Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『二人称』 n-buna
  2. 『ランゲルハンス島の午後』 村上春樹・安西水丸
  3. 『新編 日本の面影 II』 ラフカディオ・ハーン
  4. 『新編 日本の面影』 ラフカディオ・ハーン
  5. 『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ
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二人称

n-buna/講談社

書簡型小説「二人称」 ヨルシカ

 書簡小説はたくさんあるのに、実際に封筒に手紙を入れた形で出版された作品がひとつもないのはどうしてだろう?――と思ったヨルシカのn-bunaくんが、ならば自分で作ってやろうと書きおろした異色作。

 いざ作ってみたらあまりに製造コストがかかってしまって、なるほどこれでは誰にも作れないはずだと納得したらしいですが。本人が出版業の部外者だからこそ実現できたと語る怖いもの知らずな逸品。

 ものとしてはヨルシカのデビュー・アルバム『だから僕は音楽を辞めた』の初回限定盤についてきた手紙や写真の入った紙箱、あれをもっと本格的に展開して、音楽とは切り離した単品の作品に昇格させたよう作品だと思う。

 アルバム『二人称』の新曲の歌詞がすべて収録されているので、異色の歌詞カード的な楽しみ方もできる。ときにはワンフレーズに五線譜がつけてあったり、書き直したり反故にした部分もあって、n-bunaの創作の過程を垣間見られる点も興味深かった。

 物語は「無料で文章の添削をします」という広告をみた引き籠りの少年が、自作の詩を送って批評を依頼したところから始まる「先生」との往復書簡を、実際の封筒に入れて形にしたもの。

 やりとりは全部で三十二通。それが原稿用紙とその返信の便箋や同封された写真(実物ではなくそれ風のカード)と一緒に個々の封筒に入っている。

 手紙といっても少年が使っているのは原稿用紙だから、ふつうの手紙とはいえない。

 原稿用紙は一枚ずつ六折りにして重ねて封入されている。製本(?)の都合でこういう形になっているんだろうけれど、ふつうに考えると、封筒に入れる際には、原稿用紙なり便箋なりを束ねて折るものだから、モノとしての体裁は決してリアルに現実を再現できているわけではない。

 なので実際に読むとなると、封筒から出した手紙を一枚ずつ開いて読んでたたんで戻して、開いて読んでたたんで戻して、という形になる。

 そんな風に読むのは不自然な上にリズムが悪い気がしたので、僕は三通目くらいからは封筒から出したあと最初に全部開いて束ねてから読むようにした。そのほうが手紙を読んでるっぽくなるので。

 そもそも封筒に宛名とか書いてなくて、連番と日付が振ってあるだけってのも不自然じゃん?――という疑問にはちゃんと最後に答えが用意されている。その辺はさすがn-bunaくん。用意周到というか、仕掛けは上々、仕上げをご覧じろって感じ。

 いざ読んでみると、この形にしたからこそ味わえるサプライズがいくつも仕掛けてあるのがすごい。最初は往復書簡になっているのに、途中から返信がないものがつづいたので、どうしたのかと思ったら、そのあとにどっきり的な返信があったりする。全体としては純文学的なのに、その部分にはある種のサスペンスみたいな味わいがあった。

 手紙はすべて手書で、おそらくn-buna本人が書いているんだろう。往復書簡だから二人分を、筆跡を変えて、文字を色違いにする工夫も凝らしてある。

 書簡小説を実際に手に取れるリアルな形で提供するというコンセプトをこういう形で実現して見せた着想と行動力には脱帽するしかない。

 そもそも僕は「書簡小説なのになんで実際の手紙の形にしないんだろう?」なんてこれぽっちも疑問に思ったことがなかったし、原稿用紙にはひとマスに一文字を書くのが当然だと思って疑ったことがなかった。

 ところが、n-bunaは「原稿用紙が高いので枚数を節約したいから」といって、四百字詰めの原稿用紙にマス目を無視して自由に文章を書く。そういう常識に縛られない姿勢があってこそ、こういう作品が生まれてくるわけだ。

 節約したいならわざわざ原稿用紙なんて使わなきゃいいじゃん――という話は野暮だからなし。あえて原稿用紙を使うことに、ものを書く人間としての矜持や美学があるはずだから。

 この物語のなかで引用癖のある主人公の文学少年は、謎の年配者との書面での交流をへて、徐々に詩人として成長してゆく。

 引用というのは、対象となる作品の内容をみずからのうちに取り込んで、自分のものとしているからこそできる行為だろう。この作品に限らず、ヨルシカの音楽にも、彼が影響を受けてきた数多の作品の影響がみてとれる。

 それをきちんと昇華して、こういう作品の形にまとめあげてみせる才覚と労力には感心するしかない。読んだ本の内容をかたっぱしから忘れてゆく僕のような男にはとうてい真似ができない(これを読んで僕は自分の人生の最大の問題はこの記憶力のなさと学習能力の低さだなといまさらながら思った)。

 いやしかし、封書が三十通以上たばねられているので外箱がでかい(LPサイズ)。わが家は収納スペースに難ありなので、読む前には、いずれふつうの本としても再販されるかもしれないから、それを待とうかなとか思っていたんだけれど、活字にしたら作品の本質が失われてしまうから、n-bunaが出版を認めないかなと今は思う。

 いずれにせよ、本として読んだとしたら伝わらないニュアンスこそが肝って作品なので、興味があったらぜひ一度手にとってみて欲しいと思います。ちょっと高いけれど、一読の価値はある。

(Apr. 4, 2026)

ランゲルハンス島の午後

村上春樹・安西水丸/新潮文庫/Kindle

ランゲルハンス島の午後(新潮文庫)

 三月の月刊村上春樹は、安西水丸氏のイラストをフィーチャーした共著のエッセイ集。

 この本を読んでなにに驚いたかってその薄さ。

 デジタルで読んでいるから物理的なページ数がわからなかったもんで、わずか三日で読み終わってしまったことにびっくりした。

 あとから確認したら、文庫版はわずか百十二ページ。

 そりゃすぐに終わって当然だわ……。というか、一日で読み終えなきゃいけないボリュームじゃん。三日もかけてんじゃないよ俺。

 もうひとつ驚いたのがその内容。

 イラストが主役という位置付けなのか、一篇一遍が短め(たぶん文庫本だと二ページ?)で、ボリュームがない分、ほとんどがどうでもいい話に終始して、僕が苦手な『村上朝日堂』の感触にきわめて近かった。

 なにこれ、『村上朝日堂』とどう違うの?

 ――と思ったら、それもそのはず。

 巻末に添えられた安西氏のあとがきに「村上朝日堂画報」のタイトルで連載されていたものだとという紹介がありました。

 あぁ、そうでしたか……。

 連載時期は一九八四年からの二年間だというから、まさに『村上朝日堂』の最初の二冊と同時期の作品で、要するにカラー版の『村上朝日堂』って企画だったわけだ。

 でもまぁ、安西水丸さんの絵――エッセイ一篇ごとに静物画のイラスト二枚が最初と最後に添えられている――が素敵なので、それらをタブレットの大画面で眺められるだけでも、文庫よりもKindle版で読んでよかったかなと。

 そんな一冊。

(Mar. 31, 2026)

新編 日本の面影 II

ラフカディオ・ハーン/池田雅之・訳/角川ソフィア文庫

新編 日本の面影 II (角川ソフィア文庫)

 前作『新編 日本の面影』から十五年のインターバルをへて刊行された続編。

 こちらに収録されているのは十編のみで、二冊あわせてもいまだ全話に足りない。ページ数も前作より百ページも少ないし、なにゆえ全部訳してくれないのか疑問でしかない。

 そんな中途半端な作品な上に、『ばけばけ』の影響で軒並み在庫切れだったので(僕みたいな読者がたくさんいるらしい)、読まなくてもいいかなぁとも思ったんだけれど、なんとなく読まずに終わらせるのも座りが悪いので、アマゾンに在庫があるのを見つけて即座に入手した。なんたって『鎌倉・江の島詣で』なんて作品もあるし。ハーンが語っているなかで、自分が訪れたことのある場所は鎌倉だけなので、それがどんな風に語られているかには興味があった。

 でも小泉八雲が訪れた鎌倉や江の島は、僕が知っている現在のそれとはずいぶん印象が違うみたいだった。

 鎌倉はかつての首都の成れの果てみたいな感じで、なんだかさびれたイメージで語られているし、逆に現在では観光地としての俗なるイメージが強い江の島(そんなことない?)は「霊的な感動を伴った魅力」を持っているなんて書かれている。マジすか?

 すでにその時代にあって、西洋化によって失われつつある日本の素朴なる魅力を嘆いていたハーン先生がいまの江の島を見たらどれだけ悲しむことやら……。

 この本にはおまけで妻の小泉節子さんが思い出を語ったエッセイが収録されている。それだけでも五十ページ近いボリュームで、『ばけばけ』のサブテキストとしてはもってこいの内容だった。これだけのために買っても後悔しなのではという気がする。

 まぁ、なぜにこれを最初の本から外したんだろうと思ってしまうような作品もあるし、とりあえず一冊目を読んだ人はこちらも読んでおいたほうがよかろうって一冊。

(Mar. 23, 2026)

新編 日本の面影

ラフカディオ・ハーン/池田雅之・訳/角川ソフィア文庫

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

 朝ドラ『ばけばけ』を観ていて、ラフカディオ・ハーンが当時の日本についてどんなことを書いていたのか興味が湧いたので読んでみた、小泉八雲先生による日本に関する初めての著作『Glimpses of Unfamiliar Japan』の部分訳。

 できれば全訳が読みたかったんだけれど、これがいちばん手に取りやすかったし、角川ソフィア文庫には好印象を持っているので、まぁこれでいいやと思って読むことにした。

 収録されているエッセイは十一編。

 Kindleで原書(すでにパブリックドメインだからただで読める)を確認したところ、全二巻で二十七編が収録されているので、この本の収録作はその半分にも満たない。それもすべて全訳しているわけではなく、適度に端折られているそうなので、ちょっとなぁとは思う。原作者の意を汲まぬ部分訳にはいささか抵抗を覚える。最初からそうだとわかっていたら読んでなかったかもしれない。

 でもまぁ、内容についてはおもしろかった。僕はまったく旅行をしない人間なので、百年以上前に生きた外国人の目を通して描かれる、自分の親さえ知らない時代の日本の風景はいろいろと新鮮だった。

 なかでは冒頭の三作品――日本に到着したその日に寺社参りしまくる『東洋の第一日目』、ゆきずりの村の祭りに魅了される『盆踊り』、松江での生活を描いた『神々の国の首都』――がお気に入り。米突きの重低音の響きで目を覚まし、日の出の光に向かって柏手を打つ町の人々の姿を活写するハーンさんの描写力はとてもビビッドだ。

 杵築大社(いまの出雲大社が当時はそう呼ばれていたそうだ)を外国人として初めて訪ねたときの話も印象的。天皇陛下にも比肩する尊敬を集る宮司の存在に驚いた。

 帰化しただけあって熱烈な親日家であるラフカディオ・ハーン氏だけれど、おもしろいと思ったのは、御大が語る日本人のイメージが、インバウンドで来日する現代の外国人観光客のそれとほとんど一緒なこと。

 礼儀正しくて謙虚で優しい。そして町がどこも清潔。――そんな日本人の美徳は明治の世から令和のいまに至るまで変わっていないらしい。

 そういうところはこれからも大切にしていけたらいいなと思いました。

(Mar. 19, 2026)

薔薇の名前

ウンベルト・エーコ/河島英昭・訳/東京創元社(全二巻)

薔薇の名前<上> 薔薇の名前<下>

 興味はあるのに読めないでいる本がたくさんある。この『薔薇の名前』もそのうちのひとつだった。

 名作だといわれるし、映画化もされたくらいだからおもしろいんだろうと思いつつも、読む機会が作れずにいた。僕の軸足は英米文学なので、イタリアの小説となると、いささか距離が遠くなる。それを読むなら、まだ読んでない英米文学がたくさんあるじゃんってことになる。

 加えてこの作品の場合、翻訳の刊行から四半世紀が過ぎてなお文庫化されていないという特殊な作品だったのも、手に取りにくさを助長していた。

 文庫化されていないから価格的に手に取りにくい――という意味ではなく。

 本は音楽と並ぶ一番の趣味なので、そこに出し惜しみはしない(まぁ、懐が許す限り)。それどころか単行本で読める本は、文庫化されていても極力単行本で読むことにしている。たまには装丁の好みで文庫本を選ぶこともあるけれど、基本的にはどちらか一方を選べといわれれば単行本を選ぶ。若いころに貧乏で文庫本しか買えなかった反動かもしれない。

 なので、買いそびれている作品については、文庫化されるタイミングで「あ、やばい、絶版になるかもしれないから単行本を買っとかなきゃ」と思うことが多い。

 ところがこの作品の場合は長いこと文庫化されていないので、そう思うタイミングもなかった。結果、いつかは読もうと思いながら四半世紀……。

 このたび、文庫化されるかわりに「完全版」と称した改訂版が刊行されたので、ちょうどいい機会かららそれを読もうと思っていた――んでしたが。

 いざ発表されたその価格が上下巻あわせると千八百円も高くなっていた。

 いくら出し惜しみをしないといっても、好きになれるかどうかもわからない作品にそれだけ余計に出す? そもそも新しい装丁が気に入るかもわからないのに?

 ――などとどうしようか悩んでいたら、完全版の刊行にあわせて、旧版は出荷停止になるという発表があった。

 もともとこの作品が気になっていたのは、その装丁に惹かれていたからというのも大きかったので、その時点でもういいやと諦めて、完全版の装丁の発表を待たずに古いほうを買った。すでにジュンク堂ほかの書店では在庫切れになっていたので、あわてて在庫があったアマゾンでポチった。

 ということで刊行から四半世紀のときを経て、いささか傷み気味の単行本をゲットして、いまさら読んだイタリア文学の逸品。

 うん、なるほど。これはすごい。素直にすごいとは思う。思うんだけれど、でも好きかといわれると、それほど好きとはいえない。

 もとより時代劇と現代劇とどっちが好きかといえば現代劇だし、中世のイタリアの修道院を舞台に、キリスト教の蘊蓄をこれでもかと詰め込んで語られるこの小説は、僕の趣味からは基本的にずれていた。そんな読んで楽しいって話でもないし、読みやすいわけでもないし。これが世界中でベストセラーになったのってすごいなって思った。

 ミステリの意匠を借りこそすれ、主題はむしろ宗教談義。その点では同じようにミステリの形でもって妖怪を語った『姑獲鳥の夏』に近いものがあると思った。まぁ、格調はだいぶん違うけれども。でもこちらもエロがあったり、下ネタがあったりで――キリスト教の厳格さに対するアンチテーゼなのだろうけれど――それほどお上品でははなかったりする。

 いずれにせよ、わざわざ高い金を払ってまで完全版を読みたいと思うほどではなかったので、絶版ぎりぎりで旧版を手に入れておいてよかった――といいたいところなんだけれど、読んだいまとなると、新しい装丁もけっこう悪くない気がしていて、完全版の初版を買わなかったことをちょっとだけ後悔する気持ちが……。

 なんて駄目な本好きなんだ。

(Mar. 06, 2026)