2007年5月の本
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オリュンポス
ダン・シモンズ/酒井昭伸・訳/早川書房(全2巻)
ギリシャ・ローマ神話とホメロスほかの叙事詩、はたまたそれらに材をとった各種の文学作品やシェイクスピアの戯曲を下敷きにして繰りひろげられる、破天荒な超絶SFノベル二部作の完結編。
『ハイペリオン』 二部作と『エンディミオン』ニ部作──あわせて『ハイペリオン』四部作──は、どちらも完結編のほうが一作目よりも長かったけれど、その傾向はこの作品でも同じ。いやそれどころか、前編『イリアム』が以前の二部作よりも長かった分、完結編はさらに長大になり、ついに上下巻となってしまった。上下ニ段組の単行本で一千ページを超えている。おそらく文庫本になるときには最低でも三分冊になるんだろう。僕はあまり分冊は好きではないのけれど、これだけボリュームがあると、まあそれも致し方ないかなと思う。とにかくページ数だけでなく、物語の豊穣さも相当なものなのだから。
この続編も前作同様、三つのパートで構成されている。
一つめは、とんでもないほうに脱線してしまったトロイア戦争のその後を描くライン。
訳者あとがきで紹介されているダン・シモンズ自身の言葉によると、「『イリアム』 と『オリュンポス』 が『イリアス』と『オデュッセイア』を下敷きにしたと噂されているようだが、それは違う。『イリアム』と『オリュンポス』はどちらも『イリアス』の主題に基づいている」のだそうだ。つまりホメロスの『イリアス』を下敷きにしているにもかかわらず、前作『イリアム』でトロイアが陥落することなく終わってしまったのは当然で、完結編であるこの『オリュンポス』におけるクライマックスこそが、トロイアの陥落という事件だということになる。
ただし、原典でトロイア攻略のきっかけとなる木馬を考えつくオデュッセウスも、ヘクトルを討ち果たすアキレウスも、本作品では早々にアカイア軍から離脱してしまう。この状態でいったいどのようにトロイアを陥落させるのか。
ダン・シモンズはその答えとして、まるで落語のような「墜ち」を用意してみせた。いかにしてトロイアが陥落するのか、それは読んでのお楽しみ。
ちなみにこの続編では、前作ほどトロイア戦争自体にはページを割いていない。戦争の顛末はどちらかというとサイドストーリーといった感じで、ギリシャ神話パートのメインとなるのは、わけあって戦線離脱したアキレウスの冒険を描くシーケンスとなっている。
二つめの大きな流れは、地球における古典的人類の受難の日々を描くもの。
前回の最後でポスト・ヒューマンが築きあげたシステムが崩壊したことにより、古典的人類はそれまでの安寧の日々を失い、過酷なサバイバルを強いられている。つい先日までは従順な召使いだったヴォイニックス──巨大なゴキブリ風の生体ロボット?──が、突然凶暴なハンターに変貌して、人々に襲いかかり、謎の怪物セテボス──千の触手をもつ巨大脳味噌形モンスター。シェイクスピアの『テンペスト』からの借り物をグロテスクに変容させたものらしい──が降臨して、地上の恐怖を食いあさる。このまま放っておけば、人類の滅亡は必至という状況。
そんな状況下において、プロスペローとエアリエル──これも原典は『テンペスト』で、ここでは進化して自意識を持った地球
また、この古典人類のラインにおいては、ハーマンの冒険を描くのと平行して、あとに残った彼の妻、アーダを中心としたアーディス・ホールのコミュニティが、膨大な数のヴォイニックスの襲撃を受けて全滅に追い込まれてゆく過程が描かれる。このパートは非常に映画的で、とてもスリリングだ。悲愴感いっぱいで目が離せない。
前作ではハーマンと並んでこのパートの中心人物のひとりだったディーマンは、せっかく小太り青年から、スリムで頼れるリーダー的存在へと変貌を遂げたにもかかわらず、今回は出番が少なく、やけに地味な役回りになってしまっている。
最後となる三つめのラインは、モラヴェックたちのその後を描くもの。前作で火星にたどり着き、それ以来トロイア戦争に荷担していたモラヴェックたちは、今回は量子関係のトラブルの原因究明のために、火星から地球へと向かうことになる。
マーンムートとエルフの弥次喜多珍道中みたいだった前作とくらべると、新たに合流した仲間が増えた上に、大半のシーンが地球へ向かう宇宙船の中ばかりということもあって、このパートはやや地味な印象がある。それでも他のふたつのラインが殺伐としている分、善良なモラヴェックの存在は、なごみキャラとして非常に重要だ。特にマーンムートたちが、見ず知らずの古典的人類の危機を知って、救出に駆けつけようと言い出すくだりには、ぐっとくるものがある。どうでもいいような話ながら、新キャラのなかでは、懐古的シノペッセンという名前が好きだった(意味不明だけれど)。
以上三つ(細かく分ければ五つ?)のシーケンスがスパイラルに語られてゆくのは前作と同じ。ただし、今回は完結編ということで、前作とは違って、一応のまとまりのある終わり方をみせている。あちこちに破綻があるという声もあるようだけれど、僕は、ひとりの作家が想像力だけを頼りに、これだけの世界を独力で築きあげているという事実を前にすると、ちょっとやそっとの破綻はどうでもいいような気分になる。単純にすごいなあと感心してしまう。
文学的な遊び心にあふれている一方で、やたらとエログロな描写が多いのも、この小説の特徴のひとつだ。アキレウスが神様のはらわたを引きずり出す場面など、神々をめぐるバトル・シーンはかなりスプラッターだし、眠れる森の美女的なエピソードでは、美女の目をさますのに必要なのが王子さまのキスではなくXXXだったりする。意表をついたオデュッセウスの最後の登場シーンなどにも、PTAに
とにかく古典文学の豊富な知識をベースに、破天荒な未来世界を現出せしめ、なおかつハリウッド映画なみのスリルとサスペンスや、下世話なエログロシーンを盛りこんで飾り立てた、珍妙なる一大SF絵巻だった。小説としては『ハイペリオン』シリーズのほうが好きだけれど、これはこれで規格外。ほんと、こんなものすごい小説を何本も書ける人がいるなんて、世のなか広いなあと思う。
(May 13, 2007)
同日同刻 ~太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日
山田風太郎/ちくま文庫
山田風太郎が、太平洋戦争に関する膨大な文献のうちから、真珠湾攻撃の行われた開戦当日と、日本が敗戦を迎える最後の十五日の分だけを抜き出して、その時代の空気を再現してみせたノンフィクションの秀作。
これが単にあちらこちらから集めてきた資料のつぎはぎで成り立っているとは思えない、なかなか読みごたえのある作品に仕上がっている。
開戦初日の分に関しては、一時間おきに章を分けて記述してあるため、まるでテレビドラマ『24』のような臨場感があるし、一日おきに章分けされた最後の十五日の分にしても、その間に広島と長崎への原爆投下という空前絶後の大事件があるのだから、(不謹慎ながら)下手なポリティカル・スリラーよりもよほどスリリングだ。事実は小説より奇なりとはよく言うけれど、確かにこういうものを読まされると、ときには現実がフィクションを凌駕することもあるんだなと思う。
僕がこの本を読んで意外に思ったのが、当時の文学者たちの戦争に対する反応。風太郎先生が紹介している作家の多くは、戦争の始まりを大いなる感動とともに受け入れ、敗戦をこの上ない屈辱と考えて
でも、考えてみれば、ベトナム戦争以前には反戦文学なんてものはなかったのだろうし、ヘミングウェイやフィッツジェラルドも戦争へ行くことをポジティブに受け入れている。それらのことを思えば、当時の日本の作家たちが愛国心を抱き、戦争を肯定していてもなんの不思議もないのだろう。
僕は以前、江戸川乱歩がその頃に書いたエッセイを読んで、乱歩先生がまったく戦争に異議を唱えていないことに、氏の文学者としての志の低さを見たように思ってしまったものだけれど、あれは失礼千万な考え違いだったわけだ。文学者イコール反戦主義者と思い込む僕がどうかしていたらしい。まだまだ人間として修行がたりない。
なんにしろこの本は、戦争を知らない子供たちのひとりである僕に、あの戦争の一面を非常にヴィヴィッドに追体験させてくれた。当時を知る人にとっても十分に興味深い内容だと思うけれど、できれば僕と同じように、戦争を知らない人にこそ、読んで欲しい。歴史の教科書からは見えてこないような歴史の一風景がここにはある。
ちなみに。太平洋戦争が終結する前の晩、谷崎潤一郎は疎開先で永井荷風とともに、スキ焼きをつつきつつ、一杯やっていたらしい。僕は終戦まぎわには誰もが食うに困っていたものだと思っていたので、なかにはそんな豪華なことをしていた人たちもいたと知って、これまたちょいとばかり驚いた。
(May 20, 2007)
前巷説百物語
京極夏彦/講談社
直木賞を取りはしたけれど、個人的には前作の 『後巷説百物語』 はいまいちだった。
明治時代に時を移した趣向にはそれなりの味があったものの、その結果として又市らがいかにも過去の人という感じになってしまい、物語が活力を失ってしまったような気がしたからだ。決め台詞の
ところがこのたび、三部作で完結したと思っていたその巷説シリーズに、なんと続編が登場した。しかも今回は又市の若い頃の話で、百介や治平らが登場しないという新趣向。ハリウッドでは『バットマン・ビギンズ』や『ハンニバル・ライジング』など、過去にさかのぼってヒーローが誕生するまでを描く映画がやたらと流行っているけれど、これもずばりそれらと同じ趣向の作品となっている。
上方でなにやらトラブルを起こしたらしい若き日の又市が、林蔵という仲間とともに江戸に流れ着いて、
いや、これがいい。青臭いとまわりから
たしか朝日新聞のインタビューだったと思うけれど、「勧善懲悪だといって悪人を斬り殺してめでたしめでたし、みたいな昔ながらの時代劇は、(テロなどで人命の大切さが問われることの多い)今の時代だからこそ、あえてやめようと思った」というようなことを京極氏は語っていた。すごく正しいと思う。
まあ、そう言いながらも、じゃあこの本のなかでは死者が出ないかといえば、そんなことはなくて、それどころか反対に、やたらと簡単に人々は死んでゆく。
ゆくのだけれど、それでも、これまでのこの人のあらゆる作品と同じように、今回の作品にも「死」というものに対するやりきれない思いは、要所要所できちんと滲み出している。そこがやはり、娯楽として死をもてあそびながら、そのことの罪深さに気づかないでいるような凡百の小説家とはあきらかに違う。僕がこの人の小説が好きな理由のひとつはそこにある。
とかなんとか堅苦しいことを言わなくても、この小説は単純にエンターテイメントとして、とてもおもしろい。一話目の『
それと今回は終盤になってからのサスペンス・スリラー色の強い展開がすごい。稲荷坂の祗右衛門なる謎の存在と、命がけの駆け引きを繰りひろげるくだりには、手に汗握る迫力があった。
まあ、今回の作品で残念なことがあるとすれば、それは前作から3年半、その前の作品からは6年の月日が過ぎてしまっているために、シリーズをまたいでの伏線が上手く読み取れなかったこと。おかげで前の三作を読み直したくなってしまって困っている。
『嗤う伊右衛門』 や 『覗き小平次』 を含め、シリーズ6作をじっくりと読み返すことができるだけの時間が欲しいと思う今日この頃だった。
(May 29, 2007)