2007年6月の本
Index
- 『ファイナル・カントリー』 ジェイムズ・クラムリー
- 『虚栄』 ロバート・B・パーカー
- 『水底の骨』 アーロン・エルキンズ
- 『世界のすべての七月』 ティム・オブライエン
- 『カーリーの歌』 ダン・シモンズ
- 『さらば愛しき女よ』 レイモンド・チャンドラー
- 『頼むから静かにしてくれ』 レイモンド・カーヴァー
- 『笑う未亡人』 ロバート・B・パーカー
ファイナル・カントリー
ジェイムズ・クラムリー/小鷹信光・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
『酔いどれの誇り』 から26年目、これがいまだ第4作となる、私立探偵ミロ・ミロドラゴヴィッチのシリーズ最新作。
この小説の導入部分のあらすじは、チャンドラーの 『さらば愛しき女よ』 と、まったくといっていいほど一緒だ。主人公の私立探偵ミロは、人探しのために出向いたバーで、刑務所から出てきたばかりの大男イーノス・ウォーカーと出会う。昔の恋人を探しているその男は、昔馴染みのバーの経営者といざこざを起こして相手を殺害、そのまま姿をくらます。事件の参考人として警察に事情聴取を受けたミロは、担当刑事から調査への協力を依頼され、大男のゆくえを探し始めることになる。
以上、ミロをフィリップ・マーロウに、イーノス・ウォーカーを大鹿マロイに置き換えて読むと、そのまま 『さらば愛しき女よ』 のあらすじになってしまう。その後のプロットにも──探していた美女の正体とか、主人公が入院しちゃったりするところとか──、かなり共通点が多いようだし、これはクラムリーが意図的に二十一世紀版の 『さらば愛しき女よ』 を目指した作品なのだろう。
でもってこの小説、そんな試みに恥じない、とても素晴らしい出来の作品に仕上がっている。ディテールは現代風に変容しまくっていて、セックス、ドラッグ、バイオレンスという三拍子が揃っているため、やたらと下世話な印象こそ強いけれど、そんな道具仕立てにもかかわらず、ワイルドかつ哀愁ただようその物語世界には、ハードボイルドとはかくあるべしという風格が感じられる。とても感心したし、非常に楽しませてもらった。
ちなみに舞台となるのは、シュグルーと共演した前作 『明日なき二人』 から5年後のテキサス。ミロはあの作品で出会った獣医のベティと深い仲になって、そのままこの地に住みつき、退屈をまぎらわすために再び探偵を始めたという設定になっている。シュグルーも名前こそ一度も使われないけれど、何度か登場する。
この作品の終盤において、ミロは病院のベッドで還暦を迎えることになる。スペンサーが五十の坂を越えてなお、スーザンと熱々なのもすごいけれど、ここでのミロもあまたの美女と関係を持ち続けている。アメリカ人が老いても性的に衰えないのは、ばくばく肉を食っているからなのか、それとも単に作家たちの願望の反映としてのフィクション特有の現象で、一般の欧米人はやはり年をとれば普通に枯れるものなのか。はたまたそのへんは個人差のあることなので、じつは日本にだって、年をとってなお血気盛んな老人はたくさんいるものなのか──少なくても僕のまわりにはあまりいそうにないけれど──、そのへんのことはよくわからない。なんにしろ、寄る年波にへばり、殴られ蹴れてボロボロになり、なおかつコカインでヘロヘロになりながらも、複数の女性と愛をかわす、ミロのバイタリティは脱帽もの。とても真似できません。
(Jun 08, 2007)
虚栄
ロバート・B・パーカー/奥村章子・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
サニー・ランドル・シリーズの第5作。
前作ではスペンサー・シリーズの重要キャラクター、スーザン・シルヴァマンがサニーのカウンセラー役として登場したことに驚いたものだけれど、今回はなんと、すでに別シリーズ5作の主人公をつとめているジェッシイ・ストーンが登場。しかも、この警察署長が、単なるちょい役などではなく、新しいサニーの恋人として物語のなかで大きな役割を果たすという、ある意味、驚愕の展開となっている。
物語としてはサニーが、女性メジャー・リーガーとしてのデビューをもくろんでいる美人女優の護衛を依頼されたところ、その付き人が殺されてうんぬん、というような展開。その殺人事件が起こるのが、パラダイスのスタイルズ島──ジェシイ・ストーン・シリーズ第2作 『忍び寄る牙』 の舞台となった場所──だったことから、サニーとその街の警察署長ジェシイが出逢うことになる。
この二人は、ともに離婚した後もパートナーのことが忘れられず、短い恋愛を繰り返しながら寂しさを胸に暮らしているという、あわせ鏡のような男女だ。そういう二人が出逢ってしまえば、ベッドインは当然のなりゆき。それどころか、高級ブティックの更衣室でことにおよんでしまったりするという、R指定的な盛りあがり方をしている。それはちょっと悪趣味なんじゃないだろうか。困ったものだ。
なんにしろこのシリーズ、前作といい今作といい、失礼ながらメイン・ストーリーなんてどうでもいいという感じがある。とにかく注目すべきは今後のふたりの動向という、なんだかゴシップ雑誌的な状況になってしまっている。なんだかなあと思う。
(Jun 08, 2007)
水底の骨
アーロン・エルキンズ/嵯峨静江・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
形質人類学者ギデオン・オリヴァーが豊富な人骨に関する知識をもとに、世界各地の難事件を解決するという、いわゆるスケルトン探偵シリーズの第十二作目(処女作が未訳なので、翻訳としては十一作目)。
このシリーズの醍醐味は、ギデオンが遺体の一部、それも骨のみを見て、生前の被害者の特徴をぴたりとあててみせる意外性にある。シャーロック・ホームズは鋭い観察力でもって、初めて会う依頼人の身元を推理してみせるけれど、ギデオン・オリヴァーはあれを、形成人類学の知識をもとに、学術的にやってみせるわけだ──ただし、おひとよしの大学教授である彼は、性格的にはホームズとはまるで似ても似つかない。
この最新作では、友人のFBI捜査官ジョン・ロウに誘われ、ハワイへと遊びにきたギデオンが、十年前に殺人事件に巻き込まれて失踪した牧場主の遺骨が発見されたということで、お約束通り、鑑定を頼まれることになる。
今回は人骨による推理の意外性という点ではいまいち。それでも、ふたつの銃弾によって殺された被害者の死因を特定する部分や、自家用機が墜落した理由を解き明かしてみせるくだりでは、きっちりと本格ミステリの醍醐味が味わえる。どちらも特別にこむずかしい話ではないけれど、しっかりと物理学的な具体性にのっとったトリックであるあたりが、いかにもエルキンズらしくてよかった。
(Jun 08, 2007)
世界のすべての七月
ティム・オブライエン/村上春樹・訳/文藝春秋
これはとてもいい小説だった。ティム・オブライエンについては残念ながら、ジョン・アーヴィングをして「ベトナム戦争を描いた最高傑作」だといわしめた 『カチアートを追跡して』 を未読なのだけれど、そのほかで僕がこれまでに読んだことのある作品のなかでは、文句なくこれが一番好きだ。やっぱり根が平凡なもので、戦争をテーマにしたものよりも、こういう市井の人々ばかりの話のほうが、共感できるというだけの話かもしれない。
この長編のベースラインとなるのは、とある大学の卒業後三十一年目に開かれた同窓会の模様。三十年を記念して開かれるはずが、幹事の不手際で一年遅れになってしまったという、このちょっと間の抜けた設定が、そこはかとないユーモアとペーソスを感じさせていい。
物語は、足かけ二日間かけて行われるその同窓会での人間模様を描きつつ、それぞれの出席者たちの卒業後のエピソードを紹介する短編を織り込みながら展開してゆく。村上春樹氏の解説によると、なんでも、もとはそれぞれ短編として発表されたものを、あとから同窓会のシーケンスを織り込んで、長編の形としてまとめ直したものらしい。
大学を出て三十年。登場人物はみんな、五十代前半という年齢だ。いい年をしたおじさん、おばさんが集まって、若い頃の思い出話にふけったり、かつての恋愛感情を引きずったり。そう聞かされると、あまり魅力的な話には思えないかもしれない。
ところが、短編をひとつずつ読み重ねてゆくうちに、その出席者たちの人となりが少しずつわかってきて、だんだんとその集まりが、いきいきとした魅力的なものに思えてくる。そして次の人の話を読むのが楽しみになる。
戦争で片足を失ったデイヴィッド、戦争忌避者のビリー、親友で離婚者同士のエイミーとジャン、二人の夫を持つスプーク、彼女にアタックするふとっちょマーヴ、失職中の女性牧師ポーレット、乳癌のドロシー、過去の不倫に悩むエリー、今は亡きカレン……。
まるで自分が彼らの同級生として、その同窓会に出席しているような気分になってくる。そしてそんな彼らに自らの学生時代を重ねあわせ、ちょっぴり切なくて、なんとなく優しい気持ちになれる。なんだか読み終えたとたんに、もう一度最初から読み返したくなるような、なんとも素敵な小説だった。
(Jun 16, 2007)
カーリーの歌
ダン・シモンズ/柿沼瑛子・訳/ハヤカワ文庫NV
ダン・シモンズの処女長編であるこの小説は、いきなり語り手がカルカッタを罵倒するプロローグとともに始まる。それも核爆弾を落して滅ぼしてしまえという極論を吐くほどの憎悪をむきだしにして。
いったい、なにが彼にそこまでの憤怒を抱かせたのだろう。そう思いながら読み始めると、本編は、主人公のルーザックが懇意にしている同人誌の編集長を訪ね、八年前に死亡したと言われていたインドの大詩人が近々新作を発表するというので、ある文芸誌の依頼で、それを受け取りにカルカッタへとゆくことになったと語るところから始まる。で、彼のその旅に同行するのが、インド出身の彼の妻と、二人のあいだに生まれたばかりの赤ちゃんとくる。
この冒頭部分を読んだだけで、うわー、駄目だこの話、と思う。だって、もうこの時点で彼女たちが悲惨な目にあうことがあきらかじゃないか。とてもじゃないけれど、続きが楽しみなんて気分にはなれない。
それでもストーリーが問答無用におもしろかったりすればまだ救われるのだけれど、正直なところ、この小説はその点でもいまいち。起承転結がはっきりしていなくて、話にメリハリがない。世界幻想文学大賞を受賞したというわりには、それほど幻想的な話とも思えない。インドの女神の導きで死者が甦るという、もっとも超常的なプロットが、回顧談として語られるだけだからだろう。
クライマックスの悲劇は非常にショッキングで、ある意味じゃ特筆に値すると思うけれど、ただし、これまた幻想性のかけらもなく、非常に即物的。これがなぜ幻想文学というジャンルに入るのか、僕にはよくわからない。もしかしたら、インドの女神が出てくるというだけで、アメリカ人にとっては十分に幻想的なのかもしれない。
『ハイペリオン』など、のちの大作SFでは圧倒的な力量をみせたダン・シモンズだけれど、ということで、残念ながらこのデビュー作は、個人的にはいまいちだと思った。
(Jun 16, 2007)
さらば愛しき女よ
レイモンド・チャンドラー/清水俊二・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
レイモンド・チャンドラーの長編第二作。
この小説を読むのは、たぶん三度目か四度目だと思う。それだというのに困ったもんで、ストーリーについては、まったくといっていいほど、おぼえていない。ただ単に、大鹿マロイという大男が出てくることや、マーロウが野原で殴られて気絶するシーンなど、断片的な記憶があるばかり。
そういう傾向はなにもこの作品に限ったことではなく、ダシール・ハメットやロス・マクドナルド、最近ならばジェイムズ・クラムリーの作品についても似たようなものだ。これは僕個人の問題なのかもしれないけれど、ハードボイルドというジャンルの一番簡単な定義は、ストーリーが記憶に残らないことなのではないかと、みもふたもないことを思ったりする。
今回はそういうことを意識して、それなりにじっくりと読んだので、いまのところはどういう話か、記憶がはっきりしているけれど、この記憶だっていつまで続くか疑わしい。年末くらいになったらもう、あれ、あの話って……とか思っているかもしれない。
でも、それじゃ、そんな小説は読むだけ無駄じゃないのかと言えば、もちろんそんなことはない。ハードボイルドは成り立ちからして、文学性に重きを置いたミステリの一ジャンルだから、ストーリーの良し悪しより、ディテールへのこだわりこそが肝──なのだろう、おそらく。
この作品でいえば、マーロウがピンクの斑点のある黒い虫に執着したり、不良刑事をヘミングウェイ呼ばわりしたりするあたりに漂うユーモアや、彼の言葉の端々から浮かび上がる、社会のはぐれものたちへのシンパシーなどにこそ、人気の秘訣が隠されていると見た。はっきりとは語られない部分をどれだけ読み取るかが、勝負の分かれ目だ、みたいな。
まあ、ただ世の中、さまざまだし、僕がそう思っているだけで、いやそんなことはない、この小説はストーリーだけでも十分におもしろいんだという人だって、いるのかもしれない。なんにしろ、僕はいまだこの作品をしっかりと読み切れていない気がしている。
われいまだハードボイルドのなんたるかを知らず──。いい年をして、まだまだ勉強することは多いなあと思う今日この頃だった。
ちなみに 『大いなる眠り』 を読んだときにおやっと思った一人称の使い分け──地の分が「私」で会話文が「ぼく」というやつ──は、この翻訳でも同じだった。僕が不勉強なだけで、こういうのは最初から、とてもありふれたスタイルだったのかもしれない。
(Jun 24, 2007)
頼むから静かにしてくれ(Ⅰ・Ⅱ)
レイモンド・カーヴァー/村上春樹・訳/中央公論新社・村上春樹翻訳ライブラリー
ネガティヴな話が続いてしまって恐縮だけれど。
レイモンド・カーヴァーも、大学時代に一、二冊読んで以来、この人はおれには関係ないやとか思って、敬遠していた作家だった。その頃はなにがいいんだか、さっぱりわからなかった。村上春樹が全集を訳しているので、その後も気にはなっていたのだけれど、第一印象の悪さから、再び読む機会がないまま、現在にいたっていた。
今回、村上春樹翻訳ライブラリーのなかの一冊──というかこの短編集は分冊になっているので正しくは二冊──として、この人の作品を再び読んでみて、ああ、なるほどと思った。これが二十代の初めの僕にわからなかったのも当然だ。いや、いまだって十分に理解しているというつもりはないけれど、さすがにこの年になると、こういう作品に価値を見出すこともできるというのが、わかるようにはなる。
ここでカーヴァーの描く短編には、高貴なところや、ヒロイックなところはほとんどない。平凡な僕らが、誰もがなんらかの形で経験しているような、恥かしい思い出をさくっとスケッチしてみせたような作品ばかりが並んでいる。ほんと、読んでいて、他人事ながら赤面してしまいそうな、やれやれ、困っちゃうよなあと思ってしまうような、情けない話ばかりが並んでいる。正直なところ、読んでいてあまり楽しいとは思わない。
それでも、そこに心を揺さぶるものがあるのは確かだった。マイナスの感情の方が多かろうと、そこには確実に、そして静かに読者の感情をかき乱すものがある。そして好き嫌いは別として、そうした作品の価値を理解できるだけの積み重ねが、いまとなれば僕にもある。だからなるほど、これはと思った。
ただ、それだから僕はこの本が大好きになりましたとか、そういうハッピーエンドな話には、残念ながら、ならない。これを読んだあとでも、あいかわらず、僕とカーヴァーとのあいだの距離は開いたまんまだ。やはりロックやマンガのヒロイズムを愛する僕みたいな男にとって、カーヴァーの世界が感じさせる微妙な情感は、ちょっとばかり縁遠い。基本的に僕が好きな作家というのは、エンターテイメントと文学のはざまにいるような人ばかりなので、そういう意味ではカーヴァーは、あまりに小市民的かつ純文学的すぎるのだと思う。
(Jun 24, 2007)
笑う未亡人
ロバート・B・パーカー/菊地光・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
この小説はスペンサーが知人の女性弁護士リタ・フィオーレから仕事を依頼されるところから始まる。調べてみたところ、この女性が初登場したのは、スペンサーがスーザンと別れていた十一作の 『告別』 が最初らしい。このシリーズはだいたい年一作ずつ刊行されていて、この 『笑う未亡人』 は二十九作目にあたるので、かれこれ十八年前に初登場した女性ということになる。その後も何回か登場しているようだけれど、僕みたいにいい加減に読んでいる読者が、そんなことは覚えているはずもない。残念ながら。
さて、今回そのリタからスペンサーが依頼されるのは、自宅で夫を殺したという嫌疑を受けている若き未亡人の容疑を晴らす仕事。この女性、メアリ・スミス──あまりに平凡な名前だから、本名かと疑う人がいるところがおかしい──というのが、ほぼすべての登場人物から「馬鹿だ」と形容されるという、ヒロインにあるまじき、哀れを誘うキャラクターとして描かれている。フェミニストのスペンサーさえ例外ではないのだから、彼女がどれくらい頭が悪いのか、推して知るべしという感じ。『笑う未亡人』 という邦題がついているけれど、実際には 『笑われる未亡人』 というほうが正しいんじゃないかという内容になっている。
なんにしろ、そんな女性の容疑を晴らすべく、スペンサーが調査を始めたところ、彼が接触した関係者が次々と殺されてゆく。ついにはスペンサー自身も命を狙われ、ホークやヴィニイ・モリスの護衛を受けつつ、調査を進めることになる。探偵が嗅ぎまわったことで事件が複雑化してゆくというプロットは、ハードボイルドの典型ではあるけれど、この作品は話の組み立てが、やや大雑把な気がする。
ということで、ストーリー的にはまあまあ。印象的なのは、最後まで馬鹿にされっぱなしのヒロインと、いつのまにかずいぶんと年をとってしまい、耳が遠くなっている名犬パールという、なんとなく哀れを誘う一作だった。
それはそうと、長年このシリーズの翻訳は、菊地光氏がひとりで手がけていたのに、最新作の 『スクール・デイズ』 はほかの人が訳している。おやっと思って調べてみたところ、どうやら菊地氏は昨年のうちに他界されたらしい。なので、菊地訳のスペンサー・シリーズを読むのも、あと三作だけということになる。個人的には菊地さんの訳には不満が多くて、年中文句ばかり言っていたのだけれど、これからはもう文句も言えないのかと思うと、それはそれでお名残惜しい気がする。ふつつかながら、ご冥福をお祈りします。
(Jun 24, 2007)