2008年1月の本
Index
- 『ロング・グッドバイ』 レイモンド・チャンドラー
- 『その名にちなんで』 ジュンパ・ラヒリ
ロング・グッドバイ
レイモンド・チャンドラー/村上春樹・訳/早川書房
僕は村上春樹の読者としての歴史がけっこう長い。最初に読んだのが新刊として発売になったばかりの 『1973年のピンボール』 の文庫版で、その初版が1983年の刊行だから、かれこれ四半世紀のつきあいになる。
で、つきあいの長さという話をすれば、ミステリはもっと長い。小学生のころに初めて読んだ本はシャーロック・ホームズだったし、十代のころには、いまみたいに文学に興味がなかったので、小松左京や筒井康隆などの日本のSF作家に入れ込んでいた高校時代をのぞけば、読書の中心はいつだってミステリだった。つまり僕にとってミステリは、三十年来の趣味だということになる。
どちらも本当に好きな人からしてみれば、「けっ、お前なんか仲間に入れてやらないぜ」というレベルだとは思うけれど、それでも好きなことに変わりはない。その愛情はどちらも二十年以上の長きスパンにわたって継続してきたものだ。いくらB級読者とはいえ、これだけ長持ちしていれば、その思いはそうそう軽くもない。
ということで、中学生のころに初めて読んだレイモンド・チャンドラーの 『長いお別れ』 を、高校生のころから愛してやまない村上春樹が訳すことになったことは、僕にとって、なかなか胸が躍るような事件だったわけだ。中学生のころは、どこがいいんかさっぱりわからなかったハードボイルドの名作を、ある程度の読書歴を積んだいまになって、もっとも好きな日本人作家の手による翻訳で読みなおすことができる──これって、とても貴重な体験じゃないだろうか。
少なくても僕はそう思った。そしてその新訳を読むのをとても楽しみにしていた。その特別な翻訳を堪能すべく、チャンドラーがその作品にいたるまでに上梓した長編を先にすべて読みもした。そうして、万全の準備をしたつもりで、わくわくしながらこの本のページを開いたのだけれど……。
いくつかの点で、僕はこの新訳に不満をおぼえることになってしまった。
いや、決して翻訳の出来がわるいというつもりはない。少なくても翻訳そのものに関しては、まちがいなく精度が上がっている。清水俊二氏の訳では意味が通じなかった部分が、村上訳ではなんのためらいもなく、するりと入ってくる。僕は今回、この新訳に続けて、旧訳も読んでみたのだけれど、清水訳ではところどころに、おやこれはどういう意味だと悩んでしまうような文章があり──たとえば、マーロウがテリーにコーヒーを出すシーンのあとのくだりが、清水訳ではコーヒーにクリームを入れたあとで、あらためて冷蔵庫からクリームを出したように読めてしまう(ハヤカワ文庫版P.40)──、それを村上訳と照らしてみて、ああなるほどと納得するなんてことが何度かあった。翻訳の正確さを問題とするならば、後発の村上訳のほうが確実に精度は上だと思う。
ただ、こと文章の魅力という点で、村上訳が上だと思うかと問われると、僕には素直にイエスと答えられない。正直なところ、僕には清水さんの訳のほうが、春樹氏の訳よりも読みやすかった。
これはわれながら驚きだった。だって、村上春樹という人は、日本人にして唯一、僕をその文体によって魅了したといってもいい作家だ。その人の翻訳よりも、いわゆる翻訳調の清水訳のほうがいいと思えてしまうというのは、われながらちょっとばかりショックだった。
いや、春樹さんの翻訳がいいと思えなかったのは、なにもこれが初めてじゃない。かつて 『翻訳夜話』 で柴田元幸氏と同じカーヴァーの短編を訳しくらべてみせたのを読んだときにも、僕は今回と同じように意表をつかれた。柴田さんの訳のほうが読んでいて気持ちよかったからだ。翻訳とはいえ、村上春樹が文章の快さで、ほかの日本人に遅れをとるとは思ってもみなかった。
ただし、あのときの相手は現代米文学翻訳の第一人者、柴田元幸だ。いくら春樹さんとはいえ、その道のプロ(しかも同時代人)を相手にすれば、負けることもあるだろう。
ところが今回の場合、先行する清水さんの旧訳は、いまとなると日本語としておかしなところが散見される、いわゆる翻訳調だ。これで村上訳のほうが劣るなんてことは、まさかないだろうと思っていた。ところが、そのまさかが起こる。僕には清水訳のほうが、読んでいて心地よかった。いったいなぜ?
つらつらと理由を考えてみるに、答えはいくつか思い浮かぶ。そのうち一番簡単なものは慣れの問題だ。
僕はこれまでに四作で清水訳のマーロウと接してきた。これが五作目になる。どんな作家の作品でも、それくらい読めば、その文体に対する愛着が生まれてくる。チャンドラーくらい名文家として評価の高い人の文章がもとの翻訳ならば、なおさらだろう。僕のチャンドラーについてのイメージは、これまでに読んだ清水訳である程度、固定されてしまったところがあるのかもしれない。つまり予習があだになったことになる。
実際に僕は村上訳の 『ロング・グッドバイ』 を読み始めてすぐに、この小説はこれまでの作品とずいぶんイメージが違うなと、過去の作品との雰囲気の違いに驚いたものだった。 『ロング・グッドバイ』 という作品自体が、ある意味ではチャンドラーにとっての異色作だと思うし──春樹氏の言葉を借りるなら「別格の存在」ということになる──、初めはそのせいかと思ったのだけれど、その後、清水訳で読み返してみて、やはり作品自体よりも翻訳の違いによるところが大きいんじゃないかと思った。両者は、まとっている空気からしてどこかしら違っている。そのどことないちがいに、うまくなじめなかったのかなという気がする。
あと、もしかしたらこの作品については、春樹さんが旧訳を意識するがあまり、思うように訳せてないんじゃないかとも思った。この本の解説では、春樹氏自身が清水氏の翻訳も原文同様、くり返し読んだと告白しているし、そういう過去が無意識のうちに
そう思う理由のひとつは、清水さんが「チンピラ」と訳した部分に春樹氏が「はんちく」という言葉を選択していることにある。僕は「はんちく」なんて言葉はこれまで知らなかったし、日常的に聞いたおぼえもない。不勉強なだけかもしれないけれど、少なくても「はんちく」よりは「チンピラ」のほうが一般的だろう。それをわざわざ「はんちく」なんて耳慣れない言葉に置き換えた理由がわからない。自前の小説でならばともかく、翻訳ならばなおさらだ。
ほかにも「やくざ」という単語の使い方にも違和感をおぼえた。こちらは清水訳でも同じように使われたりするけれど、旧訳の当時と、日本のヤクザが英語の辞書にのっているいまの時代では、状況はおのずから異なる。「やくざな」という形容詞ならばともかく、アメリカのギャングをあらわす名詞として「やくざ」という単語を使ってしまうのは、時代にそぐわない気がしてしまった。だからそういう言葉を普通に使っているのは、「翻訳にも賞味期限がある」といって新訳を手がけた春樹氏の主張からずれているように僕には感じられた。
そんなふうに言葉の選択ひとつ、ふたつとってみても、僕には今回の新訳には疑問が残った。それゆえ、そうした訳語の選択や文章の構築において、旧訳の存在が足かせになったのかなという気がしてしまったわけだ。
そうそう、もうひとつ旧訳との相違で興味深いことがあった。それは一人称代名詞の使い方について。
村上春樹というと「僕」という代名詞の使い手としてのイメージが強いと思うのだけれど、その彼がここではマーロウの一人称を、地の分も会話文も統一して「私」で訳している。一方の清水訳は、地の文こそ「私」だけれど、会話文は「ぼく」だ。旧訳 『長いお別れ』 はまだハードボイルドのイメージが定着する前の訳で、同じ清水氏がおよそ三十年後に訳した 『湖中の女』 などは、春樹氏と同じように一律「私」という代名詞を使っているので、春樹氏が新訳を手がけるにあたって「私」を選んだこと自体は自然なことだ。
ただし、それはある意味では春樹さんらしくない選択だったんじゃないかと僕は思う。なんたってここでのマーロウはみずから告白しているとおり42歳だ(この文章を書いている僕よりも、わずかひとつ年上なだけ)。そしてこの作品のなかでのマーロウの立ち振る舞いは、友人をかばうために牢獄に入れられたり、思わず人妻にキスしてみたり、酔いつぶれて二日酔いになったり、ギャング相手に無謀なケンカをふっかけたりと、中年というには思いのほか若い。解説で春樹氏が引用しているキャラクターの表現を借りるならば、「いくぶん子供っぽいところがある」。
そんなマーロウの姿を現代的に映し出すならば、一人称はいっそのこと、地の文まで含めて全部、春樹氏お得意の「僕」でよかったんじゃないか。たとえそのことで既存のファンからは反感を買おうとも、そのほうが村上春樹らしかったんじゃないか。僕にはそんなふうに思える。
実はここまで長編五作を読んできて、僕自身はどちからというと、「ぼく」というハードボイルドらしからぬ一人称を使うマーロウにこそ、同世代的な共感をおぼえていた。だからこそ、春樹氏がごく普通に「私」を選択したことにものたりなさを感じてしまった部分もなきにしもあらずかもしれない。
以上、ながながと書いてきてしまったけれど、じゃあ村上訳に意味がないかというと、当然そんなことはない。なにより翻訳家が違うだけで、おなじ作品でもこんなに雰囲気が変わるのかと、その違いが味わえたのが非常に新鮮だった。
たとえてみれば、映画のオリジナルとリメイク版を観くらべたときのようなおもしろさがある。古いほうは、カット割りや編集はぞんざいなのだけれど、テンポがよくて勢いがある。新しいほうは構図に凝っていて、画像もシャープだけれど、やや演出が慎重すぎてリズム感がたりない──そんな感じ。どっちが好きかは人それぞれだろう。僕はどちらとも選びかねる。あえていうならば、両方をミックスして二で割ったようなのが好みかもしれない。
小説としての 『ロング・グッドバイ』 が、春樹氏の語るように「別格の存在」かどうかはなんともいえない。ただ、少なくてもこれはそれまでの4作からすると、そうとう異質の作品だとは思った。
なんたって、この小説は構成が妙だ。全体の鍵を握るテリー・レノックスとマーロウの出会いから別れまでが、冒頭のわずか50ページですべて語られるというのは、ちょっとなんでも性急に過ぎるし、それでいてそのあとでマーロウが頭文字がVで始まる医師三人を訪ねるくだり(春樹氏のお気に入り)や、本筋とは関係のない依頼人たちが訪れる一日(僕のお気に入り)なんかが、とても生き生きと語られている。普通の作家ならば、そういう脱線気味なところは省いて、もっとテリーの登場シーンをふくらますだろう。ところがチャンドラーはそうせずに、みずからの筆の勢いに任せて、ところどころに余計なエピソードや不用意な饒舌を加えることで、自身にとって最大の、いびつながらも見事な枝振りを誇る大樹を育てあげてみせた。
そういう意味では、春樹さんがこの作品には「傑出したものがある」と語るのがわからないでもないし、ウィキペディア にあるように、いや、『大いなる眠り』 や 『さらば、愛しき人よ』 ほどのレベルにはないという意見があるというのもうなずける。僕自身はどちらかというと、新訳、旧訳とつづけて二度も読んだいまとなると、妙な愛着が沸いてしまっていて、春樹氏の意見に
以上、読み終えてからひと月も感想を書きあぐねたあげく、なんとか書き始めてみたところが、思いがけない長文になってしまった。実はこれでもずいぶんと削ったんですけどね。下手な文章に最後までつきあってくれた方々に御礼申しあげます。どうもありがとう。
(Jan 27, 2008)
その名にちなんで
ジュンパ・ラヒリ/小川高義・訳/新潮文庫
処女短編集 『停電の夜に』 でピューリッツァー賞を受賞して、一躍世界中の注目をあびたインド系アメリカ人女性作家、ジュンパ・ラヒリの初の長編小説。
この作品、いきなり主人公の出産シーンから始まるあたりは、いかにも女性的な感じがしたのだけれど、その主人公というのが、ロシアの文豪ゴーゴリにちなんで名前をつけられたインド系アメリカ人の青年で、そのせいか、全体的にあまり作者の性別を意識させない内容になっている。もっと女性的なものを想像していたので、その点はちょっとばかり意外だった。
物語は前半、ゴーゴリの両親アショケとアシマを中心に展開する。彼ら夫婦のインドでのなれそめや、アメリカへの移住の顛末、長男ゴーゴリの出産といった出来事を語りながら、ガングリー家の家族史をたどってゆく。なぜアショケは息子にゴーゴリなんて名前をつけることになったのか。そしてその息子はなぜ自分の名前を嫌うようになったのか。ひとりのインド系アメリカ人が、その風変わりな名前に悩みながら、みずからのアイデンティティーを確立してゆくまでを描いてゆく。
結局、ゴーゴリは大学入学とともに、みずからの意思で改名する。そして彼が父親からもらった特別な名前を捨てたのをきっかけに、物語はガングリー家を離れ、彼個人を中心にした恋愛小説へと様相を変える。
ダンスパーティーでのゆきずりのファーストキッス。列車で偶然となりあわせたのがきっかけとなってつきあい始めた大学時代の恋人との初体験。建築事務所に勤めるようになってからの恋人との、彼女の両親の家での同棲生活。そしてインド系女性モウシュミとの結婚とその破綻。ラヒリはひとりの青年の控えめでほろ苦い女性遍歴を、つねに家族との関係性を視野に入れつつ、落ち着いた筆致で描いてゆく。
いきなり短編集で名を馳せただけあって、この人は基本が短編作家なのか、この作品も細かなエピソードを丹念に積みあげていったら、自然と長編小説になりましたといった印象がある。だから、よくいえばディテールのひとつひとつが細やかで繊細だということになるし、悪くいえば長編としての大きなうねりとでもいったものが足りない感じがする。細やかな筆づかいの生真面目な小説とでもいうか……。前言を
それにしても、女性の眼で描かれているせいか、ゴーゴリ君の情けなさには、男としてちょっとばかり複雑な心境にさせられるものがあった。もう少し、しゃきっとして欲しいもんだ。そう思いつつも、情けなさでは人のことをどうこう言えないと思う僕がいる。
(Jan 29, 2008)