Menu

Recent Notes

  1. 『渚にて 人類最後の日』 ネヴィル・シュート
  2. 『くらもち花伝 メガネさんのひとりごと』 くらもちふさこ
  3. 『葬儀を終えて』 アガサ・クリスティー
  4. 『巨大なラジオ/泳ぐ人』 ボブ・ディラン
  5. 『タランチュラ』 ボブ・ディラン
    and more...

渚にて 人類最後の日

ネヴィル・シュート/佐藤龍雄・訳/東京創元社/Kindle

渚にて 人類最後の日 (創元SF文庫)

 核戦争により絶滅の危機にある第三次世界大戦後の世界を描いたSF小説の金字塔とのこと。
 この小説、核戦争後の世界を前提にしている時点でジャンル的にはSFってことになるんだろうけれど、その内容にはびっくりするくらいに近未来的なところや超常的なところがない。
 舞台となるのはソ連と中国が始めた核戦争により放射能が蔓延して北半球が絶滅してしまった世界。その影響がいまだ及ばない南半球のオーストラリアで、いつ訪れるかもしれない死の灰の恐怖に怯えながら暮らす人々の姿を描いてゆく。
 物語の中心となるのは国を失ってオーストラリアに身を寄せたアメリカ軍の潜水艦の艦長。彼が調査のために出向く二度にわたる北半球への航海を軸に、そのあいまに現地の女性と親しくなってデートする様とか、彼に連絡仕官として仕えるオーストラリア軍少佐の家庭の模様とか、そういうありふれた話が淡々と描かれてゆく。
 世界が滅びようとしていることを除けば、その描写は普通小説となんらかわらない。物資が不足していて、人々が自動車をあきらめて牛馬に頼るような生活を強いられているために、かえって前時代っぽい雰囲気さえある。
 なんでも二度にわたって映画化されているそうだけれど、もしもこの内容がそのまま忠実に映像化されているとしたら、SF映画が観たくてこれを観てしまったときのコレジャナイ感ははんぱないだろうなと思う。
 世界の終わりを描いた話がどれだけあるのかは知らないけれど、この手の作品のクライマックスはその絶対絶命な状況がいかに解決されるかというところにあるのではないかと思っている。
 さて、ではこの小説ではどういう形で人類を救ってみせるのか――。
 ネタばれになってしまうから書かないけれど、そこには僕の予想を大きく裏切る結末が待っていた。いやはや、まいった。降参です。もうなんにもいえねぇ。
(Apr. 07, 2019)

くらもち花伝 メガネさんのひとりごと

くらもちふさこ/集英社

くらもち花伝 メガネさんのひとりごと

 僕の少女マンガの原体験はくらもちふさこだった。
 それ以前にも『キャンディ・キャンディ』や『ベルサイユの薔薇』、『エースをねらえ』などは読んだことがあったけれど、それらは少女マンガというよりはアニメの原作としての性格が強かったから、特に少女マンガであることを意識してはいなかったと思う(そもそも誰に借りたんだかまるで記憶にない)。
 そうしたメディアミックスを抜きにして、初めて純粋に少女マンガを少女マンガとして読んだのがくらもちふさこの作品だった。
 なぜくらもち作品を読むようになったかというと、単純な話で、うちの奥さんが結婚時に引越し荷物として新居に持ち込んてきた唯一のマンガがくらもちさんの作品郡だったから。それほど熱心なマンガの読者ではないうちの奥さんが、なぜだかくらもちふさこだけは愛読していたのでした。
 僕はなにかと運のいい男だったりするけれど、結婚相手がたまたまくらもちふさこのファンだったというのも、間違いなくその幸運のうちのひとつだと思う。
 だってないでしょう、僕らの世代の男には、くらもちふさこと出会う機会って?
 家族に姉や妹がいればともかく、男兄弟で生まれ育った昭和生まれの男には少女マンガと出会う機会なんて、せいぜいアニメしかないわけで。アニメ化されていない少女マンガについての知識なんて当時はほぼゼロだった。
 そんなところへ、くらもちふさこの主要作一式が、妻の数少ない蔵書の一部として持ち込まれてきたわけです。しかも時は『天然コケッコー』の連載が始まったばかりのころ。これを僥倖{ぎょうこう}と呼ばずなんと呼ぼう?
 僕にとって初めて読むくらもちふさこの世界は驚きに満ちていた。え、少女マンガにはこんな世界もあるんだと思った。
 くらもちさんの作品で描かれる物語は、それまで僕が抱いていた単純な少女マンガのイメージを刷新した。基本的にはどれも恋愛マンガだけれど、でもそれはハッピーなキスで終わるボーイ・ミーツ・ガールの物語なんかじゃない――いやまぁ、初期の作品はそうかもしれないけれど、少なくても中期からは確実に違う。
 個人的には『Kiss+πr2』のあたりがターニング・ポイントだと思っている。少女マンガなのに男性を主人公にしたあの作品以降のくらもち作品は、どれも単なる惚れた腫れたの紋切り型の恋愛劇には終わらず、その背後にある人としての心の機微を繊細に描いている。その物語には性別を超えて訴えかける力があると思う。まぁ、作風にくせがあるから万人に、とはいいがたいけれど。
 少年マンガのファンタジーやスポ根ばかりの世界観に慣れた僕にとっては、魔法もスポーツも殺人もなしで、ごく普通の人たちを主人公にここまで深みのある物語を描けるマンガが存在したということが驚きだった。それはそれまで僕が親しんできた少年マンガ・青年マンガにはない世界だった。その読後感は、どちらかというとマンガというよりも漱石あたりの文学に近い気がする。
 くらもちさんのファンになったのをきっかけに、その後の僕はわけへだてなく少女マンガを読むようになり、いまとなると少年マンガよりも少女マンガのほうが読んでいる量が多いんじゃないかって状況だけれど、それでも(いくえみ綾を例外として)いまだにくらもちふさこに比肩しうるほどのマンガ家とは出会えていない。
 そんなくらもち先生が自らの創作の姿勢や作品の思い出を語ってみせたのが本書。なんと帯の推薦文は椎名林檎だっ!
 本の中身にはぜんぜん触れてないけれど、ここまで書いたら満足がいってしまったので、これにておしまい。
(Apr. 07, 2019)

葬儀を終えて

アガサ・クリスティー/加島祥造・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle

葬儀を終えて

 一家の大黒柱が病死して、その葬儀が終わったあとの会食の席での話。長いこと疎遠だった(でもって若いころから空気が読めない人と評判の)故人の妹が「リチャードは殺されたんじゃないの?」と爆弾発言をして、親戚一同に気まずい思いをさせたその翌日、問題の女性が自宅で惨殺される事件がまき起こる。当家のおかかえ弁護士と旧知の仲だったことから相談を持ちかけられたポアロは、みずからの身分をいつわって事件の調査へと乗り出すことに……。
 この作品は殺人の動機を隠すために真犯人が仕掛けたトリックが見事だ。ミステリの定石を逆手にとってみせたクリスティーはさすがだと思う。
 ただ、一方でそのトリックの実現方法にあまりにも説得力がなさすぎるのが欠点。いくらなんでも、そんなことで一族全員の目をごまかせるというのには少なからず無理があるでしょう。もうちょっと設定を変えて、そこのところにきちんと説得力を持たせることができていたらもっと素晴らしい作品になっていたんではないかと思う。
 前作の『魔術の殺人』にしても、この『葬儀を終えて』にしても、ミステリとしての着想には非凡なものがあるのに、トリックの実現方法に対する作品の詰めがいまいち甘いために、そのよさが十分に生かしきれていない感があるのが残念なところだ。
 クリスティーもこのころすでに六十代。失礼ながら、さしものミステリの情報もいささか衰えを感じさせるようになってきたかなぁ……と思わないでもない。
(Mar. 17, 2019)

巨大なラジオ/泳ぐ人

ジョン・チーヴァー/村上春樹・訳/新潮社

巨大なラジオ / 泳ぐ人

 今年はできるかぎり紙の本も読むぞとの誓いもむなしく。
 正月の三箇日に読み始めてみたにもかかわらず、最初の二話があまり好きになれなかったので、つづきを読む意欲がうせて、気がつけばその後は一ヶ月以上放置プレイ。結局読み終えたのは二月に入ってからだった。
 そんな村上春樹の翻訳家としての最新作は、ヘミングウェイやフィッツジェラルドと同じ時代の作家、ジョン・チーヴァーという人の短編集。
 読み終えるまでじつに一ヶ月半近くかかってしまったけれど、実際に読んでいた日数はわずか四日。でもって最初はいまいちとか思っていたくせに、そこは春樹氏が自らチョイスした作品ばかりなだけあって、ちゃんと身を入れて読んでみれば、それ相応に楽しんで読むことができた。なんで最初からもっとちゃんと読めないかな、俺。いけません。衰えるにもほどがある。
 まぁ、最初に乗り切れなかったのは、このジョン・チーヴァーという人の作風がいささか古びて感じられたから。
 古いというか、マイルドというか。人生の暗い部分に光をあててみたけれど、いたたまれないからつい目を逸らしてしまいました、みたいな短編ばかり。よくいえばその視線はナチュラルに優しい。ただ、その優しさが作家としての甘さに感じられてしまう嫌いがなきにしもあらず。そんな印象だった。
 ただまぁ、そうした作風は同時代のフィッツジェラルドやヘミングウェイ、フォークナーなどとは確実に違う個性だとも思う。とりあえず二十世紀初頭のアメリカにはこういう作家もいたんだということを知ることができてよかった。
 最初はいまいちとか思っていたくせに、そのうちにまた読み返したくなるかも……といまは思っている。
(Mar. 14, 2019)

タランチュラ

ボブ・ディラン/片岡義男・訳/KADOKAWA/Kindle

タランチュラ (角川マガジンズ)

 ボブ・ディランが六十年代に書いた小説――だかなんだかよくわからない本のKindle版。翻訳家は僕らが高校生のころに『スローなブギにしてくれ』などで一世を風靡した片岡義男氏。
 いやしかし、これは僕にはまったくなにがなんだかわからなかった。片岡氏はあとがきで「ボブ・ディランの『タランチュラ』は、難解である、とよく言われているが、けっしてそのようなことはない」と書いているけれど、もはや難解だとかいう以前の問題な気がする。ほんと、なにが書いてあるか、さっぱりわからない。
 言葉のひとつひとつがつながりを欠いたまま、自由きままにコラージュされている感じ。もしかしたら、ディランの歌詞に通じている人ならば、その言葉の断片を彼の音楽とリンクさせて豊かなイメージを喚起できたりするのかもしれないけれど、詩人ボブ・ディランの世界にきちんとコミットできていない僕にとっては、意味不明な言葉のつらなりでしかなかった。
 通常の書籍だとわずか141ページの薄い本らしいから、読むのにそんなに時間はかからなかったけれど、それにしても、これだけ意味不明な本を、意味不明なまま、よくぞ最後まで読みきったもんだと。ちょっとだけ自分で自分に感心しました。
 ──いや、もしかしてすごいのは、こんな意味不明な本をちゃんと最後まで読ませるボブ・ディランなのか?
(Feb. 13, 2019)