2009年3月の映画

Index

  1. ツイン・ピークス
  2. ツイン・ピークス ローラ・パーマー最後の7日間
  3. スリーピー・ホロウ
  4. ロッキー
  5. スウィート・ノベンバー
  6. U23D
  7. アイアンマン
  8. 不都合な真実
  9. 女と男のいる舗道
  10. ノートルダムの鐘
  11. ザ・エージェント

ツイン・ピークス

デイヴィッド・リンチ&マーク・フロスト製作総指揮/カイル・マクラクラン/1990~1991年/アメリカ/DVD

ツイン・ピークス  ゴールド・ボックス(10枚組)(初回限定生産) [DVD]

 うちの奥さまのたっての希望で去年の暮れに購入した 『ツイン・ピークス』 のDVDゴールド・ボックス(2シーズン全30話)を、ここ2週間でいっきに観た。
 このドラマ、実はわが家にはレーザーディスクのボックスがある。でも、うちのLDプレーヤーは安物で──しかもそろそろガタがきているので──、さすがにDVDの画質に慣れた今となると、鑑賞に耐えない。それだからということで、アマゾンで半額になっていたのにつられて、ついついDVDボックスを買ってしまった。
 まあ、半額といっても1万5千円もするから、決して安くはないんだけれど、欲しいとなれば買うっきゃない。人生は短い。がまんは身体に悪い。いずれにせよ、これで二度とLDボックスが日の目をみることはないだろう。そもそも、つい最近になってパイオニアの最後のLDプレーヤーが生産中止になって、もう新しいハードは手に入らなくなったから、いまのプレーヤーが壊れたが最後で、LD自体が再生できなくなる日もそう遠くない。宝の持ちぐされとはまさにこのことだなぁと思うきょうこの頃。
 やや脱線。なにはともあれ、うちの奥さんは二度もボックスを買うくらい、この作品が好きなわけだ。でも僕には彼女がなにゆえそれほどまでにこのドラマに魅せられているのか、いまいちわからなかったりする。たしかにおもしろいと思うし、歪んだ笑いに満ちた世界観はワン・アンド・オンリーだけれど、僕自身はそれほどまでには入れ込めない。
 まあ、それでも2週間もぶっ通しで見つづけていたので、一部のキャラクターにはそれなりに愛着が湧いていたりする。なかでも一番好きなキャラクターは、デイヴィッド・リンチ自らが演じている耳の遠いFBIのボス、ゴードン・コール。このお騒がせな人物を嬉々として演じているリンチを見て、この人ってもしかしてすごくいい人なのかもしれないと思った。なんにせよ、この人はおもしろすぎた。
 逆にどうにも好きになれないのがジェームズ。誰もがなんらかの形で笑いに貢献しているようなこのドラマにおいて、彼だけはあまりに笑えなさすぎる。ドナとマギーにコーラスをつけさせて弾き語りでホームレコーディングしているシーンだけは苦笑したけれど、あれは例外(唐突にあんなものをさしはさむ演出が見事なだけ)。そのほかに彼が絡んだ場面で笑えた記憶がない。なまじ重要なキャラだけに、彼がつまらないのがこのドラマの一番の欠点じゃないかとさえ思う。もしもジェームズがもうちょっと笑えるキャラだったらば(もしくはいっそのこと出てこなければ)、僕はこのドラマがもっと好きになっていたかもしれない。
  最後にひとつ、『ツイン・ピークス』 にふさわしいちょっとだけオカルトな話。今回、僕らがこのドラマを見始めたのは2月23日の夜のことだった。知る人ぞ知る──その日は、ローラ・パーマーの日記にある最後の日。つまりローラ・パーマーが殺害された日。そうとも知らず、たまたま僕らは事件とおなじ日の夜にこのドラマを観始めたのだった……。
(Mar 09, 2009)

【追記】日記を書いた時点では当然生きていたので、殺されたのは翌日らしい。あぁ、勘違い。

ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間

デイヴィッド・リンチ監督/シェリル・リー、レイ・ワイズ/1992年/アメリカ/DVD

ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間 [DVD]

 『ツイン・ピークス』 におけるローラ・パーマー殺人事件がいかにして起こったかを、事件の1年以上前に起こったもうひとつの殺人事件までさかのぼって描いて見せた劇場版。
 僕はこの映画を観るのは今回が初めてだった。うちの奥さんも劇場で一度観たきりで、そのときの印象があまりよくなかったというので、出来がいまいちなのかと思っていたけれど、いざ観てみれば、そんなに悪くもない。少なくてもテレビ・シリーズでは一度も観ることができなかった、生きているローラ・パーマーがたっぷりと見られるだけでも、僕にはとても新鮮だった。
 惜しむらくは、テレビ版でドナ・ヘイワードを演じていたララ・フリン・ボイルが、なんらかの事情で降板してしまっていること。せっかく生ローラが見られたというのに、その親友のドナがテレビのときとは違う顔になってしまっているのは、残念無念もいいところだった。僕は彼女こそが映画版とテレビ・シリーズをつなぐ最重要キャラだと思う。配役が変ってしまったせいで、その連続性が途切れてしまい、両者がすんなりとつながってゆかない。どういう理由があったにせよ、ドナの配役変更は大失敗だったと思う。
 まあ、そういう意味ではオードリー(シェリリン・フェン)やトルーマン保安官(マイケル・オントキーン)ら、テレビ版の重要キャラたちの出番がないのも残念だし、そもそも、クーパー捜査官だって出番が少なすぎる。その分、デヴィッド・ボウイ、クリス・アイザック、キーファー・サザーランドといった面々がFBI捜査官の役で出ていたりするのは一興だけれど、彼らが出てくる前半のエピソードは妙に中途半端で、消化不良の感が否めなかった。そもそもボウイはまったくFBI捜査官には見えないし、なんで出ているのかもよくわからない。
 観終わってからうちの奥さんがぽつりと、「この映画は笑えないから好きじゃなかったのかも」と言っていたけれど、たしかにこの映画じゃ笑えない。そういう意味では、笑いが大きな比重を占めていたテレビ版とはあきらかにテイストが異なる。あの素晴らしいテーマ曲がオープニングに使われていないのも、ささやかながら、もの足りなさをあおる。
 ということで、決して悪い映画だとは思わないけれど、テレビ・シリーズと同じテイストを期待している人には不評を買っても当然かなと思わせる映画版だった。
(Mar 09, 2009)

スリーピー・ホロウ

ティム・バートン監督/ジョニー・デップ、クリスティナ・リッチ/1999年/アメリカ/BS録画

スリーピー・ホロウ (字幕版)

 ティム・バートンの監督作品のうちで、僕がこれまでに唯一見逃していた作品。ジョニー・デップとクリスティナ・リッチの共演作ということでも気になっていたのだけれど、なぜだかこれまで観る機会が作れなかった。この映画が公開された99年というと、ちょうどわが家では子供が生まれてバタバタしていたころなので、映画どころじゃなかったのだと思う。
 内容はと言えば、ニューヨーク郊外のスリーピー・ホロウという土地に流れる、首なし騎士にまつわる都市伝説とやらを映像化した、いかにもティム・バートンらしいゴシック・ホラー。ある程度は予想していたけれど、やたらと人が首を斬られるシーンの多い悪趣味な映画だった。のちにこの世界観がもっとエスカレートして、 『スウィーニー・トッド』 で炸裂する感じ。
 とはいっても、人間による猟奇殺人の話だったあの最新作と比べると、こちらは犯人がスーパーナチュラルな存在な分、まだいくらか受け入れやすい(相手がおばけじゃ仕方ない)。物語もミステリ仕立てになっていて、起承転結がはっきりしているし、首の飛ぶシーンの多さに目をつぶるならば、なかなかおもしろい映画だと思う。
 出演者のなかで個人的に一番印象的だと思ったのは――ティム・バートン作品にしては珍しくまともな役どころのジョニー・デップや初々しいクリスティナ・リッチはさておき──、首なし騎士役のクリストファー・ウォーケン。特殊メイクでギザギザの歯をした非人間的な容貌に化けていて、すごいはまっていた。もちろん、首がない役にハマリ役もなにもあったもんじゃないので、この人が演じているのは当然、首があるときですが。
(Mar 16, 2009)

ロッキー

ジョン・G・アヴィルドセン監督/シルヴェスター・スタローン、タリア・シャイア/1977年/アメリカ/BS録画

ロッキー (字幕版)

 うちの奥さんが 『ロッキー』 を観たことがないというので、それじゃあ観てみようということになったのだけれども。
 どうやらこの映画、僕もまともに観たことがなかったらしい。ロッキーがタイトルマッチに挑戦することになるのが、世界チャンピオンの酔狂によるものだなんて展開には、まるで覚えがなかった。なんだかなあ。記憶があやしくて困ったもんだ。
 それにしても三十に手が届こうってB級ボクサーが、わずか5週間足らずトレーニングを積んだだけで、世界チャンピオンと互角に戦えるようになっちゃうってんだからすごい。これぞまさにアメリカン・ドリーム――というか、どちらかというと少年ジャンプの世界って気がする。でもそれゆえにとても感動的。マンガ好きの僕がこんな話を楽しまずにいられるわけがない。
 意外だったのはロッキーのキャラクター。シルヴェスター・スタローンという人のマス・イメージに反して、この映画のロッキーはそれほどマッチョじゃない。いや、身体はマッチョなんだけれど、性格がマッチョじゃない。朴訥{ぼくとつ}とした自然体の気のいい兄ちゃんって感じで、思いのほか好感度が高かった。
 それに彼の意外な冗舌さもとても印象的。なんでも脚本もスタローン自身が書いているそうだけれど、ロッキーの冗舌さにはウディ・アレンやマーティン・スコセッシに通じるおかしみがあると思う。 『ロッキー』 を観て、かの巨匠らを連想するなんて思ってもみなかった。まわりを囲む脇役も憎みきれないろくでなしって感じの人たちばかりだし、この脚本はほんと見事だと思った。シリーズ化されたのちの作品はともかく、この作品に関しては、ボクシングの部分抜きでも、一編の映画として十分に勝負できるんじゃないだろうか。いやはや、感心しました。
 それはそうと、ロッキーの恋人エイドリアンを演じているタリア・シャイアという人は、フランシス・フォード・コッポラの妹さんなんですね。しかもこの映画のみで有名な人なのだろうと思っていたら、とんでもない。すでにこれ以前に 『ゴッドファーザー』 でマイケル・コルレオーネの妹を演じてアカデミー賞にノミネートされているとか。そんな由緒正しい経歴の方だとは思わなんだ。大変失礼しました。
(Mar 17, 2009)

スウィート・ノベンバー

パット・オコナー監督/キアヌ・リーヴス、シャーリーズ・セロン/2001年/アメリカ/BS録画

スウィート・ノベンバー 特別版 [DVD]

 きれいなDVDのジャケットに惹かれて、前々から観てみたいと思っていた作品なのだけれど、いや、でもこれはジャケ買いしなくてよかった。別に観て損をしたと思うほどひどくはないけれど、かといって特別出来がいいとも思えなかった。
 物語はキアヌ・リーヴス演じる仕事人間の広告マンが、偶然知りあったエキセントリックな美女から「あなた不幸でしょ? 生きる喜びを教えてあげるから、私と一ヶ月間いっしょに暮らしましょう」と持ちかけられるという、かなり強引なもの。
 シャーリーズ・セロン演じるサラのふるまいは冷静に考えるとストーカーと紙一重で、彼女が美人じゃなかったら、とうてい許されないんじゃないかって気がする。そもそもふたりの出会い方からして、そうとう強引だ。やり手の広告マンが翌日に迫った大事なプレゼンの準備を抜け出して免許証の更新にでかけ、ペーパーテストの答えがわからなくて、斜め前にいた見知らぬ女性にカンニングさせてもらおうとするなんて展開に説得力があるわけがない。
 そんな設定のまずさも、コメディに徹してくれてさえいれば、まあいいかと受け入れやすいのだけれど、この映画の場合、途中から突如シリアスになるから困りもの。序盤は軽妙なコメディ・タッチの作品なのに、中盤でサラが深刻な障害をかかえていることがあきらかになってからは、笑える要素がほとんどなくなってしまう。
 というか、基本的に、もとからシリアスなテーマを含んだ映画なのだから、前半がちょっと軽すぎるのだと思う。恋愛劇と平行して描かれる、父親のいない少年や女装趣味の隣人との交流を描くシーケンスにも、いまひとつ物語的な必然性が感じられないし、どうにも全体的に構成がちぐはぐな気がした。68年の同名映画のリメイクだとのことなので、オリジナルの存在がなんらかの足かせになっているのかもしれない。いずれにせよ、印象はいまいちだった。
 出演者として珍しいところでは、 『アリー my Love』 でリチャード・フィッシュを演じていたグレッグ・ジャーマンが出ている。あと女装趣味のあるサラの隣人、チャズを演じているジェイソン・アイザックスという人は、ハリー・ポッター・シリーズの憎まれ役、ドラコ・マルフォイの父親役の人らしいです。なんと。
(Mar 17, 2009)

U23D

キャサリン・オーウェンズ&マーク・ペリントン監督/U2/2007年/アメリカ/新宿バルト9

 正月に観たストーンズ×スコセッシの 『シャイン・ア・ライト』 がとてもよかったので、やはりライブ映画は大音量が体感できる劇場で観ておくべきだろうと思って足を運んだU2の3Dライブ・ドキュメンタリー。「最近の3D映画はメガネなしで見られるらしいよ」とうちの奥さんが言うので、そりゃいいやと思って出かけたのだけれど、どうやらそれはガセネタで、ちゃんとありました、メガネ。まあ、それはともかく。
 3D映画というと、いきなり目の前に手が伸びてきたり、ものが飛んできたりというギミックを想像するので、なんでわざわざライブ映画を3Dにする必要があるんだろうと、観るまでは不思議に思っていたのだけれど、いざ観てみて納得。この3D映画の目的はそんな小細工などではなく、ライブの臨場感をできるかぎり忠実に再現することにあった。スコセッシが音楽のミックスをいじることで表現してみせたのと同じことを、U2は最新の3D映像テクノロジーを駆使することで実現してみせている。
 いや、これがなかなかすごい。僕が知っているこれまでの3D映像というのは、飛び出す絵本みたいに、一部の映像だけを立体的に見せるだけだったと思うのだけれど、この映画は撮影自体が3D専用のデジタル・カメラを使っているとのことで、つまり映っているすべてのものが三次元になっているのだった。主役のU2のメンバーだけではなく、ステージのセットやら、それを観ているたくさんのオーディエンスまで、すべてが3D。この臨場感ははんぱじゃない。
 一番最初にうわっと思ったのが、ラリーのドラムセットを上から見下ろした映像のリアルさ。複雑なドラムセットの部品のひとつひとつが現実さながらの質感を持って目の前に迫ってくる。手を伸ばせば本当にシンバルに触れられそうだった。
 同じヴァーティゴ・ツアーの映像自体はすでにDVDにもなっているし、ベスト盤のボーナスDVDでも観られるし、なおかつ来日公演で一度は生でも観ているので、ライブ自体にはさほど目新しさはなかったけれど、それでもこの映像のインパクトには一見の価値があると思った。
 惜しむらくは、最初に書いたメガネの存在。最新の3Dメガネ──昔ながらの赤と青のフィルムのついたやつじゃなく、ボノがかけているサングラスに似た、もっとサイバーパンクなやつ──は視野がせまく、目元が暗くなることもあって、普段メガネをかけなれていない僕などは、それなりにストレスを感じてしまった。うちの奥さんが言ったように、メガネなしでこの映像が楽しめるようになれば、本当に最高なんですけどね。
(Mar 17, 2009)

アイアンマン

ジョン・ファヴロー監督/ロバート・ダウニー・ジュニア、ジェフ・ブジッジス/2008年/アメリカ/DVD

アイアンマン デラックス・コレクターズ・エディション (2枚組) [DVD]

 アメリカでの公開当時に某シネマ番組で紹介された映像を見て、こりゃおもしろそうだと思い、DVDになったらば絶対観ようと心に決めていた作品。すっかりこのところのハリウッドの定番になったアメコミの映画化作品だけれど、これが期待を裏切らない素晴らしい出来だった。
 物語の発端は、アメリカきっての兵器開発会社のオーナーで、自身も天才科学者である主人公が、プレゼンに出向いたアフガンで自社の兵器をねらうテロリストに拉致されて、大量破壊兵器の製造を強制されるというもの。彼はこの窮地に持ち前の才能を発揮して、特殊な装甲スーツを密造して脱出をはかる。
 このスーツがのちに発展して、最終的にアイアンマンと呼ばれるようになるのだけれど、もの作りの好きな人間にとっては、その開発過程がたまらなく魅力的だ。演出もぱきぱきとテンポよく進んで気持ちがいいし、「そんなことしたら普通死ぬだろう!」ってつっこみたくなるようなシーンをあっけらかんとギャグとして描いてみせる能天気さも、ほかのCG映画にはないセンスで新鮮だった。
 ロバート・ダウニー・ジュニアもはまり役だし、彼の秘書役のヒロイン、グウィネス・パルトロウも髪をアップに結ったシーンが多くて、僕の好みにぴったり。ことのなりゆきを考えると、ラストの敵役が強すぎるのだけはやや不自然な嫌いがあるけれど、それ以外は文句なしだった。ここ一年くらいに観たエンターテイメント系の映画の中では、これが一番好きかもしれない。
 監督のジョン・ファヴローという人、ほかの作品を観た記憶はないけれど、名前はどこかで聞いたような気がすると思ったらば、なんと 『ザ・ソプラノズ』 のセカンド・シーズンで、脚本家をめざすクリスがお近づきになる映画監督としてカメオ出演していた人だった(この映画にも主人公のボディガード役で出ているらしいけれど、気がつかなかった)。まさかこんなおもしろい映画が作れる人だとは思わなかった。いやはや、おみそれしました。
(Mar 19, 2009)

不都合な真実

デイヴィス・グッゲンハイム監督/アル・ゴア/2006年/アメリカ/BS録画

不都合な真実 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

 アル・ゴア元アメリカ副大統領――この人はブッシュとの大統領選で負けた印象が強烈なので、「元大統領候補」という肩書きで考えていたけれど、実はクリントンのときの副大統領だったんですね(俺って無知だ)――が自らが世界中を行脚して行っているスライド講演をそのまんま映画化した、二酸化炭素増加による地球温暖化に警鐘をならす環境問題啓蒙ドキュメンタリー。
 ゴア氏自身が自らの講演の見せ場のひとつにしているように、この映画でもっともインパクトがあるのは、二酸化炭素の増加量をあらわす折れ線グラフだと思う。過去何万年かにわたって、ほぼ横ばい状態をつづけてきた大気中の二酸化炭素の量が、ここ百年たらずのあいだに爆発的に急増しているというもの。それまでは基本的にはほぼ横一直線だったグラフが、現代を表わす右隅にきて、いきなりロケットが打ち上げられるように急勾配で上を向いている(その形からこのグラフはホッケースティック曲線と呼ばれるらしい)。それにあわせて、もうひとつの折れ線グラフで、気温の変化が表される。急勾配の部分をのぞくと、両者はほぼ同じ形をしている。この調子でゆくと、地球上の二酸化炭素の量は今後50年でかつてなかったほどの量になる。さてそのときの地球の気温は……?
 てな感じで、インパクト大の折れ線グラフとともに、北極圏の氷河が溶け出していたり、キリマンジャロの冠雪が姿を消しつつあるという映像が紹介され、このままでゆくと50年後には海抜が6メートルも上がって、マンハッタンが水没するぞと脅されれば、そりゃまずいと単純な僕らは思う。それがノーベル平和賞という墨付きなのだから、なおさらだ。――ただね。
 インターネットで調べてみると、この映画の主張が一概に正しいということもないらしい。ホッケースティック曲線に関しては、データの信頼性をめぐって議論があるようだし(ウィキペディア参照)、キリマンジャロの雪が溶け出したのは、産業革命以前からだという話があったりだとか、海抜が6メートルも上がるってのは古い予測で、最新データだと50センチに満たないのだとかなんとか。そもそも、この映画では二酸化炭素の削減目標を定めた京都議定書に調印していないアメリカを糾弾しているけれど、サインした国々だって目標値を達するにはほど遠く、それどころか増加に歯止めをかけられてさえいないらしい(当然そのなかには日本も含まれる)。ああ、なにを信じていいのやら。
 ということで、内容の是非はともかく、とりあえず地球が温暖化していて、その原因のひとつが二酸化炭素であることはほぼ確かなんだろうから、庶民としては、自らの家計を助ける意味でも、なるべく節電を心がけよう。いまはそれが精一杯。
(Mar 23, 2009)

女と男のいる舗道

ジャン=リュック・ゴダール監督/アンナ・カリーナ/1962年/フランス/DVD

女と男のいる舗道 [DVD]

 女優を夢見て家庭を捨てた若き美女が、生活に困って娼婦へと身を持ちくずしてゆくさまを描くモノクロ映画。
 ゴダールとアンナ・カリーナが結婚したのは、前作 『女は女である』 の撮影中だとのことなので、その次回作に当たるこの映画は、ふたりが夫婦として撮影にのぞんだ初めての作品ということになる。新婚早々、いきなり奥さんに娼婦の役を演じさせるゴダールがすごい。凡人の僕なんかは、どうせならばもっとハッピーな映画を撮ればいいのにと思ってしまう。その辺が芸術家と凡人の違いかもしれない。
 まあ、それでもとにかく新婚の監督が奥さんを主役に撮った作品には違いなく、全編にわたってアンナ・カリーナを見るための映画といった雰囲気はある。場面ごとに彼女と絡む男性──夫、ポン引き、客、恋人など──が入れ替わる上に、その人たちの人となりにはいっさいスポットライトがあたらないので、僕にはそのとき彼女が相手をしている男性が誰なのか、よくわからないこともあった(おそまつ)。
 なにはともあれ、全編を12章に区切って、それぞれに「第一章:ビストロ──ナナとポールの別れ話──ピンボール」のようなサブタイトルをつけてみたり、そのうちの一章で唐突に哲学的問答をしてみせたりするあたり、いかにもゴダールらしい作品だった。
(Mar 24, 2009)

ノートルダムの鐘

ゲイリー・トルースデール&カーク・ワイズ監督/1996年/アメリカ/BS録画

ノートルダムの鐘 [DVD]

 80年代末から90年代の前半にかけてのディズニー映画は、『リトル・マーメイド』 や 『美女と野獣』 のような良質な作品を連発して、CG時代到来前の最後の黄金期を迎えていた。当時はうちの奥さんもディズニー大好き人間のひとりだったので、僕も彼女に連れられて、その時期のディズニー映画は劇場で観ていた。
 その後、僕と結婚してささやかな生活苦を知ったせいか、はたまたシンプソンズと出会って新しい価値観に目覚めたためか、彼女はあまりディズニーに固執しなくなる。でもって、ある作品を境に劇場にも足を運ばなくなる。その作品というのが、この 『ノートルダムの鐘』 だった。
 今回、「なんでこの映画は観にゆかなかったんだっけ?」と彼女に聞いてみたところ、「可愛いキャラクターが出てこないからじゃない?」と他人事のような、みもふたもない答えが返ってきた。なるほど、たしかに。
 キュートな名脇役の存在はディズニー映画の一番のチャームポイントだと思うのだけれど、この映画では、その重要な役どころを担うのが三体のガーゴイルの石像ってのが、やたらと弱い。性格はともかく、見た目が可愛くないし、それ以前に孤独な主人公が実際には動かない石像を相手に会話をしているというのは、冷静に考えるとちょっとばかり痛々し過ぎる。
 物語の性格からすると、孤独な主人公の友達となるのは、ネズミやハトなんかのほうが自然だと思うのだけれど、そうすると 『シンデレラ』 のような過去の作品とかぶってしまって新鮮さがないというので、ひねりを効かせて「動く石像」(ってドラクエかいっ)の出番となったのだろうけれど、僕はこのアイディアは大失敗だと思った。映画自体の出来は決して悪くないので、その一点だけがとても残念な作品。
(Mar 24, 2009)

ザ・エージェント

キャメロン・クロウ監督/トム・クルーズ、キューバ・グッディング・ジュニア、レニー・ゼルウィガー/1996年/アメリカ/BS録画

ザ・エ-ジェント (字幕版)

 問題:『フェイク』、『フィクサー』、そしてこの 『ザ・エージェント』。さて、これらの映画の共通点はなんでしょう?
 答え:すべて、オリジナルの英語タイトルは主人公のフルネームなのに、邦題が一般的なカタカナ語に置き換えられている映画。『フェイク』 は 『ドニー・ブラスコ』、 『フィクサー』 は 『マイケル・クレイトン』、 そしてこの 『ザ・エージェント』 は 『ジェリー・マグワイア』 がオリジナルの英語タイトル。
 これくらい同じ例があるのだから、日本の映画界にはきっと、男性のフルネームを冠した映画はヒットしないというジンクスがあるにちがいない。それも、あくまで男性の名前限定で。女性の場合、 『アニー・ホール』 や 『エリン・ブロコビッチ』 などがあるし──『ノーマ・レイ』 はフルネームじゃないけれどこれに近い──、 『ベティ・サイズモア』 のように、わざわざ邦題オリジナルで女性のフルネームをつけた例さえある。ところが男性名のタイトルをそのままつけた映画は、ほとんど見当たらない。僕に思いついたのは 『サイモン・バーチ』 くらい。でもあれは男性というより男の子の話だから、ちょっと話がちがう。
 タイトルが変更になっている作品の特徴は、どれも主人公の職業が物語に大きく絡んでいることだと思う。要するに、個人名を冠したタイトルだと内容がわからないけれど、フィクサーだとかエージェントだといえば、それだけでどんな話かある程度わかるし、宣伝もしやすい。おそらくそういう理由で変更になっているんだろうと推測する。
 でもそれってあまり褒められたことではない。わざわざ主人公の名前をタイトルにするというのは、そこに作っている側のある種のメッセージがあるはずだ。それを商業主義的な理由から変更するってのは、アーティストの意図をないがしろにしているようで、僕なんかは気分がよろしくない。インターナショナルなこの時代、英語圏の人と会話をする際に話が通じなくなるデメリットもある(まあ、僕にはそんな機会はないけれど)。
 なかでもこの 『ザ・エージェント』 はひどい。母音で始まる英単語に定冠詞の THE をつける場合、「ザ」じゃなくて「ジ」と発音するなんてのは、初級英語の基礎知識でしょうに。一般的なところで言うならば、「ザ・エンド」じゃなくて「ジ・エンド」でしょう? つまり「ジ・エージェント」でないとおかしい。この映画の配給会社には「こんなタイトルをつけたら英語がわからないと思われそうで恥ずかしいからやめよう」という人はいなかったんだろうか? それとも僕が無知なだけで、エージェントという単語につける場合は「ザ」が正しいんでしょうか。うーん、よくわからない。
 ──というような、どうでもいいようなことをつらつら考えていたら、映画の内容について書かないうちにすっかり長くなってしまいました。閑話休題。
 この映画は、スポーツ選手の代理人として大活躍していた主人公が、ふとしたことから良心にめざめて、業界の拝金主義的なあり方に一石を投じようとしたところ、仕事を干されてどん底におちいるというコメディ。主演の三人それぞれの演技が光る、なかなかいい映画だとは思う──思うんだけれど、キャメロン・クロウの監督作品のつねで、僕にとってはどことなく入れ込めないところがあった。その辺のことはまたいずれ、この人のほかの作品を観たときに。
(Mar 27, 2009)