Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『猿』 京極夏彦
  2. 『高校のカフカ、一九五九』 スティーヴン・ミルハウザー
  3. 『プリンス論』 西寺郷太
  4. 『忍法相伝73』 山田風太郎
  5. 『プレイグラウンド』 リチャード・パワーズ
    and more...

京極夏彦/KADOKAWA

猿

 京極夏彦の作品では、たまに冒頭からうんざりさせられることがある。

 ぱっと思いつくところでいえば、『人でなし』や『塗仏の宴 宴の始末』。最初から登場人物のネガティブな内的独白がつづいて、うへーって気分になる。

 この作品もそんな系列のひとつ。

 物語は一組の夫婦のやりとりから始まるのだけれど、旦那のほうが新型コロナの後遺症で引きこもりになってしまったという設定で、ぐちぐちしていることこの上ない。内縁の妻である主人公の祐美ゆみは、そんな夫の言動を受け流しつつ、冷凍庫の整理とかしている。愚痴っぽい上に会話がかみ合ってない感じが読んでいてつらい。

 この先、この調子でつづくといやだなぁと思っていると、さいわい不幸の元凶である旦那の出番はその最初のパートだけで、その後、祐美が岡山に移動してから、ようやく物語が動き出す。

 彼女は見ず知らずの曾祖母から遺産相続を受けたとのことで、その説明を受けるために、これまた会ったこともない従姉妹と弁護士に会うために、岡山へと出かけてゆく。曾祖母の暮らしていたのは、地図にもない山奥の村――。

 というような横溝正史っぽい設定で、ちょっと不気味なムードが漂うのだけれど、でも終始論理的な語り――というか会話劇――ゆえに、あまりおどろおどろしい感じがしない。雑誌『怪と幽』に連載されたものとのことなので、ホラーとして書かれたのだろうけれど、どことなく不気味な空気が漂っている? くらいの感じ。

 この作品は珍しく章分けがされていないのだけれど、祐美と夫の隆顕たかあきとのやりとりが第一章、祐美が岡山で従姉妹の芽衣と会ってからが第二章、弁護士チームと合流して、女性パラリーガルの尾崎から相続にまつわる特殊な事情を聞かされるのが第三章というような構成になっている。

 祐美があまりしゃべらないので、話は隆顕、芽衣、尾崎による一方的な会話を中心に進んでゆく。でもって最後に相続先の村でのクライマックスに至る。猿、出てはくるけれど、あまり物語に関係なし。

 印象としては、ホラーというよりも「恐怖とはなんぞや?」に関する知的考察が物語の体裁を取ったような作品だと思った。でも、残念ながらとってつけたような結末のせいで、いまいち読後感がすっきりしない。

 「不思議なことなどなにもない」といっていたはずの京極夏彦が、ホラーだからといって、説明不可能な不思議に逃げて物語を幕引きしたのには、どうにも釈然としない気分になってしまった。

 人にはお薦めできない京極作品があるとしたら、『南極』の次がこれかも。

(Jan. 18, 2026)

高校のカフカ、一九五九

スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸・訳/白水社

高校のカフカ、一九五九

 前作同様、原書が厚すぎるという理由で、日本での出版事情を鑑みて二分冊になったスティーヴン・ミルハウザーの最新短編集・其の一。

 内容はいつも通りのミルハウザーだ。超常的なことはほとんど起こらないけれど、それでいて現実感を欠いた不穏な感触の物語ばかりが並んでいる。

 たとえば冒頭の短編では、どこかに電話をして「係の者がまもなく対応いたしますので、電話を切らずにそのまましばらくお待ちください」という自動応答メッセージを聞かされた女性が、待たされたことで記憶を刺激されて、電話口にいもしない話し相手に対して、若いころの異性にまつわる思い出を延々と聞かせる。

 ある男性は親密な関係にある恋人に、正面から向かいあうことを拒まれているし(精神的な意味ではなく肉体的に)、最後の短編では主人公の青年が、恋人の母親となにやら微妙なひとときの夕べを過ごすことになる。

 そういうミニマムな個人の物語の一方で、マクロな視点に立って、位相がずれた社会現象を描くのもミルハウザーの得意技。

 ある町では犯罪者に対して斬首刑が採用されて、広場でギロチンによる公開処刑が行われ、ある町ではマイホームに立てかけた梯子でどこまでも高く昇ってゆくのが流行って、転落死が社会問題になる。ある町では影芝居のブームが人々の生活を変えてゆく。

 もっともボリュームがある表題作『高校のカフカ、一九五九』は、カフカという男子高校生の日常を断片的に描いたもので、それだけならば普通の青春小説という印象だけれども、ところどころに同級生たちのインタビューがインサートされるのが味噌。

 それがあることで、その子が将来なんらかの形で有名になるんだろうなって読者の僕らは勝手に想像する。ただし、カフカくんが将来どんな大人になるのかは明かされない。偉くなるのか、悪いことをするのか。真相は藪の中。おかげでこの作品はふつうの青春小説とはひとあじ違った不思議な感触を残す短編に仕上がっている。

 そんなふうに物語性や会話劇ではなく、その小説の語りのみで世界を構築してゆく。スティーヴン・ミルハウザーほど、小説という表現形態によってどんなことができるかを突き詰めて考え、作品として形にしつづけている小説家も珍しいと思う。

 その存在は唯一無二。でもそれゆえに読むとちょっと疲れるので、年末の慌ただしい時期に読んだのをちょっと後悔した。不本意ながら今回は二分冊にしてくれて助かったかもと思ってしまった。

(Jan. 08, 2026)

プリンス論

西寺郷太/新潮新書/Kindle

プリンス論(新潮新書)

 僕はプリンスのファンを名乗るにはおこがましいリスナーだけれど、それでもプリンスに対しては、ほかのアーティストにはない特別な思い入れを持っている。

 プリンスが『パープル・レイン』で一世を風靡した高校時代。サザン、ビートルズ、ストーンズ、スプリングスティーンなどを一緒に聴いていた友人らが、プリンスにはまったく関心を示さない中、僕ひとりが彼の音楽に夢中になった。

 僕にしたって最初から彼のことが好きだったわけじゃない。初めて『When Doves Cry』を聴いたときには、そのあまりの異質さになんだこりゃと思ったし、セクシャリティを前面に打ち出した彼のルックスは正直好みじゃなかった。

 それでも大ヒットしていたその曲は、聴くともなしに聴いているうちに、僕の中に深々と刺さっていった。どのタイミングで『パープル・レイン』を聴いたのか、記憶がさだかじゃないけれど、そのアルバムを聴くころには、僕はすっかりプリンスの音楽に夢中になっていた。『パープル・レイン』の試写会に応募して、ひとりきりで有楽町へその映画を観にいったりもした(いまの自分からは考えられない行動力)。

 そして、それまで比較的オーソドックスなロックファンだった僕の音楽志向は、プリンスの音楽の持つ多様性とクリエイティビティに触発されたことで、それまで以上の広がりを持つことになった。そのときに獲得した音楽性の広がりが、その後四十年以上にわたって、僕が音楽を聴きつづける原動力になったといっても過言ではない。

 かつての友人たちが高校時代の趣味のまま年を重ねて新しい音楽を聴かなくなってしまったのに、僕だけがいまだ飽きることなく音楽を聴きつづけているのは、もっとも多感なその時期にプリンスと出会った影響が大きいと思っている。

 いわばプリンスは僕の音楽人生における恩人のひとり――。

 さて、ということで前振りが長くなってしまったけれども、これはノーナ・リーヴスの西寺郷太が書いたそんなプリンスの入門書。

 奇しくもプリンスが亡くなる前の年に出た本なので、もしかしたら改訂版が出るかもと思って待っていたのだけれど、出ないまま十年が過ぎたので、ここいらで読んでしまうことにした。

 新書だからそんなに詳細な内容ではないし、キャリアの後半部分が駆け足になってしまっているのはいささか残念だけれど、それでもミュージシャンが片手間で書いたとは思えない、とてもしっかりとした内容に仕上がっている。

 西寺クンのなにがすごいかって、プリンスやマイケル・ジャクソンに出会ったのが小学校五年生のときだということ。

 その年で洋楽に――それもメロディよりもビートを強調したブラックミュージックに――目覚めるのって、単純にすごいなぁと思う。音楽家として世に出る人はひとあじ違う。

 でもまぁ、青春真っただ中の高校時代にプリンスやスプリングスティーン、最盛期のサザンや佐野元春を聴けた僕らだって、十分に幸運だよねって、いまとなると思う。

(Dec. 31, 2025)

忍法相伝73

山田風太郎/講談社/Kindle

忍法相伝73 (ROMANBOOKS)

 忍法帖シリーズの長編で唯一、これまでに一度も文庫化されたことがない、わけありの作品。

 文庫化されていないってことは、要するに風太郎先生が読まれることを望んでいなかったってことなわけで。

 2013年に単行本化されているけれど、ほかの忍法帖は文庫本しか持っていないのに、そういう作品をわざわざ単行本で所有する気になれずにスルーしてしまった。最近になってものすごく昭和レトロな表紙がついたKindle版が出ているのを見つけて、ようやく読むことができたわけだけれども……。

 なるほど。これは駄目でしょう?

 というか、そもそもこれは忍法帖ではないのでは?

 タイトルに「忍法」とはあるけれど、「73」というアラビア数字がついていることで予想がつくように、舞台は現代だ。

 「忍法帖」の「帖」は暗黙のうちに時代劇を意味しているのだろうから、時代劇ではないこの小説をシリーズとしてカウントするのは間違っている気がする。内容的にも、これをあの一連の傑作群に加えるのには、心理的な抵抗を感じてしまう。

 物語は昭和のいまを生きる若者が、先祖が書き残した忍法の覚え書きに従ってみたところ、本当に忍法が使えてしまいましたというナンセンス・コメディ。作風的には忍法帖というよりは『男性週期律』あたりに近い印象だった。風太郎先生らしいシニカルな視点から生み出された、社会風刺に満ちた馬鹿話。

 もともと1964年に発表した『忍法相伝64』という短編を膨らませて連作長編化したものだとのことで、長編化にあたって数字がなぜ「73」に変わったのかは不明。物語的にはこの数字は西暦とは関係がなくて、忍法書に書かれた七十三番目の忍法を最初に使ったのがその名の由来。その後も各章は「忍法相伝85」、「忍法相伝99」と数字の部分をカウントアップしながら進んでゆく。

 試される忍法はどれも荒唐無稽なだけではなく、とても馬鹿らしくて下品なものばかりだから、わざわざ書き残そうって気にもなれない。クライマックスで序盤の伏線を回収したどんでん返しがあるけれど、最後の落ちときた日には脱力ものだ。なにそれ? まるでコントじゃん。

 いやぁ、これは文庫化したくなかったのもわかる。風太郎先生、若気の至り。悪ふざけにもほどがある。山田風太郎の長編ワースト部門に入ること確実な一冊。

 まぁ、そんなわけで内容には感心しなかったけれども、昭和の世相を色濃く反映している点は一興だった。山登りした先のゴミの多さに国民の道徳意識の低さを嘆くあたりには、外国人に国の清潔さを絶賛されている令和の現代とは隔世の感があった。

 とりあえず、忍法帖シリーズもほぼ読みつくして、残すところあと一冊。これがその最後の一冊なんてことにならなくてよかった。

(Dec. 29, 2025)

プレイグラウンド

リチャード・パワーズ/木原善彦・訳/新潮社

プレイグラウンド

 リチャード・パワーズ三年ぶりの最新作。

 今回の作品では時系列の異なる三つの物語が同時進行で語られてゆく。

 メインとなるひとつめの舞台はマカテア島というポリネシアの島。かつてはリン鉱石が取れたことで栄えたものの、資源の枯渇とともに衰退(ここまでは実話)。現在は過疎化して、住民が八十人くらいしかいないこの島に、新たな開発事業の話が持ち上がる。その是非をめぐる住民投票の顛末が、群像劇として、最新時間軸で描かれる。

 ふたつめはその島で子供ふたりと暮らすアメリカ人夫婦、ラフィ・ヤングとイナ・アロイタ、そして彼らとかつて親密な関係にあったIT長者、トッド・キーンの物語。

 貧乏家庭に生まれた黒人のラフィと大富豪の息子トッドがいかに知りあって親友となったか、ポリネシアからの留学生だったイナとラフィが出逢ったことから、彼らの関係がどのように変わっていったかが、認知症が進行しつつあるトッドの回想談として、一人称で語られてゆく。

 最後はトッドが幼いころに憧れた女性海洋生物学者、イーヴリン・ポーリューの話。この人も現在はマカテア島の住人で、海で死ぬのが本望とばかりに、九十二になってなおスキューバダイビングに精を出す元気なお婆さん。女性学者の先駆けとして道なき道を歩んできた彼女の波乱に富んだ人生が幼少期までさかのぼって綴られている。

 博覧強記なパワーズのことだから、海洋生物学やAIや囲碁の話など、ディテールの蘊蓄うんちくもたっぷりだけれど、とにかく以上の三つの物語がどれもおもしろい。

 まぁ、それらが最後にどのように結びついてゆくのかと思っていたら、「え、それってあり?」と思うような落ちがつくのには、ちょっとだけ釈然としなかったけれども。

 それでもかつての作品ほどの難解さはないし(まぁ、だからといってすべてが理解できたといえないところが情けない)、読み物としてはとても楽しめました。

 きちんと読み取れなかった点も多々あったので、これはいずれ再読しないといけない。――というか、パワーズの作品はすべて一度といわず何度でも読み直したい。

(Dec. 18, 2025)