2007年3月の本

Index

  1. 『大いなる眠り』 レイモンド・チャンドラー
  2. 『おそらくは夢を』 ロバート・B・パーカー
  3. 『クロッカーズ』 リチャード・プライス
  4. 『シャウト・ザ・ビートルズ』 フィリップ・ノーマン

大いなる眠り

レイモンド・チャンドラー/双葉十三郎・訳/創元推理文庫

大いなる眠り (創元推理文庫 131-1)

 俗にダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラー、ロス・マクドナルドをハードボイルドの御三家という。ハメットが生みの親で、チャンドラーが育ての親、マクドナルドが正統な後継者という位置付けで(誰かにちがうと言われそうだけれど)、ハードボイルドを読むうえでは、避けては通れない作家たちだ。
 ところが不思議なもので、僕はそのうちチャンドラーにだけは、これまでなぜか、ほとんど魅力を感じたことがなかった。長編7作のうち──未完の『プードル・スプリングス物語』を入れても8編──、半分は読んでいるはずだけれど、どれもいまひとつぴんとこなかった。
 ハメットは『血の収穫』や『ガラスの鍵』をおもしろいと思ったし(『マルタの鷹』を好んでいないあたりに問題がある気がする)、マクドナルドにはもっと強く惹かれていて、文庫で読める作品はすべて読んでいる。なのにそのあいだにあって、評価の上ではハードボイルドというジャンルの王様というべき存在のチャンドラーだけは、なぜかおもしろいと思ったことがなかった。理由はよくわからない。
 とはいっても、最後にチャンドラーを読んだのは、まだまだ読書経験の浅い高校生の頃だ。きっとタイミングが悪かっただけで、いまになって読んでみれば、意外と楽しめたりするのかもしれないなと。ある時期からはそんな風に思いながら、それでもなかなか再読の機会を作れないまま、現在に到っていた。やはりこれだけ読むべき本があると、かつて一度読んでそれほど感銘を受けなかった作家の本には手を出しにくい。
 そうこうするうちに、今週になって村上春樹新訳の『ロング・グッドバイ』が刊行された。翻訳小説好きの村上春樹ファンとしては、この機会を逃す手はない。ちょうどいいので、せっかくだから未読のものも含めて、チャンドラーをすべて読むことにした(世の中にそんな人が何万といそうだ)。ということで、手始めは当然のことながら、チャンドラーの処女長編であるこの『大いなる眠り』ということになるのだけれど……。
 これはちょっと翻訳が古すぎるんではないでしょうか。春樹氏が『グレート・ギャツビー』の訳者あとがきで、翻訳には鮮度があると書いているけれど、これを読むとまさにそのとおりだなと思う。なんたってグレープフルーツに「北米南部産ザボンの類」なんて注釈がついている(p.31)。いまとなると、ザボンってどんな果物だと思ってしまう僕のような読者が大半だろうから、正直なところ、時代錯誤の感が否めない。語りの部分はともかくとして、そうした風俗的な側面や、会話文の鮮度は落ちまくりだ。特にマーロウが連発する「うふう」という返答は、もう決定的に古い。

「からかっているの?」
「うふう」 (p.9)

 こんな会話が、あちらこちらで交わされるものだから、ちょっとばかり困ってしまう。埴谷雄高の『死霊』を呼んだ時にも、「ちょっ」とか「ぷふい」とかいう妙な感嘆詞にやたらと違和感をおぼえたものだったけれど、明確な意味をもたない感嘆詞のようなものほど、時間の侵食をより強く受けて、風化するものらしい。
 いや、一概に古いから悪いというつもりはなくて、語りの一人称が「私」で、会話文の一人称が「僕」というあたりは──いまどきのハードボイルドな探偵は僕なんて言わない印象があるので──、ハードボイルドの固定概念からずれていて、かえって新鮮だったりもした。ここでのマーロウは、ハンフリー・ボガートが『三つ数えろ』で演じた人物よりもかなり若々しいイメージがあって、なかなか好感が持てる。
 ただ、全体としては、やはりちょっと古いかなあと思わせるところがあちらこちらにあり、少なくても僕はそれが気になってしまって、すんなりと物語の世界に入りこむことができなかった。なまじ、春樹氏の新訳が契機となって読むことになったため、普段よりも余計に翻訳に対して、神経質になっているのがよくなかった気もする。残念。
(Mar 10, 2007)

おそらくは夢を

ロバート・B・パーカー/石田善彦・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

おそらくは夢を (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 『プードル・スプリングス物語』でチャンドラーの未完の遺作を完成させたロバート・B・パーカーが、再度チャンドラーの世界に挑んでみせた意欲作。以前は『夢を見るかもしれない』というタイトルだったものが、文庫化に際して改題されたそうだ。
 物語は『大いなる眠り』のストレートな続編で、マーロウがスターンウッド家の執事から、次女カーメンが療養中のサナトリウムから失踪したので探し出して欲しいと依頼を受けて、調査に乗り出すというもの。あちらこちらに回想シーンとして、『大いなる眠り』のチャンドラーの文章をそのまま引用してみせた趣向が、なかなか映画的でおもしろかった。
 その部分については、『大いなる眠り』を読んだあとなので、両者の翻訳の違いも楽しめて、なおさら興味深かったというのもある。いや、比べてみると、双葉訳は部分的には古びていても、決して悪くないなとあらためて思った(こっちが悪いという話ではなく)。だからこそ、50年近くも読み継がれてきたのだろう。
 この小説はと言えば、マーロウと執事との男の友情的な関係や、あらたな大物の{かたき}役の登場などに、よくも悪くもパーカーのカラーが色濃く出てしまっているため、なんとなくフィリップ・マーロウの名前を借りて、スペンサーが行動しているような印象を受けてしまうのが玉に瑕という気がした。
(Mar 10, 2007)

クロッカーズ

リチャード・プライス/石田享・訳/竹書房文庫(全2巻)

クロッカーズ〈上〉 (竹書房文庫―竹書房エンターテインメント文庫)

 スパイク・リーが映画化したドラッグ・ディーラーの話の原作。
 竹書房文庫は映画やドラマのノベライズド作品を積極的に出しているけれど、これはノベライゼーションではなく、小説のほうがオリジナル。しかも映画と比べるとボリュームはほぼ倍増というくらいの力作だ。もっとも上巻の解説によると、著者のリチャード・プライスという人は『ハスラー2』を初めとして、大ヒット映画の脚本をいくつか手がけていて、当初はこの作品の脚本も自ら手がけていたそうなので、最初からきわめて映画との親和性は高い作品だといえる。それゆえに竹書房文庫に収録されることになったんだろう。で、あまりネームバリューが高い作品でもないので、あっという間に絶版の憂き目にあうことに……。
 スパイク・リーの大ファンの僕としては、いまさらながら、あの映画がどういう小説から生まれたのか、ぜひとも知りたいところだったので、仕方なくブックオフのオンラインショップで入手した(2年以上前に……)。古本を読むのは、じつに十数年ぶり。
 小説のメインストーリーはほぼ映画と同じ。最大の違いは、映画ではハーヴェイ・カイテルが演じていたロッコ・クラインが、小説ではストライクと並んで、もうひとりの主人公と呼べるだけの存在感を持っていること。というか、いちおうミステリと呼べる内容なので、どちらかというと容疑者の側に立っているストライクよりも、刑事であるロッコの方が主役の刑事ドラマという感さえある。
 スパイク・リーは映画化にあたって、その半分を切り捨て、ストライクを中心としたドラッグ・ディーラーたちの物語にフォーカスを絞ってみせた。スパイク・リーの映画監督としてのキャリアからすると、いたって当然の選択だったのだろう。それでもこうして原作を読んでみると、そのアレンジ以外は、きわめて原作に忠実に作られていて感心した。この小説も悪くないけれど、スパイク・リー贔屓の僕としては、やはり映画のほうが好きだった。
(Mar 18. 2007)

シャウト・ザ・ビートルズ

フィリップ・ノーマン/水上はる子・訳/ソニー・マガジンズ文庫(全2巻)

シャウト!ザ・ビートルズ

 これは昔むかし、中学生の頃にともだちに借りて読んだことのあるビートルズの伝記本。ひとつ前に読んだ 『クロッカーズ』 をブックオフのオンライン・ショップで買った時に、あと何百円かで送料が無料になるというので、なにか手頃なものはないかと物色していて見つけ、よし、四半世紀ぶりに読んでみようという気になった。
 ともだちに借りたのは単行本だったけれど、僕が今回読んだのは、それの十年以上あとに刊行された文庫版。特に説明はないものの、エピローグには90年代のポールたちに関する言及があるので、あきらかに改定されている。そのわりには訳はあまりよくなっていないんだけれど。
 この本の特徴は、ビートルズの周辺にいた人たちへの綿密なインタビューをもとに、ビートルズの誕生から解散までの軌跡を、四人とかかわりをもった膨大な人々の織り成す人間模様として浮かび上がらせている点にある。執筆にあたってビートルズのメンバーに対するインタビューは行えなかったとのことで、それゆえか、ビートルズの伝記にしては、四人にクローズアップしたシーンは少ない。遠巻きに彼らを眺めながら、彼らがその時代にどのような存在だったかを浮かび上がらせるような内容になっている。もしかしたら伝記なんてものは、得てしてそういうものなのかもしれないけれど。
 とにかく四人と直接会話ができなかった分、彼らのまわりにいた数多くの関係者へのリサーチはなかなかすごい。ジョンの育ての親ミミ伯母さん、アマチュア時代のビートルズのメンバーだったスチュワート・サトクリフとその恋人アストリッド・キルヒャー、ブライアン・エプスタインやジョージ・マーティン、オノ・ヨーコなど、ビートルズに深くかかわり、彼らに人生を左右されることになった人々については、その生い立ちまでも含めて、かなりつっこんだ紹介がなされている。
 ビートルズの登場とともに音楽ビジネスが巨大産業化したことに注目して、経済的な側面にやたらとこだわっているのもこの作品の特徴だ。特に後半、ビートルズがデビューしてからは、大半が金銭的な面への言及といった感さえある。爆発的な人気のために自由を奪われた四人が、金銭的なトラブルのなかで仲たがいしてゆく過程を追ってゆくのだから、正直なところ、読んでいてあまり楽しくない。
 だからこの本は、ビートルズがブレイクするまでを描いた部分が一番おもしろいし、実際そこまでに上巻のほぼすべてを費やしている。映像版の『アンソロジー』に重ねていえば、全8回のうちの最初の1回分にあたる部分だけに、全体の約半分を費やしていることになる。本来ならば、そこからが僕らの知っているビートルズということになるのだけれど、残念ながら、肝心なところでこの本は減速してしまうのだった。
 後半になって尻つぼみになってしまっている原因は、純粋に音楽的な話題が少ないせいだと思う。ビートルズの個々の作品については、どれも簡単な寸評程度の記述に終わっていて、音楽評論的な面では、ものたりない内容になっている。どうせならば、もっとつっこんだ評論や、同時代のミュージシャンたちによる思い出話も盛りこんで欲しかった。また、著者の趣味があまりロック寄りではないようで、『ヤー・ブルース』を「一元的で魅力を欠き」(下巻p.252)なんて言っていたり、ストーンズに対する記述があまり好意的なものではない点が、個人的には気になった。
 まあ、なんにしろこの本を読んでいると、ビートルズというのは、ただのロック・バンドではなく、そのバンドにかかわった多くの人々を巻き込んだひとつの社会的な事件だったんだという作者の思いが伝わってくる。ビートルズを中心として、その時代に生きた人々の姿や社会の様相を浮かび上がらせてみせたノンフィクションとしては、なかなか読みごたえのある、いい本だと思う。
 ただ、残念ながらこの版は翻訳の出来がいまいちで、日本語としてどうなんだろうと思ってしまうような文章もしばしばだった。翻訳家があとがきで、著者自身から「むずかしかった?」とたずねられたと語っているから、原文からして、かなり凝ったものなのかもしれないけれど、だとしたらなおさらこの女性では力不足だったんじゃないだろうか。ほかにはほとんど翻訳の仕事をしていない人みたいだし。「キミはキミで自分のパーセンテージを守っていろヨ、ブライアン」なんて風に、ところどころで語尾をカタカナにした会話文も、いまとなるとあまり気持ちがよくない。
 おまけにこの文庫本は校正もひどくて、誤字脱字がごろごろしている。僕は最初の30ページばかりのあいだで、間違いを3つか4つ見つけた。特にカタカナがひどくて、「セールス」が「セースル」になっていたり(上巻p.39)、「ジェイムズ」が「ジェムズ」になっていたりする(下巻p.304)。誤字か誤訳かわからないけれど、ジョージ・ハリソンのソロ・ナンバーのタイトルにもなっている "Apple Scruffs" が、「アップル・スクラップ」と表記されていたりする(下巻p.323)。僕はこんなに誤字脱字の多い本を読んだのは初めてだ。たしかこの本はソニー・マガジンズ文庫の創刊タイトルのなかの一冊だったような覚えがあるから、出版する側の準備期間の問題などもあったのかもしれない。けれど、それにしてもなあと思ってしまう出来の悪さだった。
 翻訳にしろ校正にしろ、さすがにこれはひどいと思ったのは、僕だけじゃなかったんだろう。気がつけばこの本、いまからちょうど一年ほど前に改訳版が刊行されていた(翻訳はザ・ビートルズ・クラブ名義)。どうせ読むんだったら、そっちを読めばよかったかなと思ったりしたけれど、新訳版は五千円とかなり高価な本だから、ちょっとばかり手が出せそうにない。
(Mar 31, 2007)