2009年10月の本
Index
- 『デスペレーション』 スティーヴン・キング
- 『レギュレイターズ』 リチャード・バックマン
- 『レクイエム』 ジェイムズ・エルロイ
- 『原始の骨』 アーロン・エルキンズ
- 『高慢と偏見』 ジェイン・オースティン
デスペレーション
スティーヴン・キング/山田順子・訳/新潮社
スティーヴン・キングの作品は、どれも長いせいか、はたまた洋書っぽいバタ臭さを出すためか、A5版の、やや大きめの単行本になることが多い(最近はよく知らないので、多かったと過去形にするのが正しいのかもしれない)。なおかつ分冊になってしまうことも珍しくない。というか、分冊になるのがあたり前という印象さえある。
そんな中、この作品に関しては、珍しく四六版の一巻本で(まあ、姉妹編として 『レギュレイターズ』 が同時刊行されはしたけれど)、僕の好きな上下二段組(でもこのごろは老眼気味で小さな活字がきびしくなってきた)、なおかつ、グロテスクな童話風の表紙のイラストが気に入ったので、読んでみようかなという気になった。
とはいえ、定価が三千円とちょっと高価だったので、ふだんは読まないスティーヴン・キングにそんなに出していいものかと、ためらっているうちに文庫版が発売になり。そちらはデザインがぜんぜん違う上に上下巻で、なおかつ、そのころにはすでに単行本がほぼ絶版という状態に。これはいかん、単行本が手に入るうちにさっさと買っておかないとと最寄の大型書店へと足を運び、長いこと放置されていたらしく、やや
調べてみれば、その文庫版が刊行されたのが2000年の年末だ。つまり僕はそれ以来、十年近くこの本を放置していたことになる。おかげで、気がつけばこの作品は、いまや文庫版さえ絶版になっている(新潮社のような大手出版社から出る翻訳本の宿命)。おそらく、いまごろになってこの小説を読んでいるのは、遅れてスティーヴン・キングのファンになって、古本を買いあさっている人か、同じ作品を何度も読み返す、よっぽどのキング・マニアしかいないだろう。少なくても、定価で買った単行本を09年のいまになって読んでいるやつなんて、日本じゅう探しても僕くらいしかいないのではないかと思ったりする。まあ、だからどうしたという話でもないんだけれども。
ということでこれは、満を持して(というほどのこともなく)ようやく読んだ、スティーヴン・キングの十何年前の作品。
内容は無人のハイウェイを走っていた人たちが、図体のバカでかい警官に呼び止められ、いちゃもんをつけられて逮捕され、わけもなく殺されるという理不尽な導入部から始まるサバイバルもの。最初のうちは気が狂ったターミネーター警官による無差別殺人の話かと思っていたけれど──それでも十分恐かった──、しばらくすると神の声を聞く少年が登場して、敵がオカルトな存在であることがあきらかになり、物語はがぜん宗教的な色彩を帯びてくる。でもって、終盤はけっこう感動的になる。
僕はスティーヴン・キングを数えるほどしか読んだことがないので、これがこの人の作品として、どれくらいのグレードの作品なのかはわからないけれど、それでもビジュアル・イメージが豊かで迫力のある、とてもおもしろい小説だった。こういう作品をガンガン書いていれば、そりゃ映画化されることが多いのも当然だと思う。
(Oct 13, 2009)
レギュレイターズ
リチャード・バックマン/山田順子・訳/新潮社
ひとつ前に読んだ 『デスペレーション』 と同時刊行されたスティーヴン・キングの作品。ただしこちらの名義はスティーヴン・キングではなく、リチャード・バックマンとなっていて、名目上はこの覆面作家の遺作という形になっているらしい。
姉妹編ということで両者にはいくつか共通点がある。悲劇の原因となるのが同じ鉱山で、登場人物のおよそ半分と敵の名前もいっしょ。ただし、同じなのは名前ばかりで、キャラクター設定はまったく異なっている。『デスペレーション』 では主役だった少年が、こちらでは似ても似つかない中年のおじさんになっていたりするし、敵の能力もこちらの方がより派手だ。
また、舞台設定も対照的。あちらは砂漠の小さな町が舞台で、被害者となるのはその土地にばらばらに集まってきた旅行者たちだったけれど、こちらで惨劇の舞台となるのは、芝生の緑が目にまぶしい郊外の住宅地で、被害者はそこの住人たち。味つけもあちらが宗教的だとするならば、こちらはアニメ風。
要するに、同じ名前の人たちが未知の力を持った謎の怪物に次々と殺されてゆくというプロットを除けば、両者にはあまり似通ったところがないのだった。姉妹編だと思って読むから共通点が目につくのであって、そうと知らないで別々に読んだらば、両者の共通点にさえ気がつかずに終わりそうな気がする。うちの奥さんのように固有名詞をおぼえない人ならば、まったく無関係の物語だと思ってしまいそうなくらい。
そんな風に両者のつながりが希薄な上に、僕自身は 『デスペレーション』 のほうが断然好きだったので、つづけて読んだわりには感動が倍増するというようなこともなく、いまいち盛りあがりに欠けた。へんに姉妹編とか思わないで読んだほうが楽しめたような気もする。
でもまあ、『デスペレーション』 と並べると、つながってひとつになる単行本の表紙が素敵なので、とりあえず両方とも買っておいてよかったなと。そういう作品。
(Oct 13, 2009)
レクイエム
ジェイムズ・エルロイ/浜野サトル・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
ようやく読みました、ジェイムズ・エルロイのデビュー作。いずれは買わないとと思いながら、ずっと保留にしていたら、いつの間にか絶版状態になってしまっていたので、あわてて池袋の某大型書店へと走り、そこの希少本コーナーにおいてあった最後の一冊をゲットしてきた。なんだか、年じゅうそんなことばかりしている気がする。
『L.A.コンフィデンシャル』 など、独自のスタイルを確立しきったのちのエルロイを知っているがゆえに、このデビュー作が正統派のハードボイルドなのは、けっこう意外だった。主人公がローン滞納による車の回収を副業にしている私立探偵で、クラシック音楽マニアという設定は、ややイレギュラーながら、語り口はこれぞまさしくハードボイルドという感じで、とてもいい。アルコール中毒歴があったり、美女にほだされてしまうところ、深入りする必要のない事件にのめり込んでゆく姿勢なども、まさしく現代のハードボイルド・ヒーローの典型という気がした。
まあ、主人公のフリッツ・ブラウンとヒロインの関係性は、いまひとつ描き込みが足りない気がするし、彼に引きこもりの親友がいるという設定もしかり。そういえば、事件を依頼してくるファット・ドッグというキャラもそう。それぞれに味のあるキャラクターだっただけに、もっと踏み込んで描いて欲しかった。
とはいっても、デビュー作がこの出来ならば、十分すごいという気もする。とりあえず読み損ねなくてよかった。まあ、いまどき手に入れようと思えば、アマゾンでいくらでも古本が手に入るんだけれど。
(Oct 18, 2009)
原始の骨
アーロン・エルキンズ/嵯峨静江・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
なんでミステリってのは、こうもおもしろいんだろう。この頃はややこしい本を好んで読んでいるせいか、たまに本格ミステリを読むといつもそう思う。この作品の出来が特別によいとは思わないんだけれど、それでも読んでいると妙に楽しい。人が死ぬ話で楽しいもないと思うけれど、でも楽しいものは楽しいんだから仕方ない。
いや、もちろん人が死ぬ話そのものが楽しいわけはない(僕はそこまで悪人じゃない)。ミステリを読んで感じるおもしろさや楽しさは、読むという行為そのものによってもたらされるところが大きいんだと思う。さくさくと簡単にリズムよく読めるのがいい。でもって、それまでに読んできた伏線が、終盤の謎解きできっちりと収まるところに収まる、その論理性が気持ちいい。
深い感情や思想を言葉にすれば、自然と文章は読みにくくなる。語り口や描写にこだわっても、気楽にさらっとは読めなくなる。あくまで謎解きを主眼として、そのために必要なもの以外をそぎ落としているからこその読みやすさ。それが多くのミステリに共通する魅力のひとつだと思う。
まあ、そうではないミステリだってたくさんあるんだけれど、少なくてもこのシリーズはそういう読みやすいミステリのひとつ。主人公のギデオン・オリヴァーが考古学関係の大学教授で、発掘された人骨の鑑定のエキスパートだから、どう読むんだかよくわからないような学術的な難しい単語もかなり出てくるけれど、それでもなお読みやすい。難しい話は、僕らのような一般人的なキャラクターの視点を通して、「なにいってんだ、あんた」みたいな調子で、ユーモラスに描かれる。おかげでさかんに語られる
今回の作品は、ジブラルタル海峡で有名なジブラルタル──スペインの南端にあるイギリスの海外領なんだとか──で、数年前に発見されたネアンデルタール人の白骨にまつわるもの。「考古学上の世紀の発見!」だなんて、あまりに大風呂敷を広げているため、序盤で事件の全貌がほぼ想像できてしまったりするし、犯人が誰かなんてどうでもいいような感もあったけれど、それでもやはり楽しく読むことができた。
(Oct 24, 2009)
高慢と偏見
ジェイン・オースティン/中野康司・訳/ちくま文庫(上・下巻)
ひとつ前で「ミステリってなんでおもしろいんだろう」みたいなことを書いたけれど、そういえば十九世紀以前の小説──とくにイギリス文学──を読んだときにも、そう思うことが多い。
たとえば、『嵐が丘』『ジェイン・エア』 『テス』 『虚栄の市』、それに『デイヴィッド・コパフィールド』 や 『大いなる遺産』 などのディケンズの諸作。かつて読んだこれらの小説は、めったに味わえないたぐいの喜びを僕に与えてくれた。「読書の愉悦ここに極まれり」てなことを言いたくなるくらいに、どの作品もおもしろかった。
このジェイン・オースティンの 『高慢と偏見』 も、そんなとびきりおもしろい小説のうちのひとつ。大学で英米文学を専攻しておきながら、四十を過ぎるいまになるまで、こんな名作を読まずにきたなんて、不肖もいいところだった。
しかしこれ、なにがそんなにおもしろいんだろうと考えてみても、正直なところ、よくわからない。みもふたもない言い方をしてしまえば、要するに若い美女が気難しい大富豪の玉の輿に乗るという、ただそれだけの話だ。時代性の違いもあって、登場人物に対してそれほど共感できるでもないし、心をえぐるような悲しみが描かれているでもない。恋愛ドラマとしての深みとかもそれほど感じない。なのにしっかりとおもしろくて、ついつい読むのがやめられなくなるから不思議だ(珍しく文庫上下巻を平日わずか3日で読み切ってしまった)。
あえていうならば、体面ばかり気にする差別主義的な貴族社会において、主人公たちが自らの恋愛感情に素直であろうとするがゆえに、社会のしがらみを乗り越えてゆくリベラルさが、時代を超えて共感を呼ぶのかなと思ってみたりする。あと、この話は出てくるキャラクターがかなり滑稽だ。主人公エリザベスの両親なんて、まんがのキャラクターみたい。その辺のユーモアの効用もかなり大きい気はする。
(Oct 31, 2009)