2008年6月の本
Index
- 『ロリータ』 ウラジーミル・ナボコフ
- 『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』 村上春樹、吉本由美、都築響一
- 『どちらでもいい』 アゴタ・クリストフ
- 『この世界を逃れて』 グレアム・スウィフト
- 『オリバー・ツイスト』 チャールズ・ディケンズ
- 『オシムの言葉』 木村元彦
ロリータ
ウラジーミル・ナボコフ/若島正・訳/新潮社
タイトルと主題については知らない人はいないだろうけれど、いざ読んだことのある人となると、あまり多くはなさそうなロシア生まれの亡命作家、ウラジーミル・ナボコフの問題作、『ロリータ』。
現代社会において、おとなが青少年を性愛の対象にするというのは、数々の性的な禁忌のなかでも、もっともタブー度が高いと思う。同性愛のように両者の合意の上で成り立つものではなく、近親相姦のように先天的な危険をともなうわけでもない。おとなが性的かつ精神的に未熟なこどもを性欲の対象にするという行為には、ある種レイプに近い卑劣さがある。十歳の娘をもつ父親の身としては、それが犯罪とされるのも、もっともだと思えてしまう。
ナボコフという人は、そんな禁断のテーマを真っ正面からあつかって、とんでもない小説を書き上げてみせた。それもいまから五十年も昔に。しかも自らのネイティヴ・ランゲージではない英語で。これはまさに天才の
少女愛というタブーを真っ向から描くにあたって、ナボコフはそのショックを緩和するために、いくつもの緩衝帯を設けている。
まずは主人公をあらかじめ犯罪者として設定したこと。この小説は主人公、ハンバート・ハンバートの手記という形をとっていて、彼は殺人犯として(死刑の?)判決を待つ身という設定になっている。
殺人という最悪の罪を犯す人間ならばこそ、十二歳の少女に手を出せるわけだ。ナボコフは語り手を正真正銘の罪びととして描くことで、その許されざる内容を受け入れる準備を読者にうながす。で、彼がいかにして殺人を犯すにいたるかという、ミステリ的なおもしろさもつけ加える。
語り手の異常さというか、彼の非凡さはその文体からもあきらかだ。作者の分身ともいうべきこの人は、とにかくIQがやたらと高い。豊かな学識に裏打ちされた過剰な饒舌さは、それ自体で常軌を逸している(しかも難解)。数ページ読んだだけで、この人はぜったいに普通じゃないとわかる。実際に彼は、若いころに何度か精神病院に入ったことがあると告白している。
それでもハンバート氏は基本的には頭のいい人なので、自分の性癖が許されざるものであることはきちんと認識しているし、そのために少女を傷つけてはならないという常識的な判断力も持っている。
そんなだから、自らの願望が実現してロリータをわがものにしたあと、彼は喜び絶頂に達しながらも、同時に深い罪悪感にさいなまれることになる。歓喜と苦悩、天国と地獄のあいまにあって、さらに正気を失ってゆく。ロリータと主人公のロードムービー的な後半の記述は、虚実ないまぜとなった狂気の産物で、なにが本当だかよくわからない。
語り手は犯罪者にして精神病患者──つまり 『ロリータ』 という小説は、はなからまともではない人の物語として提供されているのだった。
さらには相手となる少女、ロリータ自身も、十二歳にしてすでに性経験のある、それなりに問題のある少女として設定されている(ちなみにロリータというのはドロレスの愛称だそうで、彼女のことを語り手は、ドロレス、ドリー、ロリータ、ローラ、ロー、Lと、さまざまな愛称で呼び分けている)。
ただ、だからといって異常者がふしだらな少女と許されざる関係を持ったという扇情的な側面だけで、ひとつの作品が文学史にその名を残し、社会的に認知されるはずもない。そこまで文学は浅はかじゃない。そうしたセンセーショナルな話題性を越える普遍的な文学性があるからこそ、この小説は五十年の歳月を越えてなお、読み継がれるべき作品として生きながらえているわけだ。ではその普遍性とはなにか?
こそばゆい言い方だけれど、それはやはり「愛」なのだと思う。
ふたりの関係がいかに人の道から逸れていようと、ハンバート・ハンバートのロリータへの狂おしいまでの激しい想いには、こちらの嫌悪感を越えて胸に訴えてくるものがある。ハンバート氏というのは、睡眠薬を飲ませて少女を眠らせて、そのあいだにもてあそんじゃおうとするような卑劣なやつだったりするわけだけれど、そんな許しがたい彼に対して、僕らは終盤、不思議と同情をおぼえることになる(少なくても僕はなった)。ロリータを失った彼の喪失感とその後の自滅的な暴走には、普遍的な悲しみがある。一方のロリータの人生にもまた、言いようのない哀れみを感じる。現実の社会では本来ならば救われざる彼らは、読者の心のなかでのみ救われる。これぞ文学の持つ力であり価値だと思う。
とんでもなく不謹慎で、やたらと読みにくいくせに、それでいてしっかりと心のすみになにかを残してゆく──『ロリータ』とは、なんとも厄介な傑作だった。
(Jun 08, 2008)
東京するめクラブ 地球のはぐれ方
村上春樹、吉本由美、都築響一/文春文庫
世の中のブームからは外れた、ちょっとだけ変なところへいってみようというコンセプトで、村上春樹が友人ふたりとともに記した、へそ曲がり気味のご当地ガイド。名古屋、熱海、ハワイ、江の島、サハリン、清里の六ヶ所が取り上げられている。
この本を手にとる人の多くは、村上春樹の本だからという理由で手にとって、でもってあまり村上春樹の出番が多くないので、肩すかしをくったような気分になるのだと思う。少なくても僕はそうだった。もとより三人名義の書籍だし、なにも春樹さんだけが目立つ必要はないけれど、それにしても春樹さんの文章が読めるのは、全体の三分の一にも満たないような印象だったので、できればもっとでしゃばって欲しかった。なんたって、一番の有名人なのだし。
まあ、あとのふたりも春樹氏がいっしょに旅行しようと思うような、気心の知れた友人だからか、文体的にはみんな似通ったテイストがある。村上朝日堂系とでもいった感触がある。あの手の村上エッセイが好きな読者には、なかなか楽しい読みものかもしれない。僕はどちらかというとエッセイストとしての村上春樹、それこそ村上朝日堂系のエッセイを書く村上春樹にはあまり魅力を感じない方なので、全体的にはちょっとなあという感じだった。
でも、それじゃあ終始お気楽な内容ばかりかというと、そうともいい切れない。熱海の風雲文庫(第二次大戦の戦犯者たちを礼賛する私設博物館のようなもの)やサハリンに関する記述など、やや語るに難しい対象を取り上げた部分では、春樹さんの筆にも自然と力が入る(筆なんて使ってないだろうけれど)。全体的にはお気楽な本書のなかで、ごくまれにおやっとさせるような真面目な表情をみせることがあって、これもまた春樹ファンには見逃せない本なんじゃないかと思わせた。
玉石混淆という言葉があるけれど、まさにそんな感じのする一冊だった。それこそ作り手の狙ったところなのかなと思わないでもない。
(Jun 15, 2008)
どちらでもいい
アゴタ・クリストフ/堀茂樹・訳/ハヤカワepi文庫
傑作 『悪童日記』 の作者、アゴタ・クリストフの唯一の短編集──というよりはショートショート集。
この人の特徴は語りにおける無駄のなさだと思っている。『ロリータ』 のウラジーミル・ナボコフと同じように、この人も母国のハンガリーから亡命して、ネイティヴではないフランス語で小説を書いているのだけれど、あきれるくらい饒舌なナボコフとは対照的に、この人の場合は寡黙なくらいに無駄な言葉を使わない。いつでも必要最小限の言葉でもって、きちんと伝えるべきことを伝えてみせる。
短いものはわずか2ページ、最長の短編(文庫化にあたって追加収録された作品)でも20ページに満たないという、初期の習作的掌編ばかりを集めたこの本にしても、すでにそうした特色ははっきりと表れている。僕みたいな無駄な言葉ばかり費やしているような人間は、その簡潔さには見習うべきことが多いと思うのだけれど、じゃあ真似できるかというと、なかなかそうはできない。
というか、中身のなさを無駄口をたたいてごまかしている僕のような男にとって、アゴタ・クリストフのようなスタイルは、感心こそできようとも、とても真似できるようなものじゃないという気がする。
(Jun 15, 2008)
この世界を逃れて
グレアム・スウィフト/高橋和久・訳/白水社
初めて読むイギリス人作家、グレアム・スウィフトの作品。
本当はこの人が書いた 『ウォーターランド』 という作品に興味をひかれたのだけれど、それよりもこっちのほうが絶版間近な雰囲気だったので、とりあえずこちらを先に読んでおくことにした(というか先に購入した)。そうしたら案の定、いまやこの本は絶版になっている。してやったり──といいたいところなんだけれども、そんな風に喜ぶほどには、僕はこの本に惹かれはしなかった。
この作品は、ひと組の親子のモノローグが交互に繰り返されるという形をとっている。父親のハリーはかつて報道カメラマンとして名を馳せた初老の老人で、とある事件をきっかけに引退して、いまは航空写真を仕事にしながら、ひっそりと暮らしている。娘のソフィーは双子の子供の母親で、母国を離れてアメリカ在住。夫とはうまくいっておらず、いきあたりばったりの不倫を重ねている。このふたりのモノローグが章ごとに交互に繰り返される。
父親のモノローグがありふれたスタイルの一人称なのに対して、ソフィーの独白はおもに、かかりつけの精神カウンセラーへの語りかけという形をとっている。彼女は父親のことをハリーと呼びつけにし、彼とはもう十年も連絡をとっていないという。そんな彼女の発言から、彼女が医者にかかるほどに情緒不安定なのは、どうやら過去に父親とのあいだになんらかの行き違いがあり、それがトラウマになっているらしいことが、徐々にあきらかになってゆく。
彼らふたりの独白に頻繁に登場するもうひとりの重要人物が、ハリーの父親、つまりソフィーの祖父にあたる人物。この人は大手の武器製造企業のオーナーで、つまり俗にいう死の商人というやつだ。父親は政府御用達の死の商人、息子は戦場の悲惨さをフィルムに納めて絶賛された報道カメラマンとくる。この設定だけですでに、こちらの親子の関係も一筋縄じゃいかなかったことがわかる。この二十世紀の縮図的な親子関係に、孫のソフィーが絡んだ一家三世代にわたる愛憎の物語を、息子とその娘、それぞれの視点を交差させて描き出してみせたところに、この小説の個性がある。
終盤になって、唐突に主人公ふたり以外のモノローグが登場したりするなど、なんとなく構造的にいびつさを感じてしまうところもあったし、読んでいるときにはそれほどおもしろいという気がしていなかったのだけれど、こうやって思い返しているうちに、これはこれで悪くなかった気がしてきた。作者はなかなか地力がありそうな人なので、予定通りほかの作品もつづけて読むことにしたい。
(Jun 25, 2008)
オリバー・ツイスト
チャールズ・ディケンズ/中村能三・訳/新潮文庫(全2巻)
かつて 『大いなる遺産』 や 『デビッド・カパーフィールド』 を読んで、そのおもしろさに夢中になり──ちなみに後者は 『ライ麦畑でつかまえて』 の冒頭で、ホールデンが自伝的な「しょうもない」小説のたとえとして名前を挙げている作品だったりしますが──、ディケンズはすごいと思ってから、はや十数年(推定)。なぜだかこれまで読めずにいた代表作のひとつ 『オリバー・ツイスト』 をいまさらながらに読んでみた。
けれど、この作品で僕は、かつて前述の作品を読んだときに味わったような、極上の読書体験は味わえなかった。ディケンズの作品としては初期のものなので、のちの作品ほどにはストーリーテリングの切れがないからなのか、それとも僕個人がその後に積み重ねたあまたの読書体験で変わってしまったのか──どちらかというと後者かなという気がするけれど──、前回ディケンズを読んでから、あまりにあいだが空いてしまっているので、なんとも言えないところが情けない。
それでもこの小説の主人公オリバー・ツイスト君はあまりに清廉潔白、純情無垢すぎて、まるで聖者か天使みたいだから、現代人の目からしてみると、あまり説得力が感じられないというのは、万人の意見が一致するところなんじゃないかと思う。
わけあって
あと、新潮文庫のこの版は、翻訳がかなり古い。殺人者の逮捕に向かった警察が「御用だ」って。――おいおい。ひさしぶりに読んだよ、「御用だ」なんて台詞。
でもまあ、考えてみれば、ディケンズは日本では江戸時代にあたる時期の作家なわけだし、時代考証的にはそれもありかもしれない。
天使のような少年の苦難と救済を描く、時代劇調の英文学の古典──これはこれでなかなか味があって貴重な気がした。
(Jun 29, 2008)
オシムの言葉
木村元彦/集英社文庫
前サッカー日本代表監督イビチャ・オシム氏──この本の記述に従うならばイビツァ・オシム氏──の半生に迫るノンフィクションの文庫版。
オシムさんが代表監督に就任したときにベストセラーになったので読んだ人も多いかもしれないけれど、この文庫版には氏が日本代表監督に就任してからを描いた文章が、まるまる一章加筆されている(単行本はジェフのナビスコ杯優勝がクライマックス)。そしてやはり、自分自身のサッカー・ライフと密接にリンクしたその部分こそが、僕にとってはもっともおもしろかった。なので単行本で読んだ人も要チェックだと思う。なんにしろ、装丁にいまいち惹かれなくて、文庫になってから読めばいいやと単行本を見送った僕としては、願ったり叶ったりの文庫版だった。
それにしても、この本を読んでみて、あらためて僕は、自分がオシムさんに惹かれたのも当然だと思ってしまった。朝から晩までサッカーのことしか考えていないようなオシムさんの人生は、音楽を聴き始めれば一日中スピーカーの前を離れられなくなり、本に夢中になれば食事を忘れる、そんな僕にとって非常に共感できるものがあった(まあ、僕のほうが圧倒的に浮気性だけれども)。好きなもののためならば、敵を作ることも厭わない──ただしそれも家族が無事であればこそ。そんな風なオシムさんの姿勢に僕は強く共感したし、自分のオシム氏に対する直感的な信頼は、決して的外れなものじゃなかったんだなと思った。
いやしかし、いまになってこの本を読むと、オシムさんが
二度と知りえないその事実を前に、僕らは失われた未来を思って、しばし胸を痛める。
(Jun 29, 2008)