2008年2月の本

Index

  1. 『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』 カート・ヴォネガット
  2. 『君のためなら千回でも』 カーレド・ホッセイニ
  3. 『プレイバック』 レイモンド・チャンドラー

バゴンボの嗅ぎタバコ入れ

カート・ヴォネガット/浅倉久志・伊藤典夫・訳/ハヤカワ文庫SF

バゴンボの嗅ぎタバコ入れ (ハヤカワ文庫SF)

 エッセイをのぞいたヴォネガットの作品としては、もっとも最後に刊行された短編集。ただ、これは刊行されたのが最後なだけで、収録作品が書かれたのは、すべて 『スローターハウス5』 よりも前とのこと。まだ売れない貧乏作家だったヴォネガットが、生計を立てるためにエスクワイア誌などのために書き、それ以来、日の目を見ることなくずっと埋もれたままだった作品群を、ヴォネガットの友人であり、大学教授であり、評論家であるピーター・リードという人が掘り出してきて、一冊にまとめたものなのだそうだ。いってみれば、長いあいだ行方が知れなかった、『モンキーハウスへようこそ』 の弟分とでもいうべき作品集。
 僕は単行本のときにも一度読んでいるので、これが再読ということになる。ところがこれがまた、まったく記憶にない話ばかりで。ここまで記憶にないと、読むだけ無駄じゃないかという気がしてくるけれど、まあ、その一方で、こうやって読み直してなお、新鮮な気分で楽しめるんだから、かえって得なのかなという気がしなくもない。後者の考え方のほうが前向きで幸せそうなので、ここではそちらを採用して、万事オッケーとしておきたい。
 なんにしろ、初期の作品ということで、のちの作品ほど語りの個性は強くないけれど、それでもすでにこの時点で、独特のシニカルかつユーモラスな世界観の一端は垣間{かいま}見られて、読んでいてとても楽しかった。表題作ほか、楽しいではすまない味わいの作品もけっこうあるけれど──人間の虚栄心の愚かさを鮮やかに浮かび上がらせて、居心地の悪い思いをさせるような話で、どちらかというとそういう作品のほうが出来映えがいい──、それでも愚かなふるまいをみせる登場人物たちに向けたヴォネガットの視線は、終始あたたかだ。ヒューマニストとしてのヴォネガットの立ち居地は、はじめから少しもぶれていない。
(Feb 03, 2008)

君のためなら千回でも

カーレド・ホッセイニ/佐藤耕士・訳/ハヤカワepi文庫(全2巻)

君のためなら千回でも(上巻) (ハヤカワepi文庫) 君のためなら千回でも(下巻) (ハヤカワepi文庫)

 ここのところ、はからずも非英語圏出身のアメリカ人作家の作品を相次いで読んでいる。とくに意識してそうしているわけではなく、たまたまなのだけれど、この作品やジュンパ・ラヒリの作品が映画化されていたりするので、もしかしたらアメリカ文学界(および映画界?)にグローバリゼーションの波が押し寄せていて、アジア系作家のひそかなブームが巻き起こっているのかもしれない。
 なんにしろ、この小説はアフガニスタン出身のアメリカ人医師の手による処女長編。この人は十代のなかばに勃発した祖国の内戦を逃れて、親とともにアメリカに亡命してきたという経歴の持ち主なのだそうで、この小説にはそうした自身の経験が色濃く反映されている。9.11の同時多発テロと、それをきっかけとしたアメリカのアフガン侵攻も、作品が生まれる上で大きな影響を及ぼしているのだろうと思う。
 ただ、そうした新旧のアフガニスタンをめぐるシビアな現実は、この物語の主眼ではない。それらはあくまで背景として描かれるにすぎない(非常に存在感のある背景だけれど)。この作品が描いているのは、親子の絆や無償の愛、勇気と贖罪といった、きわめて普遍的な文学的テーマだ。故国の悲惨な現実を踏まえ、それを下敷きにした上で、あえて普遍的な小説空間を描きあげてみせたところに、この小説の素晴らしさがある。最後の悲劇など、やや物語として作りすぎじゃないかと思わせるところもあるけれど、基本的にはとても見事な小説だと思う。全世界で八百万の大ベストセラーになったというのもうなずける。
 まだ平和だったころのアフガニスタンでは、子供たちの凧揚げ合戦が恒例の一大イベントだったそうで、ガラス粉をまぶした糸をあやつって凧どうしを争わせ、飛んでいる凧が最後のひとつになるまで、一日がかりで競いあうという年中行事が、大人たちも見守るなか、盛大に行われていたのだという。作者のホッセイニは、少年のころに体験したその凧揚げ合戦の風景を生き生きと描写してみせ、平和だったころのアフガニスタンを世界中の人々の脳裏によみがえらせる。そして同じ物語の後半では、そんな平和な風景が失われたあとのアフガンの悲惨さ(タリバンの非道さ)もまた知らしめている。ベースとなるパーソナルな物語のなかに、祖国への複雑な思いを鮮明なイメージともに閉じ込めた、とても見事なデビュー作だと思った。
 それにしても、子供たちがガラス粉つきの凧糸で、手を血だらけだらけにしながら、凧揚げに興じるアフガンの風習というのは、子供のかすり傷ひとつに大騒ぎしそうな、いまの過保護な日本からすると、そうとう異質なものに思える。中東と日本とのあいだには、かなりのカルチャー・ギャップがあるんじゃないかという気がした。
(Feb 03, 2008)

プレイバック

レイモンド・チャンドラー/清水俊二・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

プレイバック (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-3))

 レイモンド・チャンドラーの長編もこれで最後。このあとに一冊、未完に終わって、ロバート・B・パーカーがあとを引き継いだ 『プードル・スプリングス物語』 があるけれど、そちらは翻訳家が菊池光氏だったりすることからみて、おそらくパーカー色が強いんだろう。いずれにせよ、純然たるチャンドラーのオリジナル長編が読めるのはこれが最後ということになる。そう思うと少しばかり名残惜しかったりする。なんだかんだいいつつ、この一年のあいだに、僕はしっかりとチャンドラーに愛着を感じるようになってしまった。継続は力なりというか、われながら単純だというか……。
 なにはともあれこの作品、大作 『ロング・グッドバイ』 のあとを受けてとりを飾るには、かなり肩すかしな感がある。『ロング・グッドバイ』 がライブ本編の最後の曲で、これはそのあとのアンコールだ、みたいな感じの出来になっている。 『プレイバック』 というタイトルからして、いかにもアンコールっぽいし。最後にもう一度、マーロウが顔見せに戻ってきたぜって感じの作品だ。
 とはいえ、じゃあつまらないかというと、そんなことはなくて、じつは僕が中学生のときにチャンドラーを読んで、一番おもしろいと思ったのがこの作品だった。いまからすると、われながらなんでだよって思ってしまうけれど、ハードボイルドのなんたるかも知らず、女の子のことしか頭になかったような当時の僕にとっては、マーロウが事件そっちのけで女性たちと逢瀬を重ねまくるこの小説が、もっとも親近感が湧いたのだと思う(恥ずかしながら)。
 とにかく過去六作ではそれなりにストイックで、女性との関係には非常に慎重だったマーロウが、この作品では会ったばかりの女性たちと、いともたやすくベッドインしてみせる。そんなマーロウの変化から、わずかの間にいかにアメリカの風俗が変わったかが見てとれるのが興味深い。ラストもハッピーエンドだし、なんだかハードボイルドの王様が、みずからが築きあげたフォーマットを使って書いた異色の恋愛小説とでもいった印象の作品だった。
(Feb 23, 2008)