Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『バウムガートナー』 ポール・オースター
  2. 『村上朝日堂 はいほー!』 村上春樹
  3. 『猿』 京極夏彦
  4. 『高校のカフカ、一九五九』 スティーヴン・ミルハウザー
  5. 『プリンス論』 西寺郷太
    and more...

バウムガートナー

ポール・オースター/柴田元幸・訳/新潮社

バウムガートナー

 ポール・オースターが生前に書き残した最後の小説。

 これより前に書きおろしたノンフィクションがほかに二冊ほどあるらしいけれど、小説としてはこれが最後とのこと。大長編だった『4321』とは打って変わって、ページ数的にも物語的にもこじんまりとした作品だけれど、これぞオースターという良作に仕上がっている。

 主人公のバウムガートナーさんは、妻に先立たれて失意の日々を送る老境の大学教授。彼のとある朝のどたばたを描く冒頭部分では、ドジを連発してやけどを負ったり、階段から転げ落ちたり、もの忘れがひどかったりで、初期の認知症患者の話かと思わせる。

 でも彼が最愛の妻アンナを失った痛手から立ち直ってからは、そんな危なげなところが影をひそめる。やがて別の女性との再婚を考えるようになり、詩人だったアンナを崇拝する女学生とのやりとりに癒されたり、途中からはすっかりふつうの老文学者って感じ(ボケてなくてよかった)。

 そんな彼の生活を追いながら、この小説では要所要所で、奥さんの手になる詩やエッセイが作中作として挿入される。その中で若き日のバウムガートナー氏と彼女とのなれそめが紐解かれてゆく。この二重構造がとてもオースターらしい。

 でもって、このふたりの古典的な恋愛劇がフレッシュでとてもいい。一方で彼が再婚を考えるくだりで垣間見させる恋愛観はシニカルで現実的だ。老人を主人公にした地味めな物語でありながら、僕にはこの作品はさりげなくも味わい深い恋愛小説として読めた。そこがすごくよかった。

 前作があまりに圧倒的だったので、あれが遺作ということにしてしまってもいいんじゃないか、みたいなことを書いたけれど、大変失礼しました。ボリュームには大差があれど、これも前作に負けず劣らず素晴らしい。

 僕はポール・オースターのよい読者とはいえないけれど、この人の書いたいくつかの小説はまちがいなく僕の中に特別な何かを残してきた。いずれこれもそんな一冊になるかもしれない。

 あらためてご冥福をお祈りします。

(Feb. 05, 2026)

村上朝日堂 はいほー!

村上春樹/新潮文庫/Kindle

村上朝日堂 はいほー!(新潮文庫)

 今年は個人的に節目の一年なので、ずっと気になっていた村上春樹の未読作品のうち、Kindleで読める作品をすべて読んでしまうことに決めた。毎月一冊ずつ読めば、たぶん年内ですべて読み終わるはず。

 ということで、題して月刊村上春樹。第一弾がこれ。

 前に何度か書いているように、僕は村上春樹のエッセイが好きではなくて、『村上朝日堂の逆襲』でめげて、この本は読まずにスルーしていたのだけれども――。

 意外とこれが悪くなかった。

 まぁ、冒頭からテレビCMの話とか、星占いがどうしたという話とか、僕にとってはどうでもいいような話がつづいたので、やっぱ駄目かと思ったら、その後は比較的共感できる話が多くなる。洋画の邦題がなってないとか、日本人はなんであんなに標語が好きなのかとか、財テクが苦手だとか。うんうん、そうだよねって思う。

 ビリー・ホリデイやジム・モリソンやオペラに関するエッセイは、その後の『ポートレイト・イン・ジャズ』あたりの音楽エッセイ集に収録されていてもおかしくない出来で、ちゃんと読みでがあってよいと思った。アタッシュ・ケースをもってバーで飲んでいたら、後日そのせいで陰口を聞かされたという『一人称単数』の原体験になったようなエピソードがあるのも一興。

 まぁ、双子の女の子とつきあうのが夢だとか、なにいってんですかって話もあって、昔同じ会社で働いていた女の子が「村上春樹は気持ち悪い」といっていたのを思い出したりもしたけれども。少なくてもこれまでに読んだノンジャンル系の村上春樹のエッセイではこれがいちばんよかった。どうでもいいような話とちゃんとしたエッセイが同居している玉石混交な一冊。

 とはいえ、書かれたのが一九八三年からの五年間ということもあって、いささか話が古い。最近ヒットした映画が『スター・ウォーズ』や『E.T.』や『ジョーズ』や『レイダース』だというんだから、ある種の昔話だ。もっと早く読んでおけばよかったとちょっとだけ思った。

 いや、もとい。ひとつだけいま読んでよかったことがあった。最初から二番目に収録されている『わり食う山羊座』というエッセイに奥様の誕生日が記されているのだけれど、それがなんと、うちの子の誕生日と同じ日! なんて偶然。

 この本が文庫化されたタイミングで読んでいたら、奥さんの誕生日がいつかなんて気にも留めていなかったろう。子供が生まれたあとで読んだからこその発見だった。

 この本をいままで読まずにいたのは、この事実を知るためだったのかも――なんてこたぁないな。うちの子が生まれてもう二十七年もたってんだから。もっと早く読んでおけって話だ。

(Jan. 28, 2026)

京極夏彦/KADOKAWA

猿

 京極夏彦の作品では、たまに冒頭からうんざりさせられることがある。

 ぱっと思いつくところでいえば、『人でなし』や『塗仏の宴 宴の始末』。最初から登場人物のネガティブな内的独白がつづいて、うへーって気分になる。

 この作品もそんな系列のひとつ。

 物語は一組の夫婦のやりとりから始まるのだけれど、旦那のほうが新型コロナの後遺症で引きこもりになってしまったという設定で、ぐちぐちしていることこの上ない。内縁の妻である主人公の祐美ゆみは、そんな夫の言動を受け流しつつ、冷凍庫の整理とかしている。愚痴っぽい上に会話がかみ合ってない感じが読んでいてつらい。

 この先、この調子でつづくといやだなぁと思っていると、さいわい不幸の元凶である旦那の出番はその最初のパートだけで、その後、祐美が岡山に移動してから、ようやく物語が動き出す。

 彼女は見ず知らずの曾祖母から遺産相続を受けたとのことで、その説明を受けるために、これまた会ったこともない従姉妹と弁護士に会うために、岡山へと出かけてゆく。曾祖母の暮らしていたのは、地図にもない山奥の村――。

 というような横溝正史っぽい設定で、ちょっと不気味なムードが漂うのだけれど、でも終始論理的な語り――というか会話劇――ゆえに、あまりおどろおどろしい感じがしない。雑誌『怪と幽』に連載されたものとのことなので、ホラーとして書かれたのだろうけれど、どことなく不気味な空気が漂っている? くらいの感じ。

 この作品は珍しく章分けがされていないのだけれど、祐美と夫の隆顕たかあきとのやりとりが第一章、祐美が岡山で従姉妹の芽衣と会ってからが第二章、弁護士チームと合流して、女性パラリーガルの尾崎から相続にまつわる特殊な事情を聞かされるのが第三章というような構成になっている。

 祐美があまりしゃべらないので、話は隆顕、芽衣、尾崎による一方的な会話を中心に進んでゆく。でもって最後に相続先の村でのクライマックスに至る。猿、出てはくるけれど、あまり物語に関係なし。

 印象としては、ホラーというよりも「恐怖とはなんぞや?」に関する知的考察が物語の体裁を取ったような作品だと思った。でも、残念ながらとってつけたような結末のせいで、いまいち読後感がすっきりしない。

 「不思議なことなどなにもない」といっていたはずの京極夏彦が、ホラーだからといって、説明不可能な不思議に逃げて物語を幕引きしたのには、どうにも釈然としない気分になってしまった。

 人にはお薦めできない京極作品があるとしたら、『南極』の次がこれかも。

(Jan. 18, 2026)

高校のカフカ、一九五九

スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸・訳/白水社

高校のカフカ、一九五九

 前作同様、原書が厚すぎるという理由で、日本での出版事情を鑑みて二分冊になったスティーヴン・ミルハウザーの最新短編集・其の一。

 内容はいつも通りのミルハウザーだ。超常的なことはほとんど起こらないけれど、それでいて現実感を欠いた不穏な感触の物語ばかりが並んでいる。

 たとえば冒頭の短編では、どこかに電話をして「係の者がまもなく対応いたしますので、電話を切らずにそのまましばらくお待ちください」という自動応答メッセージを聞かされた女性が、待たされたことで記憶を刺激されて、電話口にいもしない話し相手に対して、若いころの異性にまつわる思い出を延々と聞かせる。

 ある男性は親密な関係にある恋人に、正面から向かいあうことを拒まれているし(精神的な意味ではなく肉体的に)、最後の短編では主人公の青年が、恋人の母親となにやら微妙なひとときの夕べを過ごすことになる。

 そういうミニマムな個人の物語の一方で、マクロな視点に立って、位相がずれた社会現象を描くのもミルハウザーの得意技。

 ある町では犯罪者に対して斬首刑が採用されて、広場でギロチンによる公開処刑が行われ、ある町ではマイホームに立てかけた梯子でどこまでも高く昇ってゆくのが流行って、転落死が社会問題になる。ある町では影芝居のブームが人々の生活を変えてゆく。

 もっともボリュームがある表題作『高校のカフカ、一九五九』は、カフカという男子高校生の日常を断片的に描いたもので、それだけならば普通の青春小説という印象だけれども、ところどころに同級生たちのインタビューがインサートされるのが味噌。

 それがあることで、その子が将来なんらかの形で有名になるんだろうなって読者の僕らは勝手に想像する。ただし、カフカくんが将来どんな大人になるのかは明かされない。偉くなるのか、悪いことをするのか。真相は藪の中。おかげでこの作品はふつうの青春小説とはひとあじ違った不思議な感触を残す短編に仕上がっている。

 そんなふうに物語性や会話劇ではなく、その小説の語りのみで世界を構築してゆく。スティーヴン・ミルハウザーほど、小説という表現形態によってどんなことができるかを突き詰めて考え、作品として形にしつづけている小説家も珍しいと思う。

 その存在は唯一無二。でもそれゆえに読むとちょっと疲れるので、年末の慌ただしい時期に読んだのをちょっと後悔した。不本意ながら今回は二分冊にしてくれて助かったかもと思ってしまった。

(Jan. 08, 2026)

プリンス論

西寺郷太/新潮新書/Kindle

プリンス論(新潮新書)

 僕はプリンスのファンを名乗るにはおこがましいリスナーだけれど、それでもプリンスに対しては、ほかのアーティストにはない特別な思い入れを持っている。

 プリンスが『パープル・レイン』で一世を風靡した高校時代。サザン、ビートルズ、ストーンズ、スプリングスティーンなどを一緒に聴いていた友人らが、プリンスにはまったく関心を示さない中、僕ひとりが彼の音楽に夢中になった。

 僕にしたって最初から彼のことが好きだったわけじゃない。初めて『When Doves Cry』を聴いたときには、そのあまりの異質さになんだこりゃと思ったし、セクシャリティを前面に打ち出した彼のルックスは正直好みじゃなかった。

 それでも大ヒットしていたその曲は、聴くともなしに聴いているうちに、僕の中に深々と刺さっていった。どのタイミングで『パープル・レイン』を聴いたのか、記憶がさだかじゃないけれど、そのアルバムを聴くころには、僕はすっかりプリンスの音楽に夢中になっていた。『パープル・レイン』の試写会に応募して、ひとりきりで有楽町へその映画を観にいったりもした(いまの自分からは考えられない行動力)。

 そして、それまで比較的オーソドックスなロックファンだった僕の音楽志向は、プリンスの音楽の持つ多様性とクリエイティビティに触発されたことで、それまで以上の広がりを持つことになった。そのときに獲得した音楽性の広がりが、その後四十年以上にわたって、僕が音楽を聴きつづける原動力になったといっても過言ではない。

 かつての友人たちが高校時代の趣味のまま年を重ねて新しい音楽を聴かなくなってしまったのに、僕だけがいまだ飽きることなく音楽を聴きつづけているのは、もっとも多感なその時期にプリンスと出会った影響が大きいと思っている。

 いわばプリンスは僕の音楽人生における恩人のひとり――。

 さて、ということで前振りが長くなってしまったけれども、これはノーナ・リーヴスの西寺郷太が書いたそんなプリンスの入門書。

 奇しくもプリンスが亡くなる前の年に出た本なので、もしかしたら改訂版が出るかもと思って待っていたのだけれど、出ないまま十年が過ぎたので、ここいらで読んでしまうことにした。

 新書だからそんなに詳細な内容ではないし、キャリアの後半部分が駆け足になってしまっているのはいささか残念だけれど、それでもミュージシャンが片手間で書いたとは思えない、とてもしっかりとした内容に仕上がっている。

 西寺クンのなにがすごいかって、プリンスやマイケル・ジャクソンに出会ったのが小学校五年生のときだということ。

 その年で洋楽に――それもメロディよりもビートを強調したブラックミュージックに――目覚めるのって、単純にすごいなぁと思う。音楽家として世に出る人はひとあじ違う。

 でもまぁ、青春真っただ中の高校時代にプリンスやスプリングスティーン、最盛期のサザンや佐野元春を聴けた僕らだって、十分に幸運だよねって、いまとなると思う。

(Dec. 31, 2025)