Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『薬屋のひとりごと14』 日向夏
  2. 『マルドゥック・アノニマス7』 冲方丁
  3. 『ラナーク 四巻からなる伝記』 アラスター・グレイ
  4. 『村上ラヂオ3 サラダ好きなライオン』 村上春樹
  5. 『パット・ホビー物語』 F・スコット・フィッツジェラルド
    and more...

薬屋のひとりごと14

日向夏/ヒーロー文庫/主婦の友社/Kindle

薬屋のひとりごと 14 (ヒーロー文庫)

 猫猫マオマオとともに表紙のイラストを飾っているのは、緑青館の三姫のひとり女華と、医局での猫猫の同僚である天祐ティンユウ

 このふたりがともに華佗という人物の末裔だった(前巻であきらかになったんでしたっけ?)ということで、それに絡んだ過去の秘密が解き明かされ、ひと騒動が巻き起こる。

 あと、ヤオに言い寄る駄目男が登場して――どこかに名前が書いてあったけれど忘れた。猫猫による呼び名は「恋文男」――この人が、羅半兄に負け、馬閃に負け、最後は壬氏ジンシにまで叱られと、ことあるごとに醜態をさらしている。おそらく今後の出番はなさそうだけれど、この人が今回のキーパーソン。

 一方で彼と一緒に登場した卯純ウジュンという男(里樹リーシュの異母兄だそうだ)は、どうやらサブレギュラー化するらしい。医局には更紗チャンシャという後輩たちが入ってきたし、西都からついてきた虎狼フーランも壬氏の部下として再登場している。薬屋ワールド順調に拡大中。

 主役の猫猫はというと、今回は羅半に連れられて変人軍師一家とともに名家の会合に出席したり、李白の馬に乗って泥棒が入った緑青館に駆けつけたり、壬氏ご一行の狩りに同行したりと、やたらとあちこちに引っぱりまわされている。でもって、ゆく先々で謎を解いている。

 最後は火事にあった小屋のなかに貴重な医学書があるかもと聞いて、水をかぶって火の中に飛び込もうとして、壬氏らに制止される始末。医学絡みのことになると途端に目の色が変わる猫猫がおもしろおかしい。

(Jun. 19, 2025)

マルドゥック・アノニマス7

冲方丁/ハヤカワ文庫JA/Kindle

マルドゥック・アノニマス7 (ハヤカワ文庫JA)

 この巻は葬儀の場面から始まる。

 なんでもイースター・オフィスの保護証人が殺されたらしい(誰かはあきらかにされない)。怒りに震えるバロットが仲間とともに式場に足を踏み入れると、葬儀を仕切っているのはお馴染みのクインテッドの面々。そして悼辞のために演壇に立つのはあの男――。

 ということで、長かったニューフォレスト健康福祉センターにおけるウフコック救出作戦にも前巻でようやく決着がつき、物語は新章に突入~。クインテッドがすでに以前とは違う社会的地位を獲得していることから、あの事件からはかなりの時間が過ぎたことが示唆される。

 おいおい、ウフコックはどうなった?――という疑問にも今回はきちんと答えてもらえる。葬儀にまつわる物語に並行して、前回の物語のつづきが、イースター・オフィスとクインテッドの両サイドに分けて描かれてゆく。

 イースター・オフィスは、死んだと思っていた仲間が《誓約の銃》に捕らわれていることを知り、即座に行動を開始。空飛ぶサメに乗って敵の船を急襲したバロットたちが、前回苦戦を強いられたカマキリ爺マクスウェルと再度対決する展開が前半のクライマックス。この戦いが済んで、ようやくウフコック救出作戦が一段落したといえる状態になった。いやぁ、めでたし、めでたし。

 一方でクインテッドのサイドにも展開あり。このところ姿を消していたハンターがシザースの支配から抜け出し、戦線復帰するまでが描かれる。で、その後は〈スネークハント〉とか〈Mの子供たち〉とか、クインテッドの配下につくエンハンサーたちの内紛が描かれてゆく。いやぁ、キャラが増えること、増えること……。

 後半クインテッドの仲間割れと並行して主題となるのは、オクトーバー社に対する集団訴訟。大学の恩師のクローバー教授からアソシエートとして起訴に協力するよう求められたバロットが、法曹界の歴戦の猛者たちに圧倒されながら、法律家としての第一歩を踏み出すことになる。

 最新時間軸の葬儀に、過去話となる集団訴訟とクインテッドの仲間割れ。三つのエピソードが同時進行中のまま、物語は次の巻へ。

 先月新刊が出て、残りが三冊に増えたけれど、それらを全部読んでもぜんぜん話が決着しそうにない。

(Jun. 15, 2025)

ラナーク 四巻からなる伝記

アラスター・グレイ/森慎一郎・訳/国書刊行会

ラナーク 四巻からなる伝記

 『哀れなるものたち』の作者であるスコットランド人作家、アラスター・グレイの怒涛のデビュー作。

 よくあるパターンで、刊行されてすぐに買ったのに、あまりの厚さ(四六判二段組七百ページ超え)に放置していたら、いつの間にか二十年近くたってしまっていた。

 わけあってこの春は時間に余裕ができたので、意を決して読んでみたけれど、これは僕には無理だった。このボリュームでこの内容は正直きつかった。

 サブタイトルに『四巻からなる伝記』とあるように、この小説は四部構成になっている。実際にはエピローグにもかなりのボリュームがあるから、四巻半くらいのイメージで、そのうち一巻と二巻、三巻と四巻が対になっている。

 でもって、物語はいきなりその第三巻から始まる。

 描かれるのはラナークという青年の物語。作風はある種のファンタジー。メタフィクションな要素も含む。

 そのあとに彼の過去の話だといって、短めのプロローグを挟んで第一巻が始まる。主人公の名前はダンカン・ソー。こちらの巻はほぼリアリズムに貫かれている。

 一巻で彼の少年期、つづく二巻で青年期を描いたあと、物語は第四巻で再びラナークのいまへと戻ってゆく――のだけれど。

 残念ながら、このダンカン・ソーとラナークのキャラクターがいまいち僕にはしっかりと結びつかない。

 ラナークの巻については、巻末に収録されたインタビューで作者がカフカを意識したと語っていて、なるほど全編リアリズムを無視した不条理な展開に満ちている。人が竜になったり、歩いているうちにヒロインが妊娠したり、主人公が唐突に市長に任命されたり。時間の流れも自由気ままで一貫性がない。

 そういう支離滅裂な不条理さを、芸術家の想像力がもたらす文学的な達成だとか捉えられればいいのかもしれないけれど、あいにく凡庸な僕にはそうはいかない。

 とにかくまいったのは、主人公のキャラの一貫性のなさ。文学的な素養に溢れた若き画家だったダンカン・ソーが、なぜに幻想世界において、最後には市の代表として世界会議に出席することになるのか、さっぱりわからない。いきあたりばったりの展開に振り回されるばかりで、物語の世界に浸れない。

 一般的な単行本二冊分くらいの物語を読み終えたあと、エピローグで作者と主人公の対話を読まされたり、そのあとに脇役による政治的スピーチを延々と読まされるのは、正直なところ退屈でしかなかった。

 デビューまで四半世紀を費やしてこれだけの大作を書き上げた作者の才能と熱意と膨大な知識量には感服するし、これが唯一無二の個性を持った文学作品だという意見には異論がないけれど、でも好きかと問われたら、残念ながら好きだとはいえない。とりあえず読み終えられてほっとした。そんな作品。

(Jun. 11, 2025)

村上ラヂオ3 -サラダ好きなライオン-

村上春樹/新潮文庫/Kindle

村上ラヂオ3―サラダ好きのライオン―(新潮文庫)

 二冊目のときに書いたように、『村上ラヂオ』と題したエッセイ三部作には、一冊目と二、三冊目のあいだに十年近いインターバルがある。

 あいだが空いたことで若干編集方針が変わっていて、最初のときにはエッセイ一本につき、二枚のイラストが添えられていたのが、再開後は一枚になった。あと、エッセイの終わりに「今週の村上」と題した近況報告的な一文が添えられるようになった。

 この「今週の村上」は、ほとんどが本編に輪をかけてどうでもいいような話なのだけれど、その中にひとつだけ――まぁ、僕の記憶に残っているなかではひとつだけ――うん、なるほどそれはその通りと思ったことがあった。それが、

 水洗トイレに「大小」というレバーがあるけれど、あれは「強弱」じゃいけないんでしょうか?

 というもの(『村上ラヂオ2』収録の「タクシーの屋根とか」)。

 ほんとどうでもいい話だけれど、これにはなるほどと思った。

 いずれにせよ、長編小説のそれとは違って、エッセイで春樹氏の語る言葉の多くは、僕の感覚からズレていて、あまり共感するところがない。

 若いころは同族嫌悪のようなものかと思っていたけれど、こうやっていまの自分と近い年齢のころに書かれたエッセイ集を三冊つづけて読んでみると、僕と村上春樹氏には似たところがほとんどないような気がする。

 もしも知り合いになれたとしても、到底なかよくしてもらえなさそうだなぁ……とか思ったけれど、まぁ、そんな機会は金輪際ないだろうから、気にしてもせんかたなし。

 エッセイの好き嫌いはおくとして、僕は今後も一読者として村上春樹氏の作品(主に長編小説)を愛読しつづける所存。

(May. 26, 2025)

パット・ホビー物語

F・スコット・フィッツジェラルド/井伊順彦・今村楯夫・他訳/風濤社

パット・ホビー物語

 十年くらい前に出たフィッツジェラルドの短編集。

 後期の代表作であるパット・ホビーものを集めたアンソロジーで、書店で見かけてお~、と思って内容もあらためず買い求めたのだけれど、いざ読もうと思ったら、翻訳者は連名だし、出版社も聞いたことのないところで、あれ?っと思った。

 ふだん読んでいる翻訳本はひとりの翻訳家が全編を訳しているものがほとんどで、連名になるのは企画もののアンソロジーだけというイメージなので、特定の作家の新訳が、こういう風に複数の人――表紙に名前のある井伊順彦、今村楯夫のほかに、中勢津子、肥留川尚子、渡辺育子という計五名の方々が翻訳を手掛けてる――で手分けして翻訳されているという形に戸惑った。

 まぁ、そのせいで短編ごとに文体がぶれて読みにくいとかいうことはなかったし、装丁とかもいい感じなので、内容については文句はないのですが。

 ただボリューム的にも大したことがないし、これくらいだったらひとりの翻訳家にまとめて翻訳して欲しかったというのが素直な気持ち。本を読むという行為は書き手と読者の一対一の対話みたいなものだと思っているので、それが一対五になると、なんとなく気分的にすっきりしない。まぁ、単なる好みの問題かもしれないけれど。

 あと、この本はチャールズ・スクリブナーズ・サンズから出版された短編集『The Pat Hobby Stories』の全訳だと解説にはあるけれど、奥付のクレジットにはその出版社の名前はないし、そもそもその本が刊行されたのはフィッツジェラルドの死後二十年以上が過ぎた六十年代で、つまり作者が責任をもって刊行した公式の短編集というわけではないのに、そのことに関する言及がないのも気になった。

 すでに著作権が切れてパブリック・ドメインに入った作品だから、とくにクレジットを明記する必要はないんだろうけれど、でもフィッツジェラルドの「最晩年の短編小説集」とか紹介したら、生前に作者の了解の上で出版された本だと思ってしまう人もいるだろう。少なくても僕は、あれ、こんな短編集あったっけ? と首をひねった。

 ということで、翻訳本としての体裁にはいささか疑問を感じたものの、こと内容に関しては文句なし。こうやってパット・ホビーものの短編をまとめて読めるのはとても貴重で得がたい体験だった。

 この本の中でフィッツジェラルドは、自身の分身である四十九歳の落ちぶれた脚本家がハリウッドの撮影スタジオで営むその日暮らしを、一遍十ページ強というコンパクトなサイズ感で次々と活写してゆく。

 ここにあるのは、かつてのような直接的な悲しみではなく、どうしようもない情けなさだ。読んでいると情けなくていたたまれない気分になる。でも、そのいたたまれなさの裏には、かつてと同じ悲しみが――癒されない孤独感が――深く根をはっていることが感じとれる。全編笑いのオブラートに包まれているけれど、その中にあるものは確実に苦く悲しい。

 けれどこれらの作品では、そうした悲しみは決して表には出てきていない。かつてはフィッツジェラルドの題名のようだったとめどない悲しみが、ここでは自虐的な苦いユーモアにとって替わられている。晩年のフィッツジェラルドがこういう境地に達していたという事実が、カラカラとした乾いた笑いとともに胸に響く。パット・ホビー・シリーズの短編は、こうやって連作としてまとめて読んでこそ、その真価を発揮するたぐいの作品だったんだなと改めて思った。

 形はどうあれ、この短編集を刊行してくれた出版社と翻訳者の方々に感謝を。ケチをつけてすみませんでした。

(May. 28, 2025)