2009年1月の映画
Index
- ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト
- ホリデイ
- ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方
- イーオン・フラックス
- ナイト ミュージアム
- 16ブロック
- インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア
- インランド・エンパイア
- ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)
- ゾディアック
- インベージョン
- それでも生きる子供たちへ
- 真夜中のサバナ
- 24 -TWENTY FOUR- シーズンVI
- ハンニバル
ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト
マーティン・スコセッシ監督/ローリング・ストーンズ/2008年/アメリカ/TOHOシネマ六本木
僕はどうやらマーティン・スコセッシという人をあなどっていた。
ストーンズに関しては90年代以降、ツアーごとにその模様がDVDでリリースされているし、ライブ映像自体はすでに珍しくもなんともなくなっている。いまさらスコセッシが監督を務めたからといって、特別な映画ができるとは思っていなかった。だから僕はこの映画にとりたてて期待もせず、ただライブ映画だから一度は大音量で観ておくべきだろうと劇場へ足を運んだのだった。
ところがどっこい。いざ観てみればこれは単にライブ演奏をフィルムに収めただけの映画ではなかった。大半が演奏シーンであるにもかかわらず、これはまさしく「映画」と呼ぶにふさわしい作品に仕上がっている。映画のポスターに「この臨場感はライブでも味わえない!」というキャッチコピーがあったけれど、まさにそのとおり。この映画が味わわせてくれる生々しさは、ライブ会場に足を運んでも得られない
極論してしまうと、この映画の肝は音楽のミックスにある。
普通のライブ作品の場合、まず初めに音楽があって、監督はそれにあわせて映像を選ぶ。演出としての効果音が入るような場合は別として、基本的にどんな映像を流そうとも、音楽のミックス自体は変わらないはずだ。
ところがスコセッシはこの映画で、大胆にも映像にあわせてミックスをいじってみせた。コンサートで間奏のギターソロのところだけ、ギターのボリュームが大きくなるというのは普通にあることだけれど、あの手のことを自分が選んだシーンにあわせて、映画のほぼ全編にわたってランダムにやってみせているのだった。
つまりキース・リチャーズがアップになるシーンでは、キースのギターのボリュームが上がる。ロニー・ウッドにクローズアップすれば、ロニーのボリュームが上がる。それが彼らのソロ・パートならば普通かもしれないけれど、スコセッシは単にバッキングでリズムを刻んでいるときでも、絵として映えると思ったシーンならばお構いなくそうする。
結果、この映画は映像ぬきで音だけ聴いている人にとっては、おそらくとても妙なミキシングになってしまっているはずだ。だって曲の構成にかかわらず、わけのわからないところでいきなりギターの音が不自然に大きくなったりするのだから(CDでは特になんとも思わなかったので、サントラと映画ではミキシングが違うんじゃないかと思う)。映像を生かすために音楽としての完成度を犠牲にしているわけで、音楽至上主義的な見方をするならば、とても許されないことだと思う。
しかしながら、ことこの映画にかぎってみれば、その効果は絶大だった。この作品は観る人に、これまでに経験したことのない生々しい臨場感を味わわせてくれる。キースのギターがストーンズの音楽のなかで、本人の立ち位置からはどんな風に鳴っているのか──本来ならば本人にしかわからないはずのその感覚を、この映画は僕らに疑似体験させてくれるのだった。
青春時代をキースの物真似をして過ごした僕のような男にとっては、これはなんともこたえられない体験だった(ときおり涙腺が緩むくらいに)。サラウンドの効果も絶大で、まるで実際にライブ会場に入り込んだような気分になれる。僕は映画館で見ていることを忘れて、一曲終わるごとに拍手しそうになっていた。
現実問題として、エレクトリック・ギターの音はアンプから出ているわけだから、プレーヤーの近くに寄ったからといって、その人のギターの音だけが浮き上がって聞こえるなんてことはあり得ない。だからあれは映画なればこそ可能な、映画ならではの演出なわけだ。この作品は音楽映画が時としてライブの代替以上のものになり得ることを証明している。そこに映画監督としてのマーティン・スコセッシの並々ならぬ自負を感じた。
ほんと、この映画についてはほかにもミック・ジャガーについてや、彼とスコセッシの確執(?)についてなど、語りたいことがもっとあるのだけれど、今日のところはこれ以上書くパワーがない。なんにしてもこれは単なるライブ映画というにとどまらない、09年に観た最初の一本にして、もしかしたら今年の映画のベストワンはすでにこれで決まりじゃないかと思わせる最高の作品だった。ストーンズ・ファンは必見。それもできれば、ぜひ劇場で。
(Jan 10, 2009)
ホリデイ
ナンシー・マイヤーズ監督/キャメロン・ディアス、ケイト・ウィンスレット/2006年/アメリカ/BS録画
休暇のあいだだだけ、お互いの自宅を交換しましょう──家が狭くて休暇が短い日本ではそんな話はとんと聞いたことがないけれど、欧米だとそういうことが普通に行われているらしい。それがどれくらい一般的なことなのかはわからないし(あまり一般的ではない気がする)、情報保護が叫ばれる昨今、プライバシーの問題もあるので、実際にはこの映画のようなイージーな関係は成り立たないと思うけれど、映画の題材になるくらいなので、それほど極端に珍しいことでもないんだろう。
ということでこれは、失恋したばかりのふたりの女性が、オンラインの自宅交換サイトを通じて知り合い、お互いの家を交換して2週間のクリスマス休暇を過ごすうちに、それぞれ新しい恋に落ちるというロマンティック・コメディ。キャメロン・ディアスとジュード・ロウ、ケイト・ウィンスレットとジャック・ブラックという四大ビッグ・スターの競演が売りモノながら、アメリカ人とイギリス人が自宅を交換して、それぞれのバケーションを過ごすという話なので、四人が一堂に会するシーンが最後までほとんどないのが意表をついていている。
現実問題として考えると、キャメロン・ディアスが演じるアマンダのような女性──ハリウッドで映画の予告編製作を仕事にしているセレブな女性経営者──が、ロンドンの郊外でひとりぽっちでクリスマスを過ごそうとするなんて、あまり説得力がない。ましてや一度も会ったことのない女性に、みずからの豪邸を気前よくぽーんと貸し出すなんて、とうていあり得ないことに思える。映画が終わったあと、どちらのカップルも長続きしそうにないなあという気もする(イギリスとアメリカのあいだに横たわる大西洋は広く深い)。
ただ、そんなことをつっこむのは野暮ってもの。これは近頃の映画にしては珍しく、とても正攻法のロマンティック・コメディだと思うし、こういう映画はつべこべ云わずに素直に楽しみたい。ひと粒で二度おいしいじゃないけれど、ひとつの映画のなかにふたつの話をうまく詰め込んだ良作だと思う。
(Jan 12, 2009)
ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方
スティーヴン・ホプキンス監督/ジェフリー・ラッシュ、シャーリーズ・セロン/2004年/アメリカ、イギリス/BS録画
天才コメディアン、ピーター・セラーズの生涯を描く伝記映画。
セラーズ役を演じるのは、オスカー俳優、ジェフリー・ラッシュ。ピーター・セラーズ本人にくらべると、かなり身体が大きいので、見た目はちょっとばかり違和感があったけれど、こと演技という点では文句なし。まあ、僕の場合、ピーター・セラーズの出ている映画を3、4本しか観ていないので、偉そうなことは云えないけれど、それでも知っている範囲で云わせてもらえば、見事にピーター・セラーズを演じきっていると思った。彼のふたり目の奥さん、ブリット・エクランド── 『007黄金銃を持つ男』 でボンド・ガールをつとめた女優さんとのこと──の役を演じるシャーリーズ・セロンもめちゃくちゃ可愛い(ただし残念ながら出番はさほど多くない)。
映画自体はピーター・セラーズのことを「中身が空虚であるがゆえにどんな役でも演じ切ることのできた、問題ありの天才役者」として描いている。メタフィクショナルな演出も多く用いられていて、かなり個性的な、あくの強い仕上がり。
なかでも一番印象的なのは、ジェフリー・ラッシュがピーター・セラーズ以外のキャラクターを演じるいくつかの場面。たとえばセラーズが最初の奥さん(エミリー・ワトソン)と別れるシーンでは、直後に場面がその撮影シーンへと切り替わり、そこでは奥さんの役が唐突に女装したジェフリー・ラッシュにすりかわる。そして彼はアフレコと称して、その直前のシーンをモニターで上映しながら、自分にとって都合のいいように彼女の別れのセリフを
ちなみに伝記映画として観るならば、できれば 『ピンクの豹』 と 『博士の異常な愛情』 と 『チャンス』 の三本は先に観ておいたほうがいい。僕はあとの二本を観ていないことを少なからず後悔しました。
(Jan 12, 2009)
イーオン・フラックス
カリン・クサマ監督/シャーリーズ・セロン/2005年/アメリカ/BS録画
前の 『ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方』 につづけて、シャーリーズ・セロンつながりで観ることにしたこの映画だけれども……。
いやあ、悪いけれど、これはおもしろくない。シャーリーズ・セロンが肉体改造してアクションに挑んだとかで話題になっていた記憶があるけれど、しょせんは付け焼き刃。ただ単に走っているシーンからして、まったくスピード感がないんだから、ハードなアクションなど望むべくもない。
結局、アクション・シーンの大半はスタントに頼っているのだろう。もしくは本人ががんばってはみたけれど、動きが鈍くてそのままでは使えなかったか。いずれにせよ格闘シーンは、はんぱな距離感の絵ばかりを細切れにしてつなぎあわせた感じで、ちっとも盛りあがれない。物語やSFXはありきたり、キャラクター描写もぞんざいな上に、肝心のアクションがこんな出来では話にならないだろう。
それでもまだ、シャーリーズ・セロンの美貌がたっぷりと楽しめるってんならば、かろうじて救いもあるのだけれど、笑顔ひとつ見せない彼女の役どころは──きれいはきれいだけれども──、愛嬌にとぼしくて個人的にはいまいち。ひとつ前に観た映画でスウェーデン人を演じていた彼女のほうが、よっぽど魅力的だった。やはりこの人は金髪のほうが似合うと思う。
というわけでこれは僕がこれまでに観た映画のうち、下から数えて何番目だろう(もしかしたら……)というくらいの、悲惨な出来の作品だった。ポスターがかっこいいから、それなりに期待していただけに、残念極まりない。
(Jan 12, 2009)
ナイト ミュージアム
ショーン・レヴィ監督/ベン・スティラー、カーラ・グギーノ/2006年/アメリカ/BS録画
博物館の陳列物──ティラノザウルスの骨、野生動物の剥製、ルーズベルトや北京原人のロウ人形、ローマや西部劇のジオラマに配されたミニチュア人形、古代エジプト王のミイラにコロンブスの銅像などなど──が夜な夜な動き出して大騒ぎを繰り広げるというスラップスティック・コメディ。
これはもう、ただ単純に楽しい。『ジュマンジ』 のアイディアを、博物館を舞台にして、もっと派手に展開したような作品で、話はかなりいい加減ながら──というかそれゆえに──、馬鹿らしくも楽しい。 『ジュマンジ』 へのオマージュだろう、ロビン・ウィリアムズもセオドア・ルーズベルト(のロウ人形)役で出演して、愛嬌のある歴代大統領像を演じてみせている。この人のあいかわらずの芸達者ぶりには感心させられた。
なんでもこの映画、近々続編が公開されるらしい。そちらの舞台はスミソニアン博物館だそうで、そりゃまた派手なことになりそうな……。
ちなみにこの映画を観たからというわけではないけれど、僕はたまたま昨日、パンダ好きの奥さんにつきあって、上野の国立科学博物館へ行ってきたばかりだったりする(同館では現在、上野にいたパンダ6頭の剥製を展示中)。
映画は博物館が入場者数減で警備員をリストラするという不景気な話だったけれど、上野の博物館はけっこう人が入っていた。驚いたことに、『もやしもん』 人気にあやかって開催中の特別展「菌のふしぎ」なんて、この週末でおしまいということもあって、入場規制がかかるほどの大盛況だった。「菌のふしぎ」がみたくて博物館に入るために並ぶ人がいるなんて、僕にはそちらのほうがよっぽど不思議だ。
(Jan 12, 2009)
16ブロック
リチャード・ドナー監督/ブルース・ウィリス、モス・デフ/2006年/アメリカ/BS録画
16ブロック先の裁判所まで囚人を護送するように命令を受けた落ちこぼれ刑事が、証拠隠滅をはかってその囚人を暗殺しようとした悪徳刑事グループの陰謀に巻き込まれて、追われる立場になってしまうというサスペンス・スリラー。
この映画はシナリオもなかなかだけれど、それよりも主演のふたり、ブルース・ウィリスとモス・デフのキャスティングがいい。ウィリスはいつものマッチョなイメージから一転、腹の出た足の悪いアル中刑事をのっそりと演じてみせていて新鮮。
囚人役をつとめる黒人のモス・デフは──僕は知らなかったけれど──90年代末から活躍しているラッパーだとのことで、ケーキ屋としての更生をうそぶく常習犯の役。粘りけのある妙なしゃべりがなんとも印象的で、不思議と好感度が高かった。彼のケーキ屋の話がホントかウソかというのもこの映画のポイントのひとつ。
あとひとり、ブルース・ウィリスの元相棒役で、不正警官の中心的人物を演じるデヴィッド・モース──見たような顔だと思ったら、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 でビョークの金を盗んだ人だった──も、相棒との仲たがいを悔やむ気持ちをにじませた演技で、なんともいい味を出している。この三人の魅力がスリリングな物語にあいまって、なかなかの好作品に仕上がっていると思う。個人的にはとても気に入った。
(Jan 12, 2009)
インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア
ニール・ジョーダン監督/ブラット・ピット、トム・クルーズ/1994年/アメリカ/BS録画
僕はこの映画、大ヒット作だと思いん込んでいたのだけれど、実はそんなことはないらしい。 All Movie Guide で調べてみたところ、ボックス・オフィスは5千万ドルに満たない。その前後にトム・クルーズが主演したほかの映画、 『ミッション・インポッシブル』 『ザ・エージェント』 『法律事務所』 といったあたりが軒並み1億ドルを超えているのを考えると、どちらかというと興行的には失敗作といった方が近い気がする。トム・クルーズとブラッド・ピットという二大スターが競演しているのを考えれば、なおさらだ。
ただまあ、そうは云っても、この頃のブラピは、まだそれほどのビッグ・スターとして認められていなかったのだろう(『セブン』 はこの翌年)。さもなければ、この映画で彼のクレジットがトム・クルーズのあとにくるはずがない。 DVDのパッケージにトム・クルーズだけがフィーチャーされていることもあり、僕はこの映画をトム・クルーズの作品として認識していたけれど、実質的に主役をつとめているのはブラッド・ピットだった。トム・クルーズの出番が前半だけでなくなってしまう展開はかなり意外だ。
映画自体はといえば、ブラピ、トム・クルーズ、アントニオ・バンデラス、クリスチャン・スレイターというイケメンだらけの男優が顔をそろえている一方、女優の有名どころは子役時代のキルスティン・ダンストだけという、かなりヤオイなゴシック・ホラー。なるほど、これはちょっとばかり観客を選ぶかもしれない。本国であまり売れなかったのも、なるほどと思ってしまった。
とりあえず、エンディングで流れるガンズ・アンド・ローゼズの 『悪魔を憐れむ歌』 はけっこういいと思う。
(Jan 17, 2009)
インランド・エンパイア
デヴィッド・リンチ監督/ローラ・ダーン、ジェレミー・アイアンズ/2006年/アメリカ
いやー、これはわからなかった。ただでさえ難しいところへきて、夕食時にちょっとばかり飲んだあとだったこともあり、眠らないでいるのが精一杯。こんなんじゃ、いいも悪いもあったもんじゃない。とりあえず、眠い目をこすりつつ、いかにもデヴィッド・リンチって雰囲気だけは、たっぷりと味わったかなと。そういう映画。
物語は、過去に主演俳優二人が謎の死を遂げたためにお蔵入りになったという、いわくつきのポーランド映画のリメイクに出演することになった主演女優が、正気と狂気のあいだをさまよう、といったようなもの(おそらく)。
主人公のローラ・ダーンが演じているのが現実なのか、回想シーンなのか、映画の撮影シーンなのかがとても曖昧なところへきて──たぶんそれらが複雑に絡み合って入り乱れている──、撮影中の映画の完成版か、もしくは未完成のはずのそのオリジナル版をテレビを観ながら涙する女性のシーンがなんの説明もないまま挿入されたり、大勢のギャルが狭いワンルームのなかで踊ったりする謎のシーケンスや、ウサギのかぶりものをつけた男女三人がくりひろげる笑えないシットコムが挿入される。
ホントもう、わからないにもほどがあるってくらいに、わけのわからないシーンのオンパレード。これで3時間というのは、少しばかりつらすぎた。少なくても今回のように眠いときに観てはいけない映画だった。次にもう一度観ることがあれば、そのときには眠気ざましのコーヒーでも用意して観よう──って、そんな日がくるかどうか、わからないけれど。そもそも、これはしらふで観るべき映画じゃないんじゃないかっていう気もする。
(Jan 17, 2009)
ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)
リチャード・リンクレイター監督/イーサン・ホーク、ジュリー・デルピー/1995年/アメリカ、オーストリア、スイス/BS録画
これはもしかして映画史上、もっとも短い恋の物語なんじゃないだろうか。なんたって主人公ふたりが出会ってから別れるまで、わずか一日たらず。それもほぼ全編、恋人同士の会話とキス・シーンだけで成り立っているかのような、純度百パーセントの恋愛映画。いやあ、じつに見事な出来映えだった。
主人公ふたりが出会うのは、ハンブルグからパリへと向かう長距離列車のなか。となりの席にすわったカップルの口喧嘩に閉口したヒロインのセリーヌ(ジュリー・デルピー)が、イーサン・ホーク演じるジェシーの近くの席へと移動したところからドラマが始まる。
セリーヌはパリへと帰宅途中のフランス人女子大生。ジェシーはわけあって失意の2週間を過ごしたあと、帰国のためウィーンへと向かっているアメリカ人(彼もたぶん大学生)。
同世代の気安さから、ドイツ人カップルの人目をはばからぬ口論──ドイツ語を話さない彼らには内容が理解できない──に苦笑いをかわしあった彼らは、これをきっかけに食堂車へ移動して、会話に花を咲かせることになる。
すっかり意気投合したふたりだけれど、列車は無情にもウィーンに到着。ジェシーはここで途中下車して、翌日の朝の飛行機でアメリカへ立つことになっていた。ホテルに泊まる金もないという貧乏な彼には、予定を変更することなどできるわけもない。それでも、セリーヌとの別れを惜しんだジェシーは、思いきって彼女に持ちかけてみる。
「一緒に途中下車して、朝までウィーンを歩き回って過ごさないか」と。
当然、彼女の答えはイエス。
かくして、はにかみながら電車を飛び降りたふたりは、ウィーンの街中を気が向くままに散策しつつ、一生忘れられないひと晩を過ごすことになる。
ロミオとジュリエットのような悲劇性はないけれど、ともに生活力のない身分であるがゆえに、ふたりの関係がひと晩かぎりだという設定にはシンデレラなみの説得力がある。さまざまな話題を行ったりきたりする会話もじつに見事だし、これはまさに極上の恋愛映画だった。
当然のごとく、9年後の続編 『ビフォア・サンセット』 がとても気になっている。
(Jan 17, 2009)
ゾディアック
デヴィッド・フィンチャー監督/ジェイク・ギレンホール、ロバート・ダウニー・ジュニア、マーク・ラファロ/2007年/アメリカ/BS録画
『セブン』 のデヴィッド・フィンチャーが、現実にあった未解決の連続殺人事件を映画化するというので、どんなにおどろおどろしいことになっているのかと思えば、意外とおとなしめな印象。奇をてらって恐がらせようとするようなところのそれほどない、至極まっとうな映画に仕上がっている。
暗号をちらつかせる愉快犯的な連続殺人鬼に魅せられた新聞社のイラストレーターが、家庭の崩壊もかえりみずに事件の謎を追いつめてゆくという内容には、ジェイムズ・エルロイの世界観に通じるものがあると思うのだけれど、この映画からはあちらほどの
でも、あまり猟奇的でも迫力満点でもなく、なんとなく中途半端なおだやかささえ感じさせるその仕上がりが、僕にはかえって好ましかった。不穏なものに惹かれてしまった平凡な男の物語として、素直に入れ込むことができる。これはこれでとてもいいと思う。少なくても僕はとても好きだ。
(Jan 21, 2009)
インベージョン
オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督/ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ/2007年/アメリカ/BS録画
ジャック・フィニィ作の古典SF 『盗まれた街』 の映画化作品。この小説が映画化されるのは、ドン・シーゲル監督の 『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』 から数えて4度目とのこと。
なんでも原作(もしくは旧映画版)は、人間を画一的で無個性な存在にしてしまう宇宙人の存在に、当時の社会主義の脅威を重ね合わせた内容なのだそうだけれど、今回の作品ではそれを今風にアレンジして、宇宙人を宇宙ウイルスに設定変更。感染した人はウイルスに支配されて、全員が同じ意思を持つようになり、互いに争う必要などなくなる──全世界が感染してしまえば、二度と戦争の起こらない平和な世界が訪れるから、さあ、みんなで感染しましょう──、そんな主張をエイリアン側にさせることによって、戦争の絶えない現代の世界情勢を風刺してみせている。
その発想自体は決して悪くないと思う。あと、ウイルス感染による症状が発症するのは睡眠中だという設定のもと、感染してしまったニコール・キッドマンが眠らないように必死にがんばるというあたりの展開も、やたらと眠たがりの僕としては、身につまされるものがあって、けっこういいと思った。
ただし、残念ながらこの映画は演出がいまいちこなれない。シーンのひとつひとつがブツ切りで、あちらこちらで説明不足な印象になってしまっている。人にウイルスをうつすために、げーげー吐いているシーンとかも生理的に気持ち悪いし、最後も中途半端だし──せっかくニュー007のダニエル・クレイグを起用したのだから、もっと彼をヒロイックに活躍させた方がいいと思った──、どうにも見せ方がうまくない気がする。
基本的に僕は映画は短いにこしたことがないと思っているけれど、これとか先日の 『イーオン・フラックス』 とかは、あきらかに短さがアダになっている。やはり語るべきところはちゃんと時間をかけて語らないといけない──そんな教訓となるような作品だった。
でもニコール・キッドマンがあいかわらずきれいなので、彼女を見られただけでもまあいいかという気がしなくもない。
(Jan 21, 2009)
それでも生きる子供たちへ
スパイク・リーほか6監督/2005年/イタリア、フランス/BS録画
さまざまな社会問題に苦しめられながらも
収録されている作品は以下の短編7本(収録順)。
『タンザ』 メディ・カレフ(ルワンダ)
『ブルー・ジプシー』 エミール・クストリッツァ(セルビア)
『アメリカのイエスの子ら』 スパイク・リー(アメリカ)
『ビルーとジョアン』 カティア・ルンド(ブラジル)
『ジョナサン』 ジョーダン&リドリー・スコット(イギリス)
『チロ』 ステファノ・ヴィネルッソ(イタリア)
『
なかではやはりスパイク・リーのやつが強烈。両親がそろいもそろって麻薬中毒者、かつHIV感染者で、みずからもHIVに胎内感染してしまっている少女が、そのことでまわりのイジメにあうという、この上なく悲惨な話でありながら、短い中にもスパイク・リーらしいエッセンスがいっぱいで、目がそらせない。ファンとしては絶対に見逃せない一品。
もうひとつ、カティア・ルンドというブラジル人女性監督の作品もいい。リアカーでガラクタを集めて歩き、廃品業者に売ってこづかいを稼いでいるブラジル人の兄妹のとある一日を描いたもので、この中では唯一、戦争や犯罪や病気や死と無関係だし──ガラクタ拾って歩いているくらいなので貧乏は貧乏なんだろうけれど──、いかにもブラジルらしい活気にあふれていて、観ていて気持ちがよかった。
あと、そのブラジルの話で見られる、日本の環八沿いと大差がないような開けた街並みも、世間知らずな僕にとっては、けっこう新鮮だった。収録された7本がすべて違う国の話だから、アフリカ、アジア、ヨーロッパ、南米と、超光速で世界旅行をしているような感覚が味わえるのも、この映画のいいところだと思う。そういう意味では、リドリー・スコットの作品が地域性の薄い幻想譚であるのが、やや残念な気がした。
ちなみにその作品でリドリー・スコットと連名で監督を務めているジョーダン・スコットという人は、リドリー・スコットの娘さんだとのことです。
(Jan 21, 2009)
真夜中のサバナ
クリント・イーストウッド監督/ジョン・キューザック、ケヴィン・スペイシー/1997年/アメリカ/BS録画
クリント・イーストウッドが監督した殺人事件の話だというので、普通のミステリだと思い込んでいたら、ぜんぜん違った(最近、そういう思い違いが多い)。
原作はジョージア州サバナで実際にあった、地元の名士による男娼の殺人事件にまつわるノンフィクションだとのことで、物語の中心となるのは、自らが犯した殺人がもととなってゲイであることをカミングアウトする羽目におちいった大富豪が、保守的な地元の陪審員たちのもとで、正当防衛としての無罪判決を受けられるか否かというもの。どちらかというとミステリというよりも、法廷劇といった方が正しそうな内容だった。ゲイの問題が絡んだ裁判の話という点で、僕は 『フィラデルフィア』 を思い出した。まあ、そのほかの点では、似ても似つかないけれど。
なんでも原作では、アメリカ南部独特のエキセントリックな住人たちのひととなりも読みどころのひとつだとか。ただし、この映画版で個性が突出していると思わせるのは、ヴードゥーの占い師のお婆さん── 『レディ・キラーズ』 のイルマ・P・ホール──と、性転換した黒人エンターテイナーで、ワインから名前を取ったというレディ・シャブリくらい。
でも、このレディ・シャブリという人が強烈。性転換して女性になったという難しい役どころを見事に演じきっているので、どなたか知らないけれど、すごい演技力だなと思っていたら、それもそのはずで、なんとこの人は俳優ではなく、正真正銘のレディ・シャブリその人なのだそうだ。そいつはすごいや、びっくりだ。ケヴィン・スペイシーやジョン・キューザックら、実力派俳優たちと肩を並べて、ありのままの自分を堂々と演じきっているこの人の演技(?)には一見の価値があると思う。まあ、かなり怖いもの見たさの感はあるけれど。
あと、殺される男娼役のジュード・ロウが若いのにもちょっとびっくりした。ケヴィン・スペイシーもサザン・アクセントばりばりの、さすがという演技力を見せているし、ジョン・キューザックの恋人役を演じているのはイーストウッドの娘さんだというし、そういう意味では、地味ながらも、なかなか見どころの多い映画だった。
(Jan 21, 2009)
24 -TWENTY FOUR- シーズンVI
ジョン・カサー監督ほか/キーファー・サザーランド/2007年/アメリカ/DVD
シーズン5を観たときには、いい加減、食傷気味かなあと思った 『24』 だったけれども、あれから1年以上インターバルが空いたせいか、今回はとてもおもしろかった。いきなり某氏が大統領になっていたり(あり得ない)、ジャックが某主要キャラを撃ってしまったり(涙)、ついにはまさかの大惨事が巻き起こったりと、最初っからテンションが高いこと、高いこと。あまりにおもしろかったものだから、全24話をわずか5日間で観終えてしまった。でもって、そんなに盛りあがったのに、観終わってみると「ああ、またこれでしばらくこのドラマは観なくていいや」と思ってしまうのも、いつも通り……そんな 『24』 だった。
今回の物語は、前回のラストで中国に拉致されたジャック・バウアーがアメリカに帰ってくるところから始まる。テロ集団の内通者が、組織のボスの居場所を密告する見返りにジャックの命を差し出すよう政府に要求したという設定。そんな理由で中国からジャックを取り戻せるならば、もっと前になんとかなったんじゃないかという気がしないでもないけれど、まあそれはそれ。その後もおいおいって展開はあちらこちらにあったけれど、まあ、おもしろかったからよしとする。
このシーズンの見どころのひとつは、テロ集団の首謀者が和平を訴えて出て、それに不満を持ったナンバーツーが代わりに核爆弾でのテロを企てるというところ。テロの首謀者だったアサドというキャラは、現実に即して考えるとオサマ・ビン=ラディンに相当するのだろうから、つまりこのドラマの展開は、オバマがビン=ラディンに恩赦を与えて、ともにテロと戦おうと宣言するというような話なわけだ。そりゃ本当だったらば大騒ぎだ。まあ、アサドを演じるアレクサンダー・シディグという人があまり悪党面していないので、あまりそういう深刻さが伝わってこない感はあるけれど。
もうひとつの見どころは、そのテロにジャックの父親と弟が関係しているという展開。そういえば以前、ジャックの父親フィリップ・バウアー役として、ドナルド・サザーランドにオファーがあったという噂話もあった(でも悪役は嫌だとかで交渉決裂したとか)。代わりにこの大役を務めることになったのは、ジェームズ・クロムウェル。それはそれで豪華な配役だし、いやー、なによりこの人の堂にいった悪役ぶりには感服しました。さすが。
(Jan 31, 2009)
ハンニバル
リドリー・スコット監督/アンソニー・ホプキンス、ジュリアン・ムーア/2001年/アメリカ/BS録画
なにを隠そう、僕はいまだに 『羊たちの沈黙』 を観たことがない。というかそれ以前に、このシリーズの4作については、原作はすべて読んでいるのに、映画はこれまで一本も観たことがなかった。アカデミー賞受賞作を含む有名なシリーズだけに、そういうのって、ちょっと珍しい気がする。
しかしながら今回この作品を観てみて、僕はやっぱりこの手の話は活字だけに留めておいた方がいいかもしれないと思った。血生臭い話が苦手で、手術のシーンも嫌いだというくらい意気地のない僕にとって、この映画の殺人描写はちょっとばかりグロテスク過ぎた。活字で読んでいる分には、
小説と比べると、ラストにも少なからず不満が残った。なんだか悪い夢でも見ているような、もしくは、知らずと禁断の世界を垣間見てしまったような、なんとも形容しがたい読後感を残した原作と比べると、この映画版は、いたってハリウッド的で凡庸な終わり方をしてしまっている。原作の悪魔的なおだやかさを映画で再現するのは、さすがに許されなかったのかもしれないけれど、それならばそれで、もう少しどうにかして欲しかった。
でもまあ、あの許されざるディナー・シーンを映像化しただけでも、すごいことかもしれないという気はする。
(Jan 31, 2009)