく作者自身の言葉だと思っていいんだろう。そうか、エリクソン自身にだって十分にわかってないんだ。ならば僕が理解し切れなくても、ぜんぜん問題ないじゃん──そんな風に思ったりした。要するに幻視的と評される彼の作風が{かも}し出す、独特の世界観を味わえればそれでいいんだと思う。
 なにはともあれ、デビュー作 『彷徨う日々』 の主題だった架空の無声映画 『マラーの死』 が再び取り上げられたり、ローレンやらサリーやら、以前に聞いたような名前の女性が次々に登場したりして、この人の過去の作品とリンクしたところがそれなりにあるみたいだから、あまりエリクソン初心者には向かない本ではないかなという気がする。
(May 11, 2008)

ジェイン・エア

シャーロット・ブロンテ/小尾芙佐・訳/光文社古典新訳文庫(全二巻)

ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫) ジェイン・エア(下) (光文社古典新訳文庫)

 古典文学を読みやすい新訳でお届けしますといって、光文社が古典新訳文庫の刊行を始めてから、すでに1年半以上が過ぎた。このシリーズから出たドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』 が古典としては異例のベストセラーになったことで、それなりに話題になったので、ご存知の方も多いと思う──って、うちの奥さんは知らなかったようだけれども。
 若いころにあまり古典文学に親しんでこなかったことを少なからず後悔している僕は、このシリーズのアイディアに心の中でひっそりと喝采を叫んでいたのだけれど、残念ながらこれまで一冊も読む機会を作れないでいた。新訳文庫というくらいだから、刊行されるのは既に翻訳が存在する作品がほとんどで、さっさと買っておかないと手に入らなくなるという焦りが少ない上に、山積になって崩れんばかりの積読が、僕の行く手をふさいでいた。
 でもこんな調子で暮らしていたんでは、いつまでたっても古典なんて読めそうにない。ここいらで重い腰をあげて、積読が増えるのをいとわず、もっと文学度の高い読書生活を送ろうじゃないか──新年の計でそう思ってから、気がつけばもう半年近くが経過。歳をとると月日が流れるのが速くていけない。でもまあ遅ればせながら、ようやく読みました、光文社新訳文庫。とりあえず第一弾は 『ジェイン・エア』 ということで。
 いやあ、しかしながらこの小説は、噂にたがわぬ傑作だった。英米文学科出身のくせに、こんな名作をいままで読まずにいた自分の不明を痛感させられた。でも、この歳になってこんなにおもしろい小説と新たに巡りあえるってのは、ある意味じゃ読書家冥利につきるという感もある。あまりのおもしろさにページをめくる手が止まらなくなり、下巻なんて平日にわずか二日で読みきってしまった。
 僕にはこの作品、不遇な女性が玉の輿にのるまでを描く恋愛小説、くらいの漠然としたイメージしかなかったけれど、いざ読んでみると、そんなひとことで片付けられるほどシンプルな小説でもない。ストーリーは二転三転して非常にドラマチックだし、主人公はとても十九世紀の女性とは思えないほど主体性に富んでいる。
 物語はジェインの少女時代から始まる。幼くして両親を亡くし、義理の叔母のもとに身を寄せて暮らす彼女は、その叔母さんやいとこの子供たちから、散々いじめられている。そうか、きっとこの子が成長して玉の輿にのって、この嫌な叔母さんたちを見返すことになるんだ──安直にそんなシンデレラ・ストーリーを想像していると、まるで見当違い。そもそもジェイン・エアという女性は、容姿には恵まれていなくて、年じゅう「あんたは不細工だね」とか「変わった顔をしている」とか言われてしまうような女性で、これじゃあ、美しい王子さまに見そめられたりしようがない。初恋の相手となるロチェスターも武骨な顔をした中年男だし、美男美女の恋物語という少女マンガ的なロマンスからは、あらかじめ設定自体が逸脱している。
 とにかく見た目はぱっとしないジェインだけれど──ちなみにジェインの愛称がジャネットなんですね。初めて知った──、容姿で足りない魅力は、性格的なもので十分に補われている。この人のもの怖じしないまっすぐな性格は、ある意味では非常に現代的だ。たとえば、散々いじめられた叔母から家を追い出され、寄宿学校へ入れられることになると、彼女は別れ際にこの叔母に向かって「世界中で誰よりもあなたが嫌いです。二度と会いません」などと啖呵を切ってみせる。たとえ相手が大人であろうと貴族であろうと、正しいと思ったままを素直に口にする彼女の率直さには、封建的な十九世紀の女性とは思えないものがある。時代性の違い、男女の違いを超えて、僕は大いに共感したし、それゆえにそんな彼女にロチェスターたちが惹かれるようになるわけも、十分に納得がいった。
 十九世紀の小説だけあって、現代文学のように斜に構えたところは皆無だし、この小説を読む楽しさには、かなりマンガに近いものがあった。時間が許すことならば、いますぐもう一度読み直したいと思うくらい、おもしろかった。
(May 25, 2008)