2023年8月の本

Index

  1. 『こうしてお前は彼女にフラれる』 ジュノ・ディアス
  2. 『フランクフルトへの乗客』 アガサ・クリスティー
  3. 『フォレスト・ダーク』 ニコール・クラウス

こうしてお前は彼女にフラれる

ジュノ・ディアス/都甲幸治・久保尚美・訳/新潮クレスト・ブックス/新潮社

こうしてお前は彼女にフラれる (新潮クレスト・ブックス)

 「フラれる」というと、好きな人に告白して「ごめんなさい」といわれるイメージだけれど、この本のフラれ方はちょっと違う。
 そもそも日本のように告白してから交際が始まるというパターンは世界では少数派だそうで、たいていの国では好きだなんだという前にデートしてすぐに寝てみて、相性がよければそのままおつきあい、みたいなのが主流らしい(本当かどうかは知らない)。
 ということで、『こうしてお前は彼女にフラれる』と題したこの短編集の男女関係もまさにそんな感じ。ほぼ全編がユニオールという男性を主人公にした女性遍歴を描いているけれど――ひとつだけ女性が主人公の話がある――どの話もとりあえずやることをやったあとで、彼の浮気性やらなにやらが原因で関係が破綻するという話ばかりだ。
 そこまでたくさんの女性とつきあえるんならば、それはそれで幸せなんじゃないかと思ってしまうけれど――その文学的素質により孤独な青春時代を過ごしてたにせよ、最終話では大学で講師を務めたりしているから、人生の落伍者と呼ぶのはいささかふさわしくない――でもひとつとしてうまくいかない失恋話ばかりが並んでいるので、そこにはやはりどうしようもない喪失感が漂っている。また、複雑な思いを寄せていた兄を若くして癌で失ったことが癒えない傷として全編にわたってうずいている。
 作者は『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』のジュノ・ディアス(ユニオールはあの作品の語り手のひとりだったそうだけれど、僕は当然そんなことには気がつかない)。あの作品で再三繰り返されていた――でもオタクなおくての主人公ゆえに表面化していなかった――ドミニカ人の性的な奔放さに改めて焦点を当てたのがこの本って印象だった。
 『オスカー・ワオ』はオタクのサブカルねたを随所に盛り込むことで重い話にポップな装飾を施していたけれど、この本はそういうオタク性が皆無な上に、短編集だからひとつひとつのエピソードが短い分、一編ごとの喪失感が徐々に積みあがって脹れてゆくようなやる瀬なさがある。あの長編とはまた違った感触を残す作品に仕上がっている。
(Aug. 05, 2023)

フランクフルトへの乗客

アガサ・クリスティー/永井淳・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle

フランクフルトへの乗客 (クリスティー文庫)

 十一年もの長きにわたって読んできたアガサ・クリスティー全作品読破プロジェクトもようやく最終局面に突入。ここからは「最後の」という枕詞がつく作品がつづく。
 ということで、これはノンシリーズでは最後の長編となるサスペンス・スリラー。
 天候不良のためフランクフルトでの乗り換えを余儀なくされたイギリスの外交官が、見知らぬ美女から「あなたの衣装とパスポートを私に貸して、私があなたのふりをして入国できるよう、助けてくれくれません?」というような突拍子もないお願いをされるところから物語は始まる。
 普通ならばそんな要求が受け入れられるはずがないのだけれど、そのサー・スタフォード・ナイという貴族の出の外交官は人をくった性格だったので、彼女のリクエストに応えて、ビールに薬をもられて眠らされているあいだにパスポートを盗まれたという話をでっちあげて、彼女の協力者となる。
 女性が男性にばけて入国審査をパスするという話の流れにはいくらなんでも無理があると思うのだけれど、まぁ、そこはフィクション。彼女は無事にイギリスへの入国を済ませ、後日彼のもとへとふたたび登場する。
 さて、彼女は何者で、なにゆえにそんな危ない橋を渡らなければならなかったのか?――というのが、この作品の主題につながってゆくわけだけれども。
 彼女の正体があかされたところから、物語はなにそれって様相を見せる。
 作品が刊行されたのは1970年。ヒッピームーブメントや学生運動で世界中が騒然としていたその時代の空気を危惧(嫌悪?)したクリスティーは、事件の背後に世界経済をぎゅうじる謎の秘密組織を配して、世界中を巻き込む一大騒乱期の到来を描き出す。――かの歴史的最重要人物のアナザー・ヒストリーまで盛り込んでみせたりしつつ。
 なにこれSFじゃん!!
 あまりの内容に愕然としました。
 クリスティーのサスペンス・スリラーってひとつとして成功した作品がない印象だったけれど、最後の最後になってこんな作品をぶち込んでくるとは思わなかった。
 読み終わって表紙に戻ってみたら、タイトルの隣に「コミック・オペラ」と副題がついていた。なるほど、最初から現実味は度外視した喜劇のつもりで書いたってことなのか。
 いやいや。それにしたって……と思わずにいられない怪作だった。
(Aug. 05, 2023)

フォレスト・ダーク

ニコール・クラウス/広瀬恭子・訳/エクス・リブリス/白水社

フォレスト・ダーク (エクス・リブリス)

 気がつけば『ヒストリー・オブ・ラブ』を読んでからもう十五年が過ぎていた。
 ものすごく感動したはずなのに、すでにその内容についてはすっかり忘れてしまっている。ただすごい小説だったという印象が残っているばかり。
 その作品の作者、ニコール・クラウスの最新長編がこれ。
 昨今の作家にはありがちだけれど、寡作な人で、2002年にデビューしてから二十年ちょいで、作品はこれを含めた四本の長編小説と短編集が一冊のみだそうだ。
 『ヒストリー・オブ・ラブ』のような傑作――内容は覚えていないけれど、記憶のなかの印象はまぎれもない傑作――をものした作家の作品なのだから、それしかなければ、ひとつ残らず訳されていてもおかしくないと思うのだけれど、翻訳はこれがようやく三冊目。長編と短編集(現時点での最新作)が一冊ずつ未訳のままだ。
 しかも過去に翻訳された二作品(『ヒストリー・オブ・ラブ』を含む)はいまや絶版という状況。つまり現時点で書店でふつうに手に入る作品はこれ一冊しかない。海外文学の出版状況はなんて厳しいんだ。
 ということで、あまりに作品も翻訳も少ないもので、これがじつに十五年ぶりの再会となったニコール・クラウスの最新作。これがまた筆圧の高さはそのままながら、なかなか癖のつよい作品に仕上がっている。
 この小説ではふたつの物語がパラレルに進行する。
 ひとつめは行方不明となったエプスティーンという老富豪がなにゆえに行方をくらますことになったかを、彼の失踪直前の行動を描きながら辿るシーケンス――なのだと思う。情けなくも、僕には最後まで読んでもなお、どうして彼がいなくなったのか読み取れなかったので。
 で、ふたつめは作者と同じニコールという名前の女性ユダヤ人作家――語りが一人称だからおそらく作者自身ですよね?――がカフカの未発表原稿をめぐるトラブルに巻き込まれるシーケンス。このふたつが交互に語られてゆく。
 どちらのエピソードも最初の一章は長くて、それだけで全体の三分の一になるボリュームがあるのに、話が進むにつれて各章のページ数が少なくなってゆき、最終章は十ページ足らずという短さになる。でもって内容も、最初は詳細で具体的だったのが、だんだんと意味不明で曖昧になってゆく。それこそカフカの不条理小説のように。
 どちらのエピソードにも共通するモチーフが、テルアビブの海岸に不動のランドマークとして屹立するヒルトン・ホテル(写真付き)。
 富の象徴たるその快適で豪華な巨大ホテルに滞在していたふたりは、それぞれの事情でそこから引っぱり出され、埃っぽいイスラエルの地を彷徨い歩く羽目におちいる。
 不条理な旅路の果てに彼らが見い出したものとはなんなのか――。
 誰か俺に教えてください。
(Aug. 31, 2023)