2008年4月の本
Index
- 『ミドルセックス』 ジェフリー・ユージェニデス
- 『ダルジールの死』 レジナルド・ヒル
- 『骨の城』 アーロン・エルキンズ
- 『レベッカ』 ダフネ・デュ・モーリア
- 『エドガー・ミント、タイプを打つ。』 ブレイディ・ユドール
- 『殺意のコイン』 ロバート・B・パーカー
- 『変わらぬ悲しみは』 ジョージ・P・ペレケーノス
ミドルセックス
ジェフリー・ユージェニデス/佐々田雅子・訳/早川書房
これはまれにみる傑作だった。まさか 『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』 ──ソフィア・コッポラ監督の 『ヴァージン・スーサイド』 の原作──でデビューした作家が、二作目にしてここまですごい小説を書き上げてみせるなんて思ってもみなかった。読み終えるのが惜しいと思った小説なんて、ほんとひさしぶりだ。長いあいだ放置しておいたのが大まちがい。いやあ、これにはまいった。ピューリッツァー賞を受賞したのも納得の、まぎれもない傑作。二十一世紀のマスターピースと呼んでもいい作品なんじゃないかと思う。
ユージェニデスという珍しいラストネームはギリシャ系のものだとのことで、作者はこの小説の前半において、そんなみずからの出自をなぞるようにギリシャ系アメリカ移民の一家族、ステファニデス家の三代にわたる家族史をひも解いてみせる。
祖父母の代はトルコとギリシアの戦争により国を追われ、アメリカに渡ってデトロイトに住みつく。ときは禁酒法時代で、場所はアメリカの自動車製造の中心地、モータウンことデトロイト。ということで、若き日の祖父レフティーは、しばらくフォードの工場で働いたあと、職を追われて密造酒の闇取引に手を出すことになる。祖母のデズデモーナは誕生したばかりのブラック・ムスリムのモスクで仕事を得る。
二代目ミルトンとテッシーの世代のころには、第二次大戦があり、デトロイトでは全米最大規模の暴動が発生する。孫の代のチャプターイレヴン──語り手の兄──は、ベトナム戦争やヒッピー文化の真っただ中を生きる。
歴史上の出来事が起こるたびに、ステファニデス家の家族史にもなんらかの変化が巻き起こる。そんな風にこの小説の前半では、アメリカの現代史を色濃く反映した物語が、魅力たっぷりの大河小説として展開する。ユージェニデス自身がデトロイト出身のギリシア系アメリカ人であるから、物語のベースとなったのが、作者自身の出自にもとづく知識であるのはまちがいないだろう。
ただし、そうした物語の語り手は、ふつうの男性である作者とはまったく異なる、数奇な生まれつきの人物だ。カリオペ(カル)・ステファニデスは両性具有者で、誕生したときには女の子とみなされ、思春期を迎えるころになって、実は医学的には男性だったという診断を下されることになる。
両性具有、半陰陽、ふたなり、インターセックス、アンドロジニー、ヘルマプロディトス……。呼び方はいろいろあるようだけれど、とにかくこの小説の語り手は、性発達障害により生まれたときから男性器が未発達だったために、十代なかばまで女の子だとみなされていた。彼女は男性と女性、両方の機能を兼ね備えているわけではなく、どちらとしても不完全な、中途半端な存在だ。そんな彼(彼女)が思春期を迎えて、ついに自らの本当の姿を知り、その真実と向き合うまでの葛藤が、この小説の後半のメイン・テーマとなる。話の中心が彼女の家族のことから彼女自身のことへと移り変わるのにともない、作品はそれまでの大河小説然とした
ここからがまたいい。思春期を迎えて、まわりの女の子たちの胸がふくらみはじめ、初潮を迎えるなか、カリオペはひとり、そうした成長から見放されている。そんな自分への不安感がたまらなく切実だ。
やがてカリオペはある同級生と激しい恋に落ちる。といっても彼──この時点では彼女──が通っているのは女子校なので、相手の同級生というのは女の子。つまり二人の関係は同性愛ということになる。さらに言うならば、カリオペの性発達障害を促すきっかけとなるのは、彼女の祖父母が、血のつながった
両性具有、近親相姦、同性愛──そう書き並べてみると、この作品の中であつかわれるセックスは非常にアブノーマルで扇情的だ。けれど、この小説が素晴らしいのは、そうしたアブノーマルな性のあり方が、ごく普通のことに思えてしまうところ。もとから彼らが異常な性欲を有していたからそうなったわけではなく、たまたま巡りあわせでそうなってしまった──この小説を読んでいると、素直にそういう風に思える。デズデモーナとレフティーが姉弟の関係にもかかわらず、愛しあうようになってしまったことも、カリオペが男女の区別のつかない体に生まれついてしまったことも、彼女が同性を愛してしまったことも、運命のいたずらか、たまたまの巡りあわせ──そういう立場におかれれば、誰にでも起こりえる不幸だという風に思える。そしてそれぞれの不幸を抱えたまま、懸命に生きてゆく彼らの姿には、アブノーマルさをものともせず、十二分に共感できるものがある。要するにこの小説は読者に差別意識を軽々と飛び越えさせる。これが素晴らしいことでなくてなんだろう。
とにかくこの小説は、あらゆる面で破格。現代的なテーマをたっぷりと盛り込みつつ、小説としてのたたずまいはとても古典的だし、男女の相反する性を両方とも引き受けている主人公同様、作品自体にも相反する要素がごまんと詰め込まれている。あまりに内容が豊穣で、情けないことに僕にはその魅力のすべてを説明しきれない。この作品についてもっと知りたいという人は、この本の巻末に収録された柴田元幸氏のあとがきを読んでもらったほうがいい。さすがアメリカ文学の第一人者だけあって、じつに見事な解説をよせている。
なにはともあれ、これは掛け値なしの傑作。かなりボリュームのある小説だけれど、ひとりでも多くの人に読んで欲しい。
(Apr 12, 2008)
ダルジールの死
レジナルド・ヒル/松下祥子・訳/ハヤカワ・ミステリ
知らない人のためにあえて説明するならば、この作品のタイトルは、『シャーロック・ホームズの死』 とか 『ポアロの死』 とか 『明智小五郎の死』 とか、そういう意味あいのタイトルということになる。つまり主人公である名探偵が死んでしまうことをうたっているわけですね。
ただし、レジナルド・ヒルにはダルジール警視の老後を描いた短編がすでにあって、読者にはダルジールが死ぬことはないということがわかってしまっている。もとより、万が一ダルジールが死んでしまうとしたら、これがシリーズ最終作になるわけだから、出版社がそれを宣伝文句にしないわけがないし──まあ、このシリーズの場合、ダルジールと並んでパスコーが準主役を演じているので、ダルジール亡きあともシリーズは存続可能かもしれないけれど──、そういう発表がない以上、ダルジールが死なないというのは読む前からあきらかだ。
でも一方で、レジナルド・ヒルみたいなひねりの効いたユーモア・センスの持ち主が、仮にもこういうタイトルをつけるからには、なんとかダルジールを死なせてみせるんではないかという気がした。そうしたらなんと、冒頭でダルジールはいきなり爆破テロに巻き込まれ、心肺停止状態に陥ってしまう。
その場は一緒にいたパスコーの救命処置で一命を取りとめたダルジールだけれど、容態は深刻。その後も病院で二度目の心肺停止に陥ったりしつつ、この作品のあいだじゅう、ほぼ全編をとおして意識不明のまま、病院のベッドに横たわったままとなる。読んでいる僕らにとってはあり得ないダルジールの死も、登場人物たちにとってはそうではないわけで……。というわけで、この作品はダルジール不在のまま、巨体を失ってぽっかりと穴のあいたような喪失感に貫かれて展開する。そして終盤にはそのことを逆手にとったトリックも用意されている。
ということで、この作品でひとり主役をつとめるのは、当然ピーター・パスコーということになる。ダルジールと一緒にいたにもかかわらず、巨体の影に隠れていたため、爆発に巻き込まれても軽症で済んだ彼が、ボスの仇をとるべく、CATなる組織――『24』 のCTUのイギリス版みたいなものだと思う──の臨時メンバーとして、テロリスト探しに奔走するという話になっている。
ふつうの犯罪者ではなく、テロリストが相手ということで、このシリーズとしては、イレギュラーな内容の作品だと思う。パスコーがヨークシャー警察を離れて活動しているため、このところレギュラー格だったハット・ボウラーやシャーリー・ノヴェロが登場するシーンがまったくないのも、ちょっとさびしい。それでも基本的には、今回も楽しく読ませていただきました。
次回作はおそらく、ダルジールのリハビリの話、なんでしょうね。
(Apr 12, 2008)
骨の城
アーロン・エルキンズ/嵯峨静江・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
スケルトン探偵シリーズの第十三作目。このシリーズもいつの間にか、けっこうな数になっている。
この作品では、冒頭でギデオンとジュリーの知りあいが、熊に襲われて白骨死体で見つかったという話が出てくる。このシリーズの読者ならば──なんたって骨の話ですから──、きっとその白骨というのが実は別人で、本物の死体は別にあるんじゃないかと思うのが当然のながれ。
で、イギリスの古城で開かれる環境シンポジウムにジュリーが参加することになり、同伴でついていったギデオンが、退屈しのぎに浜辺に打ち上げられた白骨の鑑定を引き受けてみると、それが実はバラバラ殺人の被害者だったということがわかる。この時点で、ああ、じゃあその骨ってのが、熊に襲われたって人だろうと推測はできてしまう。
別にこの作品の主眼はそこではなくて、なぜ骨を見ただけでそのことがわかるのかにあるのだから、別にそういうことがわかってもなんら問題はないのだけれど、それでもやはりミステリである以上、そういう予定調和的な話の展開には、やや拍子抜けの感がある。その後、それほど意外性のある謎解きもないし、ミステリとしては平均以下という感じがする。でもまあ、こういうシリーズは、おなじみのキャラクターと再会できるだけで、それなりに楽しく読めるものなので、特に不満はないんですけど。
ということで、これは謎解きよりも、主人公のギデオンとイギリスの片田舎に左遷されて不遇をかこっている敏腕警部クラッパーの関係を楽しむべき作品という気がした。あと、死体や遺骨の匂いに特化していて、地面に埋められている何年も前の白骨を発見できる警察犬がいるというトリヴィアにも感心した。なんとなく、ちょっと不憫な犬って気もしちゃうけれど。
(Apr 12, 2008)
レベッカ
ダフネ・デュ・モーリア/茅野美ど里・訳/新潮文庫(全2巻)
僕には古典的な小説というのは、ほとんどがおもしろいものだという思い込みがある。長い年月が過ぎ、歳月の風化を受けてもなお読み継がれているような小説が、つまらないはすがないだろうという。だから、アルフレッド・ヒッチコックの同名映画の原作であるこの小説にも、前々から関心があった。このところ絶版になってしまっていて、読めなくなっていたのを残念に思っていたので、この新訳が登場したときには、けっこう嬉しかったし──まあ、表紙に惹かれなかったので、単行本で読もうとまでは思わなかったけれど──、だから文庫化された途端に、すぐさま手にとった。ところがこれが……。
いやー、あまり楽しめませんでした。ストーリーがどうしたという以前に、その一人称の語りが駄目。語り手の女性の性格や語り口が、あまりに性にあわない。なにかというとこの女性が、「あの人たちはこんな風に思っているんじゃないかしら」とかいう風に空想を始め、ありもしないような会話が延々と何ページも続いたりするのが、うっとうしいこと、この上ない。彼女が仮面舞踏会で失敗をやらかす場面なんて、もう初めから展開がみえみえで、読んでいてうんざりしてしまった。なんだか、好きでもない女の人の長話に嫌々つきあっているような感じ。翻訳家の女性や、解説をよせている恩田陸さんらが絶賛しているのは、要するに彼女たちが女性だからであって、僕らのような男どもには、あまり向かない小説なんじゃないかという気がする。
でもまあ、そういう生理的な好き嫌いを別とすれば、小説としては決して悪くないのかなと思わないでもない。「レベッカ」という女性名をタイトルにする一方で、語り手の名前を明示しなかった点とか独特だし、レベッカの過去があきらかになる終盤などはそれなりに読めた。とくにヒッチコックの映画に通じる──この作品の映画版はまだ観ていないので、ヒッチコック作品全般という意味においての──、あっけなさ過ぎるエンディングには、けっこう感心した。逆にヒッチコックの映画のほうは、こんなにあっけなくないみたいだけれど。
(Apr 12, 2008)
エドガー・ミント、タイプを打つ。
ブレイディ・ユドール/松本美菜子・訳/ソニー・マガジンズ
この小説、主人公がネイティヴ・アメリカンと白人のハーフの少年で、作者のユドールというラストネームもあまり馴染みがないものだったので、てっきり最近
ということでこれは、ジョン・アーヴィングやディケンズが引きあいに出されることの多い、アメリカ白人作家の処女長編。七歳のとき、郵便配達の車に頭を轢かれて瀕死の重症をおいつつ、奇跡的に生き延びた少年の、その後の波乱に富んだ少年時代を描いてゆく。
病院を出て孤児院へ、さらにはモルモン教徒の里親に引き取られと、若きエドガー・ミントくんの短い人生は波乱万丈だ。ややシモネタが多いのがなんだけれど──それも男女関係にまつわるものではなく、文字通り
ただしこの小説、僕にはなんだか全体的に人と人との関係性の描きこみが足りないように思えた。エドガーの命を救った不良医師、バリー・ピンクリーの存在が一番典型的だけれど、僕には彼とエドガーの関係──なぜ彼がエドガーに固執するのかとか、なぜエドガーが彼と敵対するのかとか──が、いまひとつぴんとこなかった。だいたいにして、エドガーのまわりで多くの人が死んだり、行方不明になったりしているのに、そのことに対する悲しみや喪失感というものがあまり伝わってこない。おかげで、それなりに楽しませてもらいはしたものの、あと一歩、感動に届かないといった感があった。
ちなみにこの本の原題は The Miracle Life of Edgar Mint で、直訳すれば 『エドガー・ミントの奇跡の人生』 ──いっちゃなんだけれど、かなり胡散臭いタイトルだ。おそらくそういう邦題だったらば、僕は読もうと思っていなかっただろう。その点、魅力的な邦題をつけた翻訳家(もしくは出版社)は偉かった。
ただしこの本、わざと厚手の紙を使って、アーヴィングやディケンズ並みの超大作を装ってみせたのは、ちょっとばかり詐欺まがいだと思う。実際には570ページくらいなのに、そうは思えないほど厚い。700ページ以上あった 『ミドルセックス』 より厚い。基本的に僕は厚い本が好きだけれど、それも内容をともなってこそ。このところ本棚から本があふれ出して困っているので、こんな風に無駄にかさばる本というのはあまり嬉しくない。
そうそう、音楽ファンとしておもしろいところでは、なんでもこの小説、R.E.M.のマイケル・スタイプが代表を務める配給会社がすでに映画化権を取得しているのだとか。マイケル・スタイプが映画製作にまで手を伸ばしているとは、ちょっと意外だった。
(Apr 27, 2008)
殺意のコイン
ロバート・B・パーカー/奥村章子・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
サニー・ランドル・シリーズの第六弾。
前作で熱く燃えあがったジェッシィ・ストーンとの関係は、あちらのシリーズの最新作で清算してしまったそうで、今回はジェッシィの出番はまったくなし。その代わりといってはなんだけれど、リッチーとの関係が再燃して、もとの状態に逆戻りしている。どうもパーカーの主要シリーズは、恋愛面ではすべてが同じような軌跡を描いていて、食傷気味の感がある。いやはや。
今回の話は、二十年前にサニーの父親フィルが手がけていて、迷宮入りに終わった連続殺人事件が再び発生したことから、退役警官であるフィルが捜査協力を請われ、彼がサニーも担ぎ出して、親子して警察の捜査に加わるというもの。スペンサー・シリーズの常連、マーティン・クワークやフランク・ベルソンとサニーが協力して事件の解決を目指すという、なかなか興味をそそる内容になっている。また、スーザン・シルヴァマンとサニーの父親とのあいだに「共通の知り合いがいる」という風に、何度かスペンサーの存在が意味深にほのめかされているのにも、たまらなく興をそそられる。
なんだかんだいいつつ、いつもパーカーは楽しい。
(Apr 27, 2008)
変わらぬ悲しみは
ジョージ・P・ペレケーノス/横山啓明・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
黒人探偵デレク・ストレンジ・シリーズの第四作。
この作品でペレケーノスは、いったん主人公の少年時代まで時計の針を巻き戻して、彼がいかにして警察官となり、またいかにして警察官を辞めることになるかを描いてみせている。いわば 『デレク・ストレンジ・ビギンズ』 とも言うべき趣向の作品で、このところハリウッドでこの手の作品が流行っているのを考えると、いかにも映画好きのペレケーノスらしい。
ただし、時間軸こそ過去に
(Apr 27, 2008)