2007年4月の本

Index

  1. 『バルザックと小さな中国のお針子』 ダイ・シージエ
  2. 『ハンニバル・ライジング』 トマス・ハリス
  3. 『眩惑されて』 ロバート・ゴダード

バルザックと小さな中国のお針子

ダイ・シージエ/新島進・訳/ハヤカワepi文庫

バルザックと小さな中国のお針子 (ハヤカワepi文庫)

 フランス在住の中国人映画監督がフランス語で書き上げたという処女長編。文化大革命の時期の中国の小村を舞台に、ふたりの青年とひとりの少女の恋のゆくえを描いて見せた青春小説で、かなり自伝的な要素を含んだ内容らしい。
 不勉強にして中国の現代史に関する知識が皆無の僕は、文化大革命とはなんぞやも知らなかった。それだけに、この小説で描かれるように、ほとんどすべての書物が禁書とされ、資産階級の知識人の子息から教育を奪い、「再教育」と称して貧農下農中農のもとに派遣して、肉体労働を強制するなんていう政策が実際に施行されていたという事実には、あ然としてしまう。音楽や小説をなによりも愛する僕にとって、この小説で描かれる中国は、まさにディストピアだ。すでにビートルズが活躍していた時期、つまり僕が生まれた頃に、おとなりの国でそんな不条理な政策が行われていたなんて、ちょっとばかり信じがたい。どういう国なんだ、いったい。
 とにかくこの小説では、そんな悪政のもと、十七にして学問を奪われ、ひとつ年上の親友・{ルオ}とともに見知らぬ貧村へと派遣された語り手が、ある友人が隠し持っていたバルザックの小説を手に入れたことにより、親友ともども文学に目覚めることになる。行動力のある羅は、その作品に感化されるやいなや、すぐさま隣村に住むとびきりの美少女、仕立て屋の娘の小裁縫と深い関係を持つようになり、語り手は嫉妬を覚えつつも、そんな彼らの恋愛の目撃者たることを受け入れてゆくのだった。
 この小説、作者の立ち位置のせいか、意外なほど中国っぽくない。終盤の展開は『さよならコロンバス』、『旅路の果て』、『愛のゆくえ』などのアメリカ現代文学を思い出させるし(ネタばれ失礼)、舞台が特殊なことをのぞけば、きわめて普遍的な青春小説だと思う。圧政により自由を奪われた青年たちが、権力の目を盗んで文学や美しい少女に胸をときめかる、そのせつなさには、じゅうぶん共感できるものがあった。
(Apr 15, 2007)

ハンニバル・ライジング

トマス・ハリス/高見浩・訳/新潮文庫(全2巻)

ハンニバル・ライジング 上巻 (新潮文庫)

 リトアニアの伯爵家の跡取息子として、なに不自由のない日々を送っていた天才少年が、第二次大戦の戦火にまかれて家族を失い、なおかつ最愛の妹を、飢えた悪漢どもに(文字どおり)餌食にされてしまい……。
 という風に、この小説の序盤のプロットはあまりに痛ましい。本来ならば同情に耐えない。
 ただ、そんな悲劇的な経験をした少年が、『羊たちの沈黙』 の名脇役にして、稀代の天才食人鬼、ハンニバル・レクター博士だとなると話が別。どういうふうに読んだらいいのか、なかなか困ってしまう。
 僕は 『ハンニバル』 を読んだ時にも、それまでは悪の象徴のようだったレクター博士が、最後にある種のヒーローに祭り上げられてしまったことに、なんだかとても釈然としない思いをしたものだから、今回ははじめっから同情を集めて当然といった役回りを割り振られていることもあって、気分的に引いてしまう部分が否めなかった。
 まあ、トマス・ハリスという人は優れた書き手なので、イージーに同情を集めて、レクター博士の悪事を正当化しようとしているわけではないと思うのだけれど、それでもやはり、素直に受け入れきれないところがある作品だった。
 ちなみにこの小説、ハンニバルの叔父の奥さんが紫という名前の日本人女性だという設定のため、とても日本文化に関する言及が多い。扉に宮本武蔵の水墨画が飾られていたり、ハンニバルと紫夫人が『源氏物語』から引用した短歌を詠みあったりする。ハンニバルが風流を愛する夫人のため、フランスにはいないスズムシをわざわざ手に入れてきて、虫の音を楽しませてあげたりもする。
 ところがそのスズムシのエピソードのなかに、「紫夫人が籠の隙間からキュウリを一切れ差し入れると、スズムシはそれをぐいっと引っ張り込んだ」(p,139)なんてくだりがある。いくらなんでもそんな力強いスズムシはいないだろう。さすがに日本{つう}のトマス・ハリスも実際にスズムシを見たことがなかったんだろうか。それとも翻訳がおかしいのか。まあ理由はどうであれ、凄惨な物語のなかに埋もれていた、そこはかとない滑稽味のあるこの描写には、ちょっとだけ笑ってしまった。
(Apr 26, 2007)

眩惑されて

ロバート・ゴダード/加地美知子・訳/講談社文庫(全2巻)

眩惑されて(上) (講談社文庫) 眩惑されて(下) (講談社文庫)

 ロバート・ゴダードの小説はほとんどが同じパターンだ。失意の日々を送る中年男の主人公が、なんらかの過去の事件に巻き込まれて、右往左往するさまを描いてゆく。ミステリでありながら探偵役はいっさい登場せず、最後はたいてい関係者の告白によって謎が解かれて大団円となる。主人公はいつでもヒロイックというにはほど遠くて魅力を欠き、読了感もあまりよくないことが多い。それでいて読めば必ず夢中になってしまうのだから不思議だ。
 とにかくこの人の小説はおもしろい。歴史的な題材を扱う手際の見事さや、その卓越した構成力ゆえだろう。どの作品もとにかく読ませる。これだけ魅力に乏しい主人公たちをあやつり、これだけ読ませる小説を書く作家というのは、なかなか珍しいんじゃないかと思う。
 第十七作目となるこの長編でも、まさにゴダードならではの世界が広がっている。いや、というか、解説にもあるように、今回はひさしぶりにゴダードの王道を行くような道具仕立ての作品となっている。二十三年前に発生した幼女誘拐事件の真相を追いつつ、十八世紀に実存した仮名の論客ジュニアスの正体に迫ってみせるという二重構造のストーリーの組み立て方がとても見事で、ぐいぐいと物語の世界に引き込まれてしまった。
 重要人物のひとりが自殺を遂げる理由や、事件の鍵を握る古書が犯人の手に渡るという展開にあまり説得力がなかったりして、不満を感じさせるところもそれなりにある。そうした欠点が目につくにもかかわらず、それでもなお、ページをめくる手が止まらない。あまりにおもしろくて、ついつい文庫本上下巻、650ページばかりを、ウィークデイにわずか3日で読了してしまった(活字が大きくて妙に読みやすかったというのもあるけれど)。
 まあ、そんな読みやすさが逆にあだになって、深みに欠ける嫌いがあるのが、この人の欠点。歴史に材をとっているのだから、もっと重厚さが出てもよさそうなものなのだけれど、いつでもなぜか深みには欠ける。そんなゴダードの印象は今回もあいかわらずだった。
(Apr 30, 2007)