2016年9月の本
Index
- 『白昼の悪魔』 アガサ・クリスティー
- 『素晴らしいアメリカ野球』 フィリップ・ロス
- 『ねぼけ人生』 水木しげる
- 『呪われた腕 -ハーディ傑作選-』 トマス・ハーディ
白昼の悪魔
アガサ・クリスティー/鳴海四郎・訳/クリスティー文庫(Kindle版)
『地中海殺人事件』のタイトルで映画化もされたクリスティーの避暑地トラベル・ミステリの秀作。なんと僕はこれ、未読だった。
物語はたまたま旅行中のポアロが、同じホテルの宿泊客が犠牲になった殺人事件の謎を解くというもので、旅先の人間模様が色濃く反映されている点も含めて、『ナイルに死す』などの流れをくむ一編。
犯人の意外性はばっちりだし、容疑者が限られたなかでの事件であるにもかかわらず、終盤になってとつぜんポアロが過去にべつの土地で起こった同様の手口の殺人事件について調べ始めて、「えっ、なにこれ連続殺人?」とびっくりさせるところがいい。さすがクリスティー。
まぁ、アリバイ・トリックが成立する部分における被害者の行動が若干不自然に感じられるものの、その点を除けばとても出来のいい作品だと思う。だてに映画化されちゃいない。
ただし、この小説でやや残念だったのは、翻訳がいくぶん古びている点。
翻訳家の鳴海四郎という方は1917年生まれということで、来年で生誕百年という大ベテラン(すでに他界されている)。ウィキペディアによるとこの作品も1976年の翻訳とのことだから、すでに40年も前のものだ。
だからだと思うんだけれど、上品な女性が十代の女の子に「あんた」と呼びかけたりする。その部分にかぎらず、全体的に会話にべらんめえ口調的な勢いのよさがあって、僕にはそれがいまいち高級避暑地のイメージにそぐわないように思えた。
クリスティー文庫は新訳が売りのひとつだと思っていたので、なぜこの作品がその対象になっていないのか不思議。早川書房編集部の鳴海氏に対する敬意の表れでしょうか。
(Sep 10, 2016)
素晴らしいアメリカ野球
フィリップ・ロス/中野好夫・常盤新平・訳/新潮文庫(村上柴田翻訳堂)
村上柴田翻訳堂の三冊目。
最初の二冊は村上・柴田両氏による新訳ものだったけれど、ここから六冊はほかの人たちが訳した作品で、絶版になっているものからご両人お薦めの作品を復刊させたものとのこと。
で、まず最初に取り上げられたのは、フィリップ・ロスが書いた架空のメジャー・リーグについてのコメディ。
これはとにかくボリュームが過剰。ページ数のみならず、語りの饒舌さがとにかく過剰。冒頭のプロローグがとくにすごくて、まったく話が見えない状態で、意味のわからない無駄話が延々と百ページ近くつづく。なんなんだ、このとっつきにくさは。まるでピンチョン並じゃないか。
僕はフィリップ・ロスって学生時代に『さよならコロンバス』を一冊読んだだけだったので、まさかあんなほろ苦い青春小説でデビューした人が、その後にこんなふざけた大作をものにしようとは思ってもみなかった。
まぁ、本編に入ってからは──話としてはふざけまくりながら──内容の不可解さがなくなるので、ずいぶん読みやすくなるけれど、それにしても話がなげー。いくら笑える話だって、十時間もノンストップで聴かされたらうんざりするでしょう。この小説にはそういうことを意識的にやっている
でもまぁ、好き嫌いはべつとして、非常に個性的な力作であることには異議なし。
(Sep 10, 2016)
ねぼけ人生
水木しげる/筑摩eBOOKS/Kindle
Kindleのバーゲンで手に入れた水木しげる先生の自叙伝。
水木さんといえば、現在の日本社会に妖怪文化を定着せしめた第一人者なので、その人が自らの人生を語った本ともなれば、全編にわたって妖怪にまつわる話がたっぷり……なのだろうと思っていれば、まったくそんなことがないのが、この本のおもしろいところ。
そもそも妖怪という言葉がほとんど出てこない。鬼太郎の誕生秘話みたいなものも、きわめてあっさりと語るばかり。それどころか、戦争で片腕を失った話だって、びっくりするくらいにさらりと流して終わっている。
とにかく、この本には深刻なところとか、偉ぶったところが微塵もない。逆になにかを愛情をもって深く語るような調子もほとんどない。マンガにしたって、ほかにできることがないから描いてきました、みたいな調子だし。
片手であれだけの絵が描ける人が努力してこなかったはずがないのに、自らが必死に努力してきた姿などはいっさい見せない、語らない。全編にわたって、ぶれることのない呑気でおだやかな空気が漂っている。
あぁ、
(Sep 18, 2016)
呪われた腕 -ハーディ傑作選-
トマス・ハーディ/河野一郎・訳/新潮文庫(村上柴田翻訳堂)
村上柴田翻訳堂に収録された十冊のうちで、これがいちばん意外性があったかもしれない。十九世紀のイギリスの文豪、トマス・ハーディの短編集。
村上さんも柴田さんも主に現代アメリカ文学の翻訳を手がけている人たちだから、いまさらハーディのような名声の確率しきったイギリス人作家の作品をこのシリーズで取り上げるとは思わなかった。
でもまぁ、考えてみれば、春樹氏はドストエフスキーとか、カフカとか好きな人だから、そういう意味ではそれらの文豪と同時代の古典文学の担い手のひとりということで、ハーディを好きなことにはなんの意外性もない。なおかつ、いま現在この文庫が絶版になっているとなれば、復刊させたいと思ってもなんらおかしくないのかなと思いました。
僕個人はハーディって学生時代に『テス』を読んでえらく感動していながら、それ以外の作品はひとつも読んだことがないという駄目な読者だった。
ほんと『テス』については、わが読書人生で最高の経験のひとつってくらいに感動したのに──いまでも好きな小説を百冊あげろと言われたら入れると思う──、なにゆえにそれ以外の作品を読んだことがなかったのか、自分でも不思議だったりする。
まぁ、長いことまずは現代文学が第一みたいな読書姿勢がつづいているので、十九世紀の作家ってことで、いつか読めばいいやと思っているうちに五十近くになってしまった……って感じでしょうか。なってねぇ。
なんにしろ、この短編集はとてもおもしろかった。身も蓋もないいいかたをすると、ほとんど全部が不倫や浮気の話だ。いわば叶わない恋の話ばっかり。こういうのが典型的な十九世紀の恋愛小説ってことなのかと思う。
でもこれがどれもこれも読ませる。もう全編珠玉っていっていいくらい。ほんとすごいよかった。こういうのはもっとちゃんと若いころに読んでおこうよって、昔の自分にいいたくなった。あまりによかったので、原書でハーディを読むのを老後の楽しみにしようと思いました。
(Sep 25, 2016)