2018年1月の本

Index

  1. 『暗い抱擁』 アガサ・クリスティー
  2. 『満潮に乗って』 アガサ・クリスティー

暗い抱擁

アガサ・クリスティー/中村妙子・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle

暗い抱擁 (クリスティー文庫)

 クリスティー通算四作目の普通小説。
 邦題が好みでなかったので、あまり期待していなかったのだけれど、これがなかなかよかった。
 この作品、ジャンル的には恋愛小説なのかもしれないけれど、あまり恋愛色は強くない。たんに謎解きがないだけで、この人のミステリのときと同じような読後感がある。
 まぁ、簡単にいってしまえば、ひとりの女性をめぐる三人の男性の恋の物語ということになるんだろう。でもそのうちのひとりである語り手は、身体に障害があるがゆえに、最初から最後まで傍観者の立場にあまんじているし、話の中心人物である新進気鋭の議員候補は、育ちの悪さから貴族であるヒロインへの想いを素直には認めない。でもって、ヒロインのフィアンセは終盤まで登場しない。
 というわけで、本編のほとんどをかけて描かれるのは、舞台となる地方での選挙戦をめぐっての出来事であって、恋愛小説的なあまい事件はほとんど起こらない。そもそも読んでいてもヒロインがヒロインであることさえ定かじゃない。
 中期以降のクリスティのミステリには事件にいたるまでの人間関係をじっくりと描くあまり、ようやく殺人事件が起こるころには半分近くのページ数を費やしているというパターンがけっこうあるけれど、この小説はいわばそういうミステリの恋愛小説版という感じ。終盤になってようやく、恋愛がらみで事件が起こる。でもって、そこから先には急展開が待っている。いったん恋愛関係がはっきりしてからの事態の急変にはサスペンス・スリラー的な趣さえある。
 とはいえ、これはあくまでも普通小説。ミステリとは違って、結末にいたってもすべての謎があきらかにされたりはしない。僕にはなぜ彼女が彼を選んだかがよくわからない。愛の謎は謎のまま、読者の理解にゆだねられている。
(Jan 21, 2018)

満潮に乗って

アガサ・クリスティー/恩地三保子・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle

満潮に乗って (クリスティー文庫)

 もうひとつ、つづけてクリスティーを。これはひさしぶりのポアロもの。
 本当はひとつまえに読んだ『暗い抱擁』よりもこちらのほうが先に刊行されたらしいのだけれど、刊行年が同じだったためにリストを作ったときに順番が前後してしまい、まちがいに気がつかずにそちらを先に読んでしまった。そのまま放置しておくのも気持ち悪いので、こちらもつづけて読むことにしました。
 しかしまぁ、作を追うごとに殺人事件が起こるのが遅くなるクリスティーだけれど、この作品ではその記録を更新していて、半分を読み終えた時点でなお殺人が起こらない。でもって、いざ起こったと思うと、イノック・アーデンという、いかにもな偽名(テニソンの詩からの引用らしいです)を名のる、それはいったい誰? って人が殺される。
 物語は旧家の資産家が戦争の爆撃で死亡して、その財産がすべて結婚したばかりの若い妻のものとなったことから、彼の財産を頼りに暮らしていた親族一同と若き未亡人(とそのうさん臭い兄)のあいだで巻き起こる愛憎劇を描いている。話の流れからしたら殺されてしかるべきなのはその未亡人なのに──ってのもひどい言いようだな──そうはならない展開が意表をついている。
 まぁ、当然それだけで話が済むはずもなく、その後も別の殺人が起こって、最後には大どんでん返しが待っている。なまじ前半がドロドロとした人間関係を描きながら淡々と進むので、クライマックスのたたみかけるような急展開とのギャップがすごい。クリスティーの円熟の技が冴える一品。
(Jan 28, 2018)