Coishikawa Scraps / Books

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最近の五冊

  1. 『小説の読み方、書き方、訳し方』柴田元幸・高橋源一郎
  2. 『村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる』 村上春樹
  3. 『マルドゥック・アノニマス11』 冲方丁
  4. 『観光』 ラッタウット・ラープチャルーンサップ
  5. 『絵本百物語』 京極夏彦・竹原春泉・桃山人
    and more...

小説の読み方、書き方、訳し方

柴田元幸・高橋源一郎/河出文庫

小説の読み方、書き方、訳し方 (河出文庫)

 翻訳家の柴田元幸と小説家の高橋源一郎が「小説とはなんぞや」について語り合った対談集。

 かたや日本におけるアメリカ文学の第一人者、かたや日本現代文学の魁的存在。そんなふたりがそれぞれの立場から、小説を訳すとはどういうことか、書くとはどういうことか、そしてどんな風に読むべきなのかということについて、それぞれの立場から語りあっている。

 柴田さんの専門は米文学だけれど、語られている海外文学は英米に限ったものではないし、日本文学はほとんどを知らない僕にとっては、高橋さんが語る作品のほとんどが未知の世界。それなりの量の本を読んできたつもりでいたけれど、僕くらいの読書量ではまったく本好きを名乗れないなぁと思わされた一冊だった。

 おもしろかったのは序章で柴田さんが語っている、自分は「適性とやりたいことがまったく合わない」という話(p.32)。

 適性試験の結果を見ると、事務能力が抜群だから、事務の仕事に就くべし、みたいな結果が出てくるのに、芸術にかかわる仕事がしたかった。結果として、文学作品を事務的に処理してゆく翻訳家という天職を得られて万々歳、みたいな話(意訳してます)。

 僕自身も音楽や文学に憧れながら、想像力が低すぎてまったくそちらの方面へ向かえず、適性にあったIT関係の仕事で糊口をしのいできた人間なので、すごく共感するものがあった。まぁ、比較するのもおこがましいけれど。

 いずれにせよ、自分の不勉強さを痛感させられた一冊。

 この頃は洋楽よりも邦楽のほうがおもしろいし、もしかして日本文学もいま読めば心に響く作品があるのかもしれないから、いずれこの本で紹介されている日本の作品をぼつぼつ読んでみようかなと思っている。

(Jul. 4, 2026)

村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる

村上春樹・安西水丸/新潮文庫/Kindle

村上朝日堂超短篇小説 夜のくもざる(新潮文庫)

 村上春樹という人の評価が賛否両論に分かれるのは――そして僕が春樹氏を無条件に受け入れられない理由は――こういう作品があるからなんだろうなぁって思うような一冊だった。

 『カンガルー日和』につづく二冊目の超短編小説集。

 とはいっても、こちらは安西水丸氏とのコラボで、連載誌の広告として掲載されたものとのことで、あちらよりももっと短い。

 僕が読んだ端末だと、小説本編は一話あたり三ページ足らず。『カンガルー日和』の表題作は九ページだから、一遍あたりのボリュームは三分の一。あちらが超短篇だとしたら、超々短篇って感じだ。

 さすがにそのページ数だと起承転結のある物語をつむぐのは難しいので、内容はワン・アイディアで笑いを誘うようなものが中心となっている。

 その内容がなぁ……。

 よくいえば無邪気でユーモラス。悪くいえば幼稚で馬鹿っぽい。

 単行本の刊行が1995年の六月だから、『ねじまき鳥クロニクル』と同時期の作品だ。すでに作家としての地位を確固たるものにしていた村上氏が、そのステータスからすると軽薄すぎる嫌いがあるこういう本を臆面もなく出しているという事実が、この人の評価を二分しているんじゃなかろうか。

 だって『ねじまき鳥クロニクル』を読んでファンになった人が、同じような作品を期待して表題作の『夜のくもざる』を始めとした動物がしゃべる系の話を読んだら、やっぱとまどうでしょう? なにこれって話になる。

 中には『夜中の汽笛について、あるいは物語の効用について』みたいな味わいのある短篇もあるけれど、それはほんの一握りで、あとはナンセンスなものばかりだ。

 そういう村上さんを「おもしろい」「かわいい」と受け入れられる人を世間ではハルキストと呼ぶんだろう。残念ながら僕はそういう読者ではないので、うーんって感じになってしまう。

 とくに引っかかったのが『激しい雨が降ろうとしている』という作品のなかの一節。

 「これは小説ではなくて、ほんとうにあった話」と断って始まるこのエッセイの中で、春樹氏は若いころの自分について、「議会制民主主義に対して不信感を抱いており、一度も投票したことがない」と書いている。

 以前のエッセイでは子供はいらないっていっていたし、村上春樹という人が基本的に社会とは最低限しかかかわらないという姿勢を貫いているのは知っている。

 それは仕方ない。子供をつくらなかろうと、選挙にいかなかろうと、それは個人の自由だ。他人が口出しをすべきことではないと思う。人に迷惑をかけないかぎり、なにをするのも自由だ。僕だってゆかずに済むならば選挙になんかいきたくない。

 でも誰ひとり子供をつくらず、選挙にいかなくなったら、国は滅びるわけですよ?

 子供がひとりも生まれない国では、国民全員が年老いたあとに働き手がゼロになって、社会が回らなくなる。誰も選挙にいかない国では、立候補した悪人が独裁者になって、戦争を始めるかもしれない。

 僕らがいまのこの平和な日常を維持できているのは、ふつうに子供をつくり、選挙にゆく人たちがいてくれるからだ。

 村上氏の言説からは、そういうあたりまえのことに対する認識が感じられない。その一方でこの本に載っているようなナンセンスなユーモアをまき散らしている姿勢をみると、どうにも尊敬できないよなって気になる。

 選挙にゆかなくても、子供をつくらなくてもいいけれど、つべこべいわずに黙っていればよくないですか?

 「議会制民主主義に対して不信感を抱いており」なんてエクスキューズはいらない。金はいくらでもあるのだろうから、議会制民主主義に不信感を持っているのならば、議会制民主主義がない国を探して移住すればいい。そうもせずに日本でのほほんと暮らしながら「選挙には行きません」なんてのは単に無責任なだけだ。

 この本は英語に翻訳されていないようだけれど、もしも翻訳されて世界中の目に触れるようになった日には、村上春樹がノーベル賞を取ることは金輪際ないだろうなって思った。

(Jun. 27, 2026)

マルドゥック・アノニマス11

冲方丁/ハヤカワ文庫JA/Kindle

マルドゥック・アノニマス 11 (ハヤカワ文庫JA)

 前作から一年ぶり――といいつつ、遅ればせながらの読者の僕にとってはもうちょい短い――となる最新刊は、ラスティによるホテル籠城事件の決着編。

 序盤からゴリゴリと派手なバトルシーンが延々とつづくので、今回はただひたすらバトルあるのみ!――って展開で最後まで押し切るかと思ったらば、だ。

 ある程度ページ数を残して事件に決着がつき、謎の新キャラエド・ゴーリーの意外な正体があきらかになって、ようやく一段落……と思ったあとに。

 しばしのインターバルを挟み、もうひと波乱ある。

 オフィスとクインテットが同時にシザースの襲撃を受け、仲間がばたばたと倒れる緊急事態が発生。

 さらにシザースは、ノーマ・オクトーバーとの結婚を前提にしたおつきあいのため、彼女のウィルスに感染させられて人事不省となったハンターの拉致へと動き出す。

 この窮地を抜け出すため、バジルはバロットへの緊急コールを発動。

 かくして再び――ではなくみたび?――オフィスとクインテットとの共闘による戦いが始まる。今度の敵はシザース!

 なかなか終わりの見えなかったこの物語にも、ようやく真のクライマックスが近づいてきた感じがする。

 つづきはまた来年かぁ……。

(Jun. 16, 2026)

観光

ラッタウット・ラープチャルーンサップ/古屋美登里/ハヤカワepi文庫

観光 (ハヤカワepi文庫)

 申し訳ないけれど、まったく名前を覚えられる気がしない。

 タイ系アメリカ人作家、ラッタウット・ラープチャルーンサップの短編集。

 アメリカの非白人系作家ということで、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』のジュノ・ディアスを連想しながら読み始めたら、一話目の『ガイジン』――タイ旅行中のアメリカ人女性とアバンチュールを重ねるハーフのタイ人の青年の話――がまさにそんな印象だったので、同じように奔放な性遍歴を描くタイプの作家かと思ったら、似た感触だったのはそれ一編だけだった。

 そもそもジュノ・ディアスの作品はアメリカに移民してきたドミニカ人が主役で、舞台はアメリカだったけれど、この短編集の舞台はすべてタイだ。そういう意味では表現に向かう立ち位置自体が基本的に違う。

 アメリカ人ではあるんだろうけれど、テーマはタイという国に生きる人々の姿。どの短編も自分と大事な人たち――家族や親友―とのきずなや断絶を、優しい視点で描いてゆく。シビアなテーマを扱いながら、最悪をぎりぎりで回避して、見事に軟着陸させているというか。扱う素材はハードだけれど、仕上がりはソフトだというか。そんな感触の短編がほとんどだった。

 女性観光客との刹那な逢瀬を重ねるハーフの青年。兄の風俗通いについてゆく幼い弟。親のコネで徴兵を回避したことを親友に伝えらない少年。まもなく失明する母親と最後の旅に赴く青年。カンボジア難民の女の子との思い出を汚す少年。タイで結婚した長男に引き取られて母国アメリカを離れた車椅子の老人。闘鶏で負けつづける父親を見守るしかない女の子。

 ――そんな老若男女とりまぜたこの本の登場人物たちの物語は、いざ自分の身に置き換えてみたら、やりきれない話ばかりだ。

 それでいて読後感は思いのほか穏やか。幸せだとはいえないけれど、不幸だと嘆いてばかりいるもの違うよなって。なんとなくそんな捌けた感覚がある。

 描こうと思えば描けるどん底を描かない――もしくは描けない。どちらかは知らない。そこのところにこの作家の文学的な弱さと魅力が併存している気がする。

(Jun. 14, 2026)

絵本百物語

京極夏彦・竹原春泉・桃山人/角川文庫

絵本百物語 (角川文庫)

 京極夏彦の最新作は、竹原春泉という画家の妖怪画に、桃山人という人が文を添えた妖怪本の現代語訳版。

 なぜこういう本をいきなり文庫オリジナルで出すことになったんだろう?――と思ったらば、だ。

 なんと、これまるまる一冊が――原書は全五巻みたいだから実質的には一冊ではないのかもしれないけれど――『巷説百物語』のネタ本だったから。

 名に偽りありで、「百物語」をうたいながら、この本で紹介されている妖怪画は四十四しかない。

 対する『巷説百物語』のシリーズを構成しているエピソードは全四十五話。

 最終話は『百物語』だから、つまりそれを除くと同じく四十四。

 そう、つまりその四十四話が、この『絵本百物語』に収録された妖怪――この本の収録順でいえば、白蔵主、飛縁魔、狐者異、塩の長次郎、等々――を、そのままのタイトルで「巷説」として語りなおしたものなのだった。

 まさかそんな統一性があったとは……。

 妖怪好きにとっては自明の理だったのかもしれないけれど、妖怪にうとい一般人としては、まさかそんな仕掛けになっていようとは思いもよらなかった。

 シリーズ全七作でもって、京極夏彦は『絵本百物語』を自家薬籠中の物として、平成・令和の世にあっても楽しめる娯楽作品としてリメイクしてみせた。

 でもって、今回『了巷説百物語』の文庫化により、シリーズの文庫版がすべて出揃ったのにあわせて、その最終巻と一緒にこの『絵本百物語』を刊行することで、シリーズの完結を高らかに宣言してみせた――ということなんでしょう。

 元ネタはすべて使い切りましたよ、もうつづきはありませんよ――と。

 終わってから知ったる、驚嘆すべき名シリーズの大団円。

 いずれこの本の内容をしっかり頭に叩き込んだうえで、シリーズ全部をじっくりと再読したいと思う。

(Jun. 03, 2026)