ガラスの街
ポール・オースター/柴田元幸・訳/新潮社
ポール・オースターへの追悼の意味を込めて、いまさらだけれど彼の長編デビュー作である『ガラスの街』を読んだ。柴田元幸氏による新訳版。
角川書店から『シティ・オブ・グラス』のタイトルで刊行されていた旧訳版を読んだのがいつだったか、はっきりとは覚えていないけれど、うちにある単行本の奥付には1993年発行とあるから、二十代後半のことだったのは間違いない。
いつ読んだかははっきりしないけれども、読んでみて、これまでにない深い感銘を受けたことだけは覚えている。
それがどんなだったか?――は上手く説明できない。
少なくても、とてつもなくおもしろかったとか、激しく共感したとかではない。逆にあまり好きではなかった気がする(僕がオースターを好きになるのは、かなりの月日を経たあとのことだ)。
ただこんな小説があり得るのか?――というか、小説ってこんなでもいいんだ?――という新鮮な驚きがあった。そして物語の好き嫌いを抜きにして、そんな感慨をあたえてくれた小説は、僕の記憶にあるかぎり、あとにも先にも、これひとつだった。
この小説は「そもそものはじまりは間違い電話だった」という一文で始まる。
主人公のクインは「ポール・オースター」という名前の探偵あてにかかってきた間違い電話を受けて興味をひかれ、何度目かの電話のあとに身分をいつわり、オースターになりすまして発信者のもとを訪ねてゆく。
ピーター・スティルマンと名乗る精神障害者からの依頼は、彼を害そうとしている――と彼が考えている――父親の尾行だった。興味本位で依頼を受けて、その老人のあとをつけて毎日ニューヨーク・マンハッタンをとめどなく彷徨い歩いたクインは、やがてあることに気づく……。
改めて読み直してみたところ、その後のカズオ・イシグロなどに通じるモダンな「信頼できない語り手」のはしりという印象で、若いころに読んだときのような特別な感触はなかった。逆になぜ若いころの自分はこの作品にあんなに強いインパクトを受けたんだろうと不思議に思ってしまったほど。
いや、まちがいなく個性的ないい小説だとは思うけれど、唯一無二というほどに特別かと問われると「?」がつく。
そんな風に思ってしまうところに、自分の読書家としての経験値の蓄積と、加齢による感性の衰えの両方を感じた一冊だった。
(Jul. 04, 2025)