バウムガートナー
ポール・オースター/柴田元幸・訳/新潮社
ポール・オースターが生前に書き残した最後の小説。
これより前に書きおろしたノンフィクションがほかに二冊ほどあるらしいけれど、小説としてはこれが最後とのこと。大長編だった『4321』とは打って変わって、ページ数的にも物語的にもこじんまりとした作品だけれど、これぞオースターという良作に仕上がっている。
主人公のバウムガートナーさんは、妻に先立たれて失意の日々を送る老境の大学教授。彼のとある朝のどたばたを描く冒頭部分では、ドジを連発してやけどを負ったり、階段から転げ落ちたり、もの忘れがひどかったりで、初期の認知症患者の話かと思わせる。
でも彼が最愛の妻アンナを失った痛手から立ち直ってからは、そんな危なげなところが影をひそめる。やがて別の女性との再婚を考えるようになり、詩人だったアンナを崇拝する女学生とのやりとりに癒されたり、途中からはすっかりふつうの老文学者って感じ(ボケてなくてよかった)。
そんな彼の生活を追いながら、この小説では要所要所で、奥さんの手になる詩やエッセイが作中作として挿入される。その中で若き日のバウムガートナー氏と彼女とのなれそめが紐解かれてゆく。この二重構造がとてもオースターらしい。
でもって、このふたりの古典的な恋愛劇がフレッシュでとてもいい。一方で彼が再婚を考えるくだりで垣間見させる恋愛観はシニカルで現実的だ。老人を主人公にした地味めな物語でありながら、僕にはこの作品はさりげなくも味わい深い恋愛小説として読めた。そこがすごくよかった。
前作があまりに圧倒的だったので、あれが遺作ということにしてしまってもいいんじゃないか、みたいなことを書いたけれど、大変失礼しました。ボリュームには大差があれど、これも前作に負けず劣らず素晴らしい。
僕はポール・オースターのよい読者とはいえないけれど、この人の書いたいくつかの小説はまちがいなく僕の中に特別な何かを残してきた。いずれこれもそんな一冊になるかもしれない。
あらためてご冥福をお祈りします。
(Feb. 05, 2026)




