2006年11月の映画
Index
- ザ・ソプラノズ<シーズン2>
- ポケット一杯の幸福
- 五線譜のラブレター
- ダ・ヴィンチ・コード
- わんわん物語
- ブルーベルベット
- ベティ・サイズモア
- プリティ・ウーマン
- ALI(アリ)
- プリティ・ブライド
- アバウト・シュミット
ザ・ソプラノズ<セカンド>
デイヴィッド・チェイス製作総指揮/ジェームズ・ガンドルフィーニ/2000年/アメリカ/DVD
ファースト・シーズンでは組織のボス、ジャッキーが癌で他界し、その後釜にすわったトニーの叔父ジュニア(ドミニク・キアニーズ)が逮捕されるまでが描かれていた。セカンド・シーズンでは、獄中のジュニアのあとをトニーが引き継ぎ、ファミリーのボスとして権力を振るい始めてからが描かれる。
このシーズンのキーとなるエピソードはふたつ。ひとつはトニーの姉ジャニス(アイダ・タトゥーロ──この人はジョン・タトゥーロの従姉妹だそうだ)がニュージャーニーに戻ってきて、これまた刑期明けで戻ってきたジャッキーの兄リッチー(デイヴィッド・プローヴァル)とつきあい始め、二人してトニーの悩みの種となるというもの。もうひとつはファースト・シーズンの最後にFBIの密告者なんじゃないかと疑われたまま姿を消していたプッシー(ヴィンセント・パストーレ)が再び姿をあらわして仲間に加わるものの、実は彼がやはり密告者だったというもの。ジャニスとプッシーがともに一話目で登場して、最終回で退場するという点でも、この二つのエピソードがメインと言っていいと思う。
その他にもトニーと女性たち──母親や妻カメーラ(イーディ・ファルコ)や愛人──との関係、ドクター・メルフィー(ロレイン・ブラッコ)がトニーのカウンセリングを再開したことに悩んで自らもカウンセリングを受け始めてしまう展開、クリストファー(マイケル・インペリオリ)が映画脚本家をめざして試行錯誤したあげく、臨死体験をへて結局マフィア稼業に骨を埋める決心をするまでの顛末、メドウ(ジェイミー・リン・シグラー)の進学話などがこのシーズンの主要なエピソードだ。ファーストではやたらと存在感のあったトニーの母親は今回、コミック・リリーフとして脇役に徹している。
『ザ・ソプラノズ』の場合、『Xファイル』のような一般的なドラマとは違い、こうしたさまざまなエピソードが一話完結で順番に描かれてゆくのではないところが特徴だ。すべてのエピソードがシーズンの全体を通じて同時進行してゆく。一回の話でいずれかにクローズアップすることはあっても、その回だけですべてが語られてしまうことはまずないし、また一話のなかでひとつのエピソードだけが集中して語られることもほとんどない。どの回でもいつもいくつかのエピソードの断片が入り混じって話が進んでゆく。ゆえに一話一話になんだかとてもとりとめのない印象を受けることになる。このとりとめのなさこそが、ソプラノズの最大の特徴だと思う。
ちなみにこのシーズンのゲストでおっと思ったのは、『Xファイル』でジョン・ドゲット捜査官を演じているロバート・パトリックと、『トゥー・ウィーク・ノーティス』のアリシア・ウィット。ロバート・パトリックはトニーの学友で賭け事が大好きなスポーツ用品店オーナー役として数回出演しているのだけれど、その小市民ぶりがあまりにドゲットのイメージと違うものだから、不覚にも最後までその人だと気がつかなかった。おそまつ。
(Nov 03, 2006)
ポケット一杯の幸福
フランク・キャプラ監督/グレン・フォード、ベティ・デイヴィス/1961年/アメリカ/BS録画
フランク・キャプラが自らの『一日だけの淑女』をテクニカラーでリメイクした作品。これがキャプラの遺作とのことだ。
ニューヨークの通りでリンゴを売って歩いている老婆アップル・アニー(ベティ・デイヴィス)は、スペインの修道院にいるひとり娘のルイーズ(アン=マーグレット)に毎週欠かさず手紙を書いていた。ただし本来の貧乏暮しは隠したまま、一流ホテルの便箋と封筒を手に入れて、自分はそこで暮す上流階級の婦人なんだと嘘をついて。だからルイーズが婚約者の伯爵子息とともにアニーに会いにくると知らされ、途方に暮れてしまう。そんな彼女を救うのが、アニーから買うリンゴが自分に幸運を運んでくれると信じているギャングのデュード(グレン・フォード)。大きな取引をひかえた彼は、恋人のクイーニー(ホープ・ラング)から、いつものように幸運を手にするにはアニーを救うしかないとそそのかされ、しぶしぶアニーに救いの手をさしのべることになるのだった。
善良な市民を描くというイメージの強いフランク・キャプラが、この作品ではギャングを主人公にしているので、なんだか珍しい気がしていたのだけれど、クライマックスはいつも通りのキャプラ節で、ああなるほどと思わされた。リメイクということもあって、オリジナルを知っている人からは不必要に長くなった等の不評もあるようだけれど、そちらを知らない僕にとっては、これもじゅうぶんにおもしろい作品だった。グレン・フォードの子分役で、デビューしてから間もないピーター・フォークが出演しているのも、ファンとしては見逃せない。
ボロをまとって四角い籠にいれたリンゴを売って歩くベティ・デイヴィスは、まるで白雪姫の悪い魔法使いみたいだ。そんな彼女がデュードの助けを得て、見まごうばかりの淑女に変身してしまう。つまり実はこれは白雪姫ではなく、おばあさん版のシンデレラなのだった。
(Nov 04, 2006)
五線譜のラブレター
アーウィン・ウィンクラー監督/ケヴィン・クライン、アシュレイ・ジャッド/2004年/アメリカ/DVD
コール・ポーターの半生を描くミュージカル映画。監督のアーウィン・ウィンクラーは『真実の瞬間』を撮った人だ。
この作品、老いさらばえたポーターが、自らの自伝ミュージカルの舞台稽古を、舞台監督のゲイブ(ジョナサン・プライス)とともに見ているという、劇中劇的な構造をとっている。『シカゴ』もそうだけれど、最近のミュージカルは、そういうひとひねりしたメタフィクション的な構造をとるのが主流みたいだ。きわめて虚飾性の強いミュージカル映画というものを作る上では、わざと視点をずらして距離感を演出しておかないと現代では通用しないということなのかもしれない。
物語としての映画の焦点は、バイセクシャルであったポーターと奥さんのリンダとの関係を描くことにある。ポーターの浮気相手がことごとく男性というのが、なんとも不思議な感じがする。なまじ奥さんが綺麗だから、ほかの女性とは浮気をする必要性がないってことなのかもしれないけれど、いまひとつぴんとこなくて、ちょっとばかり居心地の悪い思いをさせられる。
リンダを演じるのは『恋する遺伝子』のアシュレイ・ジャッド。ポーター役のケヴィン・クラインとともに、特殊メイクで老後の老け役までを一人で演じきっている。『ビューティフル・マインド』なんかもそうだけれど、若い彼らが老人を違和感なく演じているのを見ると、あらためて最近の特殊メイクはすごいなあと思う。
でも音楽ファンとしての一番の注目点は、当然豪華なゲスト・ボーカリストの数々だ。僕に馴染みのあるところでは、最愛のエルヴィス・コステロを始めとして、アラニス・モリセット、シェリル・クロウ、ナタリー・コール、ロビー・ウィリアムスなどが出演。それぞれに着飾って、たっぷりとポーターの歌を聞かせている。コステロの奥さんダイアナ・クラールも出演していた。珍しいところでは、シンプリー・レッドのミック・ハックネルも出ている。クレジットを見るまでまったく気がつかなかったけれども。
気がつかなかったといえば、コール・ポーターと年中行動をともにしている一組の夫婦が誰なのか、僕は最後のシーンになるまでわかっていなかった。なんとF・スコット・フィッツジェラルドの友人として有名な、『優雅な生活が最高の復讐である』のジェラルド&セーラ・マーフィー夫妻じゃないか。なんてこった。僕はこの映画を見る前から、「そういえばあの本にはコール・ポーターの話が出ていたよなあ」とか思っていたというのに。気がつかないなんて、不覚にもほどがある。
(Nov 04, 2006)
ダ・ヴィンチ・コード
ロン・ハワード監督/トム・ハンクス、オドレイ・トトゥ/2006年/アメリカ/DVD
世界的なベストセラーとなった『ダ・ヴィンチ・コード』の映画版。小説は爆発的に売れたというだけではなく、オープニングの扇情的な殺人現場のシーンからして、非常にビジュアル性が豊かなので、映画が作られるのは当然、どちらかというと、映画化されなかったとしたら、その方が驚いてしまうような作品だ。
映画としては、いくつかディテールの変更がありはするものの、基本的にはきわめて原作に忠実な作りとなっている。下馬評では原作を読んでいないと話がわからないという噂もあったけれど、いざ見てみるとそこまでひどくはない。原作を読んでいない妻も一応、話はわかったと言っていたし、少なくても『姑獲鳥の夏』よりはよほどマシだと思う。かえってあの情報量の多い原作を、よくもここまでまとめあげたたと感心するくらいだ。ただミステリというよりは、スリラーという印象の方が強いので、謎解きに期待して見てしまうと、がっかりして腹が立つなんてことになるかもしれない。
個人的にものたりなかったのは、たくさん出てくる美術品や歴史遺産が、あまり映像として魅力的に思えなかった点。もっともっと思わずすげーと見とれてしまうようなカットをふんだんに盛りこんで欲しかった。特に最大の謎が明かされる「最後の晩餐」のシーンが残念だ。肝心要のあの絵画が、どうにもぼやけていてインパクトに欠けた。あそこはもっとけれんみのある演出で、徹底的にドラマチックに、どーんと見せて欲しかった。
ただこれでも2時間半近いのだから、あまり映像に凝ってしまって3時間を超えてしまうようだと、それはそれで長過ぎるという批判を浴びてしまいそうな気もする。なかなか難しいところだ。
なんにしろロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演、ヒロインが『アメリ』のオドレイ・トトゥで、その他の共演者にもジャン・レノを始めとして、『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフ役イアン・マッケランに、『スパイダーマン2』のドクター・オクタゴンこと アルフレッド・モリナとそうそうたる面々が顔を連ねているのだから、話題作の頭に超がつくのも当然という作品だった。
(Nov 04, 2006)
わんわん物語
ウォルト・ディズニー製作総指揮、ハミルトン・ラスク、クライド・ジェロニミ、ウィル・ジャクソン監督/1955年/アメリカ/DVD
この映画はディズニーにとって初のシネスコープ・サイズの長編作品なのだそうだ。また既存の童話に材をとらないオリジナル・ストーリーの作品というのもこれが初めてだという。
これはどちらもちょっとばかり意外だった。ディズニー映画の主要な作品は、ほとんどがこれよりも前の作品だからだ。つまり『シンデレラ』や『ふしぎの国のアリス』はシネスコではないということだし、『バンビ』や『ダンボ』はディズニーのオリジナル・ストーリーではないということになる。
まあシネスコについては、調べてみたらば、実写で最初に採用されたのが1953年だということだし、当然と言えば当然のことなんだろうけれど、あまりそういうことに気をとめていなかったので、おやそうなのかと、ちょっとばかり意表をつかれることになった。
しかしながらディズニー・アニメの変遷をたどってみると、どうやらこの作品がターニングポイントになったみたいだ。これ以降にウォルト・ディズニーが製作した有名な長編アニメというと──『メアリー・ポピンズ』のような実写中心の作品は別として──『眠れる森の美女』と『101匹わんちゃん』くらいしか見当たらない。前者は『シンデレラ』タイプの典型だし、後者はこの『わんわん物語』のスタイルを踏襲した作品だ。つまりこれ以降には(『美女と野獣』あたりからのCGの導入を除くと)純粋なアニメーションとしてのイノベーションはいっさいなかったことになる。この映画でシネスコサイズに挑戦したり、オリジナル・ストーリーを採用したりしたのは、製作意欲の衰えとマンネリ化を補うための、最後の試みだったのかもしれない。
なにはともあれ、この作品自体はとてもよく出来た良質のアニメーションだ。犬の視点を強調するための演出としてシネスコを有効活用したのだろう、人間の首から上をあえて画面に収めないようにした構図を多用している点がおもしろい。歌をペギー・リーが担当していることでも話題になったそうだけれど、僕は子供と一緒に吹替で見たので、その人の歌声は残念ながら未確認だったりする。おそまつ。
(Nov 05, 2006)
ブルーベルベット
デヴィッド・リンチ監督/カイル・マクラクラン、イザベラ・ロッセリーニ、デニス・ホッパー/1986年/アメリカ/DVD
鬼才デヴィッド・リンチがその奇才ぶりを世界に知らしめ、映画界に確固たる地位を築くことになった作品。われながら意外なことに、デヴィッド・リンチの作品をきちんと見るのはこれが初めてだ。
カイル・マクラクラン演じる主人公のジェフリーは、父親が倒れたために帰省した大学生。彼が空き地で切断された人間の耳を拾ったことから、この物語は始まる。旧知の刑事にその耳を届け出たジェフリーは、その後、刑事の娘であるサンディ(ローラ・ダーン)──のちに『ジュラシック・パーク』シリーズで活躍することになる女優さん──から、事件にはあるクラブ歌手が関係しているらしいと聞かされる。好奇心にかられてその女性ドロシー(イザベラ・ロッセリーニ)の部屋に忍び込んだ彼は、変質的なギャングのフランク(デニス・ホッパー)がドロシーを相手にサディスティックな変態性欲を満たす光景を、クローゼットの中から覗き見することになる。やがて彼自身もドロシーと関係を持つようになり、そのことがフランクにばれて……。
この作品でいちばんすごいと思うのは、冒頭でジェフリーの父親が倒れるシーン。いかにもとんでもないことが起こってしまったようなあのシーンだけれど、終わってみればそれほど特別な意味がなかったことがわかる。そんなシーンをあれだけの迫力をこめて描いてみせる不思議な感性が、この作品全体に漂う独特の雰囲気を支えているんだろう。おかげで意外なほどアットホームなエンディングにも、不穏ななにかが隠されているのではないかと疑わずにはいられない。
デヴィッド・リンチの演出は妙な不安感をあおる。人が内面に隠し持ったドロドロしたものを、ひきつった笑顔でもって、わざとさらけ出して見せようとしているような印象がある。そこには
(Nov 05, 2006)
ベティ・サイズモア
ニール・ラビュート監督/レニー・ゼルウィガー、モーガン・フリーマン/2000年/アメリカ/BS録画
フィクションに夢中になった人妻が、現実と虚構の区別がつかなくなって事件を巻き起こす──。フランスの文豪フローベールが『ボヴァリー夫人』で扱ったそんなモチーフを、この映画はきわめて現代的な設定に置き換えてコメディに仕立てあげてみせている。レニー・ゼルウィガー演じるベティが夢中になるのは連続テレビドラマだし、彼女の症状には地下鉄サリン事件以来すっかりお馴染みになったPTSD(心的外傷後ストレス障害)という診断がくだされる。夫が惨殺されるところを目撃してしまったベティは、そのショックから現実逃避するために、自らをテレビドラマの主人公の元婚約者だと思いこんで、彼とのよりを戻すべく、ハリウッドをめざして旅に出るのだった。いっぽう、ベティが乗った車に大量のドラッグが隠してあったことから、それを探していた黒人の殺人犯たち(モーガン・フリーマンとクリスロック)が彼女のあとを追うことになる。
この映画には、顔に見覚えのある俳優さんたちがやたらとたくさん出ている。クリス・ロックは一時期のMTVミュージック・アワードの司会でお馴染みだし、テレビドラマのハンサムな外科医役を演じているのは、『恋愛小説家』『恋する遺伝子』のグレッグ・キニアだ。頭の皮をはがれて殺されてしまう悲惨なベティの夫デル役は、同じ監督の次回作『抱擁』で主役を演じるアーロン・エッカート。クリスピン・グローヴァーは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でマイケル・J・フォックスのお父さんを演じていた人だし、ベティがハリウッドへ向かう途中で立ち寄るバーの女主人役のハリエット・サンソム・ハリスは、『Xファイル』や『アリーmy Love』にゲスト出演している、といった具合。名前を言われてもぴんとこないけれど、顔には見覚えがあるという俳優さんがこれくらい出てくる映画というのも珍しいと思った。
作品の出来もなかなか。タランティーノやコーエン兄弟を思い出させる残酷かつ滑稽な殺人シーンと、その後のあまり毒を感じさせないコメディとしての要素のアンバランスさには、やや違和感をおぼえたけれども。
(Nov 12, 2006)
プリティ・ウーマン
ゲイリー・マーシャル監督/ジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア/1990年/アメリカ/BS録画
億万長者の企業家が、道案内役に拾った娼婦に恋をすることになるという90年代初頭のおとぎ話。
落ち目の企業を買収して解体して売りさばき、巨額の利益をあげている企業家のエドワード・ルイス(リチャード・ギア)は、ベバリーヒルズのホテルに向かう途中で道に迷い、通りで客引きをしてた娼婦のビビアン(ジュリア・ロバーツ)に道案内役を頼むことになる。つかの間のドライブのあいだに彼女に興味をもった彼は、そのまま彼女をともなってホテルのペントハウスへ。ともに一晩を過ごしたのち、二人は三千ドルで残りの一週間をともに過ごすという契約を交わすことに……。
ジュリア・ロバーツの初めての主演作であるこの作品、まだまだ彼女のネームバリューはいまひとつ、共演のリチャード・ギアも『愛と青春の旅立ち』以来、鳴かず飛ばずだったため、公開前にはそれほど話題になっていなかったのだそうだ。それがいざ公開してみれば記録的な大ヒットとなり、まさにビビアンの運命をそのまま地でゆくような結果を残すことになる。
なんたって All Movie Guide によると、この映画の興行収益は1億7千万ドルだ。これより1年前の作品で、同じロマンティック・コメディとしてはより高い評価を受けている『恋人たちの予感』の興行収益がその約半分の9千万ドルだというのと照らしあわせると、この映画がいかに大ヒットしたたかがよくわかる。二十一世紀になったいまになって見てみると、なんでそこまで売れちゃったのか、いまいちぴんとこないけれど。90年ちょうどの作品で、音楽的にまだまだ80年代の悪しき音を引きずっているものだから、BGMがやたらとチープに感じられてしまったりした。
でもまあジュリア・ロバーツはとても綺麗だ。この時はまだ23歳。とても娼婦とは思えないような、汚れを感じさせない、いきいきとした演技を見せてくれている。彼女を見ていると、ヒットしても当然かなと思えてくる。
ヘクター・エリゾンドの演じる支配人を始めとしたホテルの従業員たちが、そんな彼女のことを娼婦と知りながらも、その美しさを賞賛して、彼女に優しく接しているところもいい。彼らの現実にはありえないような人の良さが、このシンデレラ・ストーリーのおとぎ話的な側面をなおさら引き立てて、ほのぼのとしたいい気分にさせてくれた。
(Nov 12, 2006)
ALI(アリ)
マイケル・マン監督/ウィル・スミス、ジェイミー・フォックス/2001年/アメリカ/BS録画
ウィル・スミスが見事に身体を鍛えあげて主役を演じたことでも話題になったモハメド・アリの自伝映画。
自伝とはいっても、語られているのはアリ──当時はまだ本名のカシアス・クレイ──が二十二歳の時に世界ヘビー級タイトルマッチに初挑戦するシーンから、その十年後にジョージ・フォアマンと対戦するまで。時代にして64年から74年までのおよそ十年間だけだ。それでもモハメド・アリについてはパーキンソン病にかかったあとの気の毒な姿しか知らない僕のような人間にとっては、なかなかためになる映画だった。
これを見るとモハメド・アリという人がどうしてあれほどまでの尊敬を集めるのか、とりあえずわかる。絶対的に不利だといわれたタイトルマッチで見事に勝利をおさめた意外性。対戦相手やマスコミを遠慮なくこきおろす、ユーモラスで舌鋒鋭い毒舌家ぶり。そして敬虔なモスリムとしての誠実さ。アリという人は、一人のボクサーという枠には収まりきらない、実にさまざまな側面を持っている。こんなチャンピオンがいたら、マスコミが放っておくわけがない。そりゃ人々が夢中になるのも当然だろう。個人的には、人殺しは嫌だからと徴兵を拒否して、兵役忌避者として最後まで政府と法廷で争い続けた姿勢にとても感銘を受けた。
この作品はオープニングが意表をついていておもしろい。いきなりサム・クックのライブ・パフォーマンス──おそらく有名なハーレム・スクエア・クラブでのライブを再現したもの──が始まり、それがジョギングやトレーニング中のアリの映像と平行しながら、延々と続くのだった。
もちろん本人のライブ映像が残っているはずがないから、ここでのそれは映画のために撮影されたもの。サム・クックを演じているのはデイヴィッド・エリオットとかいう無名の人で、声質はあまりサム・クックに似ていないけれど──そもそもあのベルベットのように滑らかなボーカルをきちんとコピーできてしまうほどのボーカリストだったらば、無名なままのはずがない──、フレージングやシャウトの癖をきちんと再現していて、なかなか本物らしく聴こえる(もしかしたらボーカルは別の人の吹替かもしれない)。「サム・クックはこんなもんじゃない。こんなもの観ていられるか」と腹を立てて見るのをやめてしまうなんて人もいるかもしれないけれど。僕はそれなりに楽しんで拝見させてもらった。
サム・クックのステージの模様は、確かその後のリストンとのタイトルマッチが始まるまで延々と続く。『ヒート』を観た時にも思ったことだけれど、こうした演出に見られるしつこいほどのスタイリッシュさが、マイケル・マンという人の特徴のような気がする。それはそれで悪くないと思うのだけれど、この人の場合、時としてそのしつこさが陳腐に思えてしまうようなところがある。この映画で言えば、「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という有名なフレーズで語られる華麗なフットワークを強調しようとして、アリのシューズの動きに盛んにクローズアップする演出などにそれが顕著だ。観ていて、もうわかったからやめてくれないかなと思ってしまう。そのへんがややマイナスかなと。
ともかく、いきなりサム・クックが登場したことに驚いてると、それに続いて出てくるのがなんとマルコムXだ。この人は出てきた途端に、あ、マルコムXだ、とわかる。デンゼル・ワシントンに勝るとも劣らない──いや、もしかしたらこちらの方がそれらしいかもしれない──マルコムXを演じているのは、黒人映画監督の草分けとして名高いメルヴィン・ヴァン・ピーブルズの息子さん、マリオ・ヴァン・ピーブルズ。日本のサッカー・ファンには三都主アレクサンドロのそっくりさんだといって紹介した方がいい気がする。本当にこの人は妙にアレックスに似ている。
なにはともあれ、モハメド・アリ、サム・クック、マルコムXという傑出した才能を持った三人の偉大な黒人たちが、この時期にあんな風にお互いに交流を持っていたという事実には、単純にすごいなあと感動をおぼえてしまう。
アリがモスリムであることから、マルコムXは物語の前半で大きな役割を果たしているけれど、一方のサム・クックはほとんど本筋に関係してこない。そんな彼を最初に大きくクローズアップして見せているのは、この天才ボーカリストがその年のうちに亡くなっているからだろうか。この映画では描かれていないけれど、サム・クックが不幸な死を遂げたのは、冒頭で描かれるアリのタイトルマッチがあった64年の暮れのこと。マルコムXが射殺されてしまうのがその翌年、サム・クックの死からわずか2ヶ月後のこと。アメリカは偉大な才能を持った二人のアフロ・アメリカンを相次いで失ったことになる。マイケル・マンはそうした時期を描く作品であることを踏まえて、わざと必要以上にサム・クックをフィーチャーしてみせたのかもしれない。
そんなわけでサム・クック好きの僕は、この映画がそれなりに気にいっている。スパイク・リーが監督するという話があったと聞いた時には、それが実現しなかったことを残念に思ったものだけれども、まあこれはこれでありかなと思う。スパイク・リーが監督したらば、ボクシングのシーンなんかは、あんな風にストレートで迫力のある演出にならなかった気がするし。
そうそう、僕はこの映画のボクシングシーンはなかなかよく撮れていると思った。アリと対戦するボクサーたちのパンチの重そうなこと、この上ない。あんなパンチで殴られたら、俺なんか一発で死んじゃいそうだと思わせる、ヘビー級ならではの迫力があって、とてもよかった(逆に主役のウィル・スミスがやはりそれほど強そうには見えないのは欠点といえるかもしれない)。まあ、もしかしたらば『ロッキー』や『レイジング・ブル』を見たらば、もっと感心しちゃうのかもしれないけれど。ためしに今度見てみよう。
その他、細かいところでは、僕らの世代にとってはマイク・タイソンのプロモーターとして有名なドン・キングが、アリの時代からすでに大活躍していたことや、「猪木ボンバイエ」の「ボンバイエ」が、ザイール(現在はコンゴ)の民衆がアリを応援して叫んだ「やつを殺せ」という意味のシュプレヒコールからきていることなど、些細なトリヴィアも満載の映画だった。
(Nov 19, 2006)
プリティ・ブライド
ゲイリー・マーシャル監督/ジュリア・ロバーツ、リチャード・ギア/1999年/アメリカ/BS録画
『プリティ・ウーマン』の監督と主演二人が9年ぶりに一堂に会した作品。
日本の映画配給会社にとって『プリティ・ウーマン』の大ヒットは、ちょっとやそっとでは忘れられないほどのインパクトを持っていたらしい。その後にゲイリー・マーシャルが監督したロマンティック・コメディには、邦題を決定する上で、その影響がありありだ。この『プリティ・ブライド』を始めとして、『プリティ・リーグ』『プリティ・プリンセス』『プリティ・ヘレン』と、原題を無視した「プリティ」の大安売り状態。『プリティ・ブライド』については主演の二人が同じだから、まあ仕方がないかなと思わないでもないけれど、その他はちょっとなんなんじゃないだろうか。あまりの安直さにゲイリー・マーシャルが気の毒になる。どうにも日本の映画配給会社の感性にはくびを傾げたくなることが多くて困りものだ。
ただ、ゲイリー・マーシャルという監督の作風には、そんなふうについ頭に「プリティ」をつけてしまいたくなるような軽さがあるのも確かなところではある。この人のセンスはその音楽の使い方に顕著に表れている。U2の『I Still Haven't Found I'm Looking For』をBGMにウェディング・ドレス姿のジュリア・ロバーツが馬を駆るシーンから始まり、クライマックスではエリック・クラプトンが歌うせつないラブ・バラード『Blue Eyes Blue』──よく聞く曲だけれど、この映画のための挿入歌だとは知らなかった──で盛りあげる。で、エンドクレジットのBGMはビリー・ジョエル。『プリティ・ウーマン』もこれも、サウンドトラックはヒットチャートのトップ10を集めたコンピレーション盤みたいだ。それも80年代の。オルタナティブなところが微塵もなくて、コアなロックファンのひとりとしては、それだけでちょっとばかり敬遠したくなってしまう。
なんてことを書くと馬鹿にしているみたいだけれど、でも決して嫌いなわけではない。いや、実はそれなりに好きだったりする。花嫁がフェデックスの配送トラックに飛び乗って逃げていく場面で、リタ・ウィルソンとヘクター・エリゾンドが「どこへゆく気かしら」「さあね。でもどこへでも1日で着くからね」という会話を交わすところがあるけれど、全編にこの手の小さなユーモアがリズムよく積み重ねてあって、なかなか小気味いい作品だった。
(Nov 23, 2006)
アバウト・シュミット
アレクサンダー・ペイン監督/ジャック・ニコルソン、キャシー・ベイツ/2002年/アメリカ/BS録画
この映画でジャック・ニコルソンの演じる主人公、ウォーレン・シュミットが味わう孤独と悲哀は、いたって平凡でありふれたものだ。仕事一筋に生きてきて、定年退職を迎えてみれば、待っていたのは愛してもいない妻とのつまらない生活。心から信頼できる友もなく、愛するひとり娘とは意思の疎通を欠くというていたらく。日本のサラリーマンの多くは、この人とおなじ憂き目にあう可能性を秘めて日々を生きているのではないかと僕は思う。ただそのことに気がつかないふりをしたりしていたり、仕事が忙しくて気がつくだけの余裕がなかったり、もしくは気がつくだけの知能がなかったりするだけじゃないのかと。
ところがこの映画の主人公シュミットは、妻の急死、友人の背信、娘の不本意な結婚という事態の連続のなかで、自分が孤独であることに無理やり気づかされることになる。66歳の老人にとっては、なかなかシビアな状況だ。しかも定年退職を迎える歳になった不器用な彼には、いまさらその孤独と折りあいをつけてゆくことも、孤独ではないふりをして周囲と馴れあってゆくこともできない。救いを求めるように妻が買ったトレーラーハウスを転がして旅に出て、先々でささやかな醜態をさらして歩くことになる。そのあまりの小市民ぶりが笑いと痛みを誘う。
チャリティー募金で里親となったアフリカの孤児ンドゥグへの手紙という形でシュミットの本音をさらしてみせた脚本がうまい。まるでヴァン・モリソンみたいに太ったジャック・ニコルソンの演技、特に特徴のある歩き方も見事だ。ああ、こういう風な歩きかたをする人っているよねと思わせる演技力に脱帽。キャシー・ベイツの裸にもちょっとばかりびっくりだ。
(Nov 23, 2006)