2012年4月の本
Index
- 『説得』 ジェイン・オースティン
- 『ヴァインランド』 トマス・ピンチョン
- 『旅人 国定龍次』 山田風太郎
- 『犬は勘定に入れません ~あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』 コニー・ウィリス
説得
ジェイン・オースティン/中野康司・訳/ちくま文庫
オースティンの死後に刊行されたという遺作。僕のひとりジェイン・オースティンの読書会もこれでミッション・コンプリート。ちょっと名残り惜しい。
この小説の主人公のアン・エリオットは準男爵家の次女。十代のころに婚約をかわした男性がいたにもかかわらず、相手に財産がないために周囲の反対にあい、なかでも母親代わりと頼りにしていた婦人の「説得」に負けて、婚約破棄したという過去を持つ。で、その恋を引きずったまま、十年近くを独身で過ごしている。
物語は彼女の一家の現状──見栄っ張りの父親の借財がかさみ、かなり困ったことになっている──を紹介したあとで、そんな彼女の前にかつての恋の相手、ウェントワース大佐がふたたび現れるというあたりから本題に入る。
お相手のウェントワース大佐は海軍で出世して、いまやいっぱしの財産家となっている。しかも独身で、そろそろ結婚を考えているという。ただし、彼は若いころの失恋の痛手をいまだに引きずっていて、アンとはまともに話をしようとしない。
もちろん彼女としても、かつて自分から振った相手にいまさら言い寄るわけにはいかない。──ということで、彼女はみずからの恋心を隠したまま、昔の恋人が周囲の若い女性と繰り広げる恋愛模様をじっと見守りつづけることになる。
とはいえ、主人公アンはこの小説の中ではもっともよくできた女性として描かれている。それこそ、まもともな人は彼女だけしかいないってくらいの描かれようなので、最終的にウェントワースが彼女のもとに戻ってくるのは時間の問題。さて、いかなる形でこの恋が成就するのか。──ってのが、読みどころかと思う。
この小説、オースティンの作品にしては、ユーモアは控えめな印象。アンの恋路を邪魔する徹底的に性格の悪いライバルなども出てこないし、俗物の極みなアンの父親や姉は出番が少ない。主人公自身も二十七という分別ざかりな年齢設定のため、エマやキャサリンのような苦笑を誘う言動はまったくない。ほんとによくできたお嬢さん。
ということで、小説としてのボリュームも控えめだし、主人公の性格をそのまま反映した、分別のある、落ち着いた恋愛小説という印象だった。でもこれはこれでおもしろい。ジェイン・オースティンにハズレなし。
これでひと通りの作品を読み終えてしまったので、なんだかもう一度『高慢と偏見』あたりを読み返したくなってしまった。
(Apr 09, 2012)
ヴァインランド
トマス・ピンチョン/佐藤良明・訳/新潮社
トマス・ピンチョン再読シリーズその四、『ヴァインランド』。
この作品については、初めて読んだときに「ピンチョンなのにわかりやすい!」と思ったものだけれど、今回再読してみても、やはりそこは変わらず。これまでに書かれたピンチョンの長編では、もっともストーリーが追いやすい作品だと思う。
内容は、端的にいってしまえば、ダメ親父のもとで育った十四歳のおませな少女が、見ず知らずの実の母親を探しにゆくという話。過剰なまでのディテールの描き込みや、奔放に時間軸を前後する語り口はいかにもピンチョンだけれど、それでも軸となるストーリーがまっすぐ直線的につづいているので、いつものように道に迷うことがない。
六十年代の反政府的なヒッピー・カルチャーが生き生きと描かれていたり、その一方で白人くノ一が跳躍したりと、ポップ・フィーリングにあふれているところもこの小説の魅力のひとつ。エロティックな描写もあまりないし、感動的なヒューマン・ドラマ的側面もあるしで、ピンチョンの作品では、もっともとっつきやすいエンターテイメント性に富んだ一作だと思う。
ただ、惜しむらくは、やはり佐藤氏による翻訳。とくに口語文の部分。地の文章についてはべつに悪くないと思うのだけれど、こと会話に関しては──とくにゾイドとヘクタのふたりのしゃべりかたが──、僕はどうにも好きになれない。「わかっとるじゃろが、アホンダラ」「オマエ、誰と話してきたんよ?」「あんたのワイフよ」(p.42)みたいなくだけた会話の調子が鼻について仕方ない。その辺も以前と変わらなかった。
とはいえ、この作品もこれが三回目の刊行ということで、翻訳には少なからず見直しが入っているみたいだ。
わかりやすいところでいうと、初版では「ホィーラ」「プレーリィ」などと、長母音なしの表記になっていた人物名が、今回の改訳では「ホィーラ―」「プレーリー」と、長母音を使った一般的な表記に変わっている。
ピーター・バラカン氏にいわせると、一般的に長母音で終わる英語の発音は、実際には伸ばさない方が正しいそうなので、以前のほうが英語本来の発音には近かったのだろうけれど、僕自身の感覚からすると、やはりこういうカタカナ表記は長母音で終わった方がしっくりくる。
ということで、部分的にアカデミックなこだわりを引っ込めて、そういう因習的な一般人の感覚に合わせてきている点では、今回の改訳には好感が持てた。解説にあるストーリーラインを年輪風に表現してみせた図もかなりの力作だと思うし、これであとはもう少しエセ関西弁風の会話文が減ってくれていれば……という作品。
(Apr 09, 2012)
旅人 国定龍次
山田風太郎/ちくま文庫(全二巻)
僕はこの小説のタイトルを二重に読み違えていた。「たびびと・くにさだちゅうじ」だと思っていたら、ぜんぜん違った。
「旅人」は「たびにん」と読む。そして主人公の名前は「忠治」じゃなくて「龍次」だった。──ということで、国定忠治の(架空の)息子、龍次が幕末の世に渡世人としての修業の旅に出る、という話が本作。山田風太郎の最晩年の一作とのこと。
風太郎、六十四歳のときの作品ということで、忍法帖シリーズのようなエロはいっさいなし(とはいっても、可憐な美少女はもちろん出てくる)。幕末を舞台にしたところにひねりが効いた、いかにも風太郎先生らしい時代小説に仕上がっている。なんたって任侠小説のくせして、導入部が天狗党の乱なんだから、冒頭から意外性はたっぷりだ。
それにしてもこの小説、前半にコミカルな珍道中をたっぷりと描いておきながら、結末のなんて苦いことか。序盤の能天気さと無常感あふれるラスト・シーンのギャップが強烈だ。
まぁ、正直なところ、僕自身はハッピーエンドで終わってくれなくて残念だったりするんだけれど、それでもこのギャップこそが風太郎だとも思う。娯楽小説を単なる娯楽で終わらせないシビアさが風太郎の世界にはいつもある。
(Apr 09, 2012)
犬は勘定に入れません ~あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
コニー・ウィリス/大森望・訳/早川書房
ジェローム・K・ジェロームの名作滑稽小説、『ボートの三人男 犬は勘定に入れません』からサブタイトルを借用したタイムトラベルSF小説。そのタイトルが気に入って、あと装丁が素敵だったので、刊行当時に買った本(……って、もう八年も前の話だったりする)。
僕がコニー・ウィリスという人の本を読むのは、『ドゥームズデイ・ブック』、『航路』につづいて、これが三作目なのだけれど、しかし不思議とどれもいまいちしっくりとこない。おもしろくないわけではないのだけれど、なんとなく感覚的になじまない。同じSF作家でいえば、ダン・シモンズのように魅了されない。
どこが気に入らないか?
そう、たとえば、この小説の序盤の展開。過去へとたどり着いた主人公のネッドが、ヴィクトリア朝時代の駅で休んでいると、そこに汽車が到着して、老女と美女のふたり連れが降りてくる。で、彼女たちはあてにしていた出迎えが来ていないことを嘆きながら、その場を去ってゆく。
それからしばらくして、ひとりの若者が駅にやってきて、ネッドに「姥桜の二人組がこなかったか?」と尋ねる。
この場合、普通に考えたら、さっきの老人がそのうちのひとりだと思うのが自然な流れでしょう? なのにこの小説の主人公は、さっき見た老人はひとりだったから、この男の尋ね人ではないだろうと考えて、「見ていない」のひとことで済ませてしまう。そんなのないだろー。それはちょっと不自然すぎる。
まぁ、じつはそのずれこそが作者のユーモアで、不自然な展開はわざとなのかもしれないけれど、僕にはそうは思えなかったし、それゆえ笑えなかった。そのことがそのあとから問題になることもあって、下手なご都合主義としか思えない。
そういう首をかしげたくなってしまうような話の持って行き方がところどころにあって、どうにもすんなりと楽しめない。まぁ、つまらなくはなかったけれど、ヒューゴー賞・ローカス賞ダブル受賞ってほどの傑作だとはとても思えなかった。
そういや、日本でいえば、宮部みゆきという人が僕にとってはそんな感じだった。『蒲生邸事件』も僕は似たような感じで、不自然な展開がしっくりこず、まったく楽しめなかったんだった。考えてみると、あれも学生が主人公のタイムトラベルSFだ。
言ってみれば、アメリカSF界の宮部みゆき。僕にとってのコニー・ウィリスはそんな存在だったりする。
(Apr 30, 2012)