2017年5月の本

Index

  1. 『みみずくは黄昏に飛びたつ』 川上未映子・村上春樹
  2. 『死が最後にやってくる』 アガサ・クリスティー
  3. 『乳と卵』 川上未映子

みみずくは黄昏に飛びたつ 川上未映子訊く・村上春樹語る

川上未映子・村上春樹/新潮社

みみずくは黄昏に飛びたつ

 作家・川上未映子による作家・村上春樹に対するインタビュー集。
 春樹氏のエッセイ集『職業としての小説家』のあとに行われた一本と、『騎士団長殺し』の刊行にあわせて行われた三本、計四本のロング・インタビューが収録されている。
 後輩の女性が尊敬する先輩にあれこれと質問を浴びせてゆく。相手が年下の女性(しかも同業者)ってことで、いつになく春樹氏がリラックスしている感じが伝わってくる。訊く側は意欲たっぷりだし、話す側もそれを受けてとても楽しそうにしている。両者のあいだにある信頼関係が伝わってくるのが心地いい。他ではなかなか得がたい感触のある、とてもいいインタビュー集だと思う。
 なかでいちばんおもしろかったのは、『騎士団長殺し』のサブタイトルである「イデア」と「メタファー」について、川上さんがプラトンを勉強してインタビューにのぞんでいるのに対して、春樹氏がそんなの知らないよ~、みたいな調子であっさりと流してしまうところ。そうなんだ、春樹氏も自分が作品のなかで使ったイデアがなにを意味するのかわかっていないんだ。で、それでいいんだ。
 自らの無知に対する対する春樹氏のあっけらかんと態度に感心してしまった。
 僕は十代のころに『羊をめぐる冒険』を読んで、ねずみがクライマックスで自らの弱さを肯定するシーンに人生最大級の衝撃を受けた人間なのだけれど、プラトンのイデア論を知らないと笑って済ます春樹氏の姿勢には、あのシーンと地続きのものを感じた。
 村上春樹という人の書くものは一作ごとに変化してきているけれど、作家その人のコアとなる部分はあくまでも変わっていないんだろうなぁと思いました。
(May 14, 2017)

死が最後にやってくる

アガサ・クリスティー/加島祥造・訳/クリスティー文庫/早川書房/Kindle

死が最後にやってくる (クリスティー文庫)

 クリスティーが古代エジプトを舞台に描く異色の歴史ミステリ。
 いや、歴史ミステリというと史実を扱ったような印象になるので正しくないかもしれない。作者自身がまえがきに書いているように、この小説は単に古代エジプトが舞台ってだけで、あとはいつものクリスティー作品ととくに変わらないから。
 描かれるのは墓所守という聖職(で正しいんだろうか?)にある富裕な一族のなかで繰り広げられる愛憎劇。一家の長である老いた父親が若い妾をつれてきたことから、三人息子と出戻りの娘の四人兄弟とその家族のあいだに不穏な空気が漂い始め、やがて殺人が起こって……というような話。
 いまだ事件が起こらない序盤こそゆっくりとして退屈な感じなのだけれど、いざひとりめの犠牲者が出たあとは雪崩打つように死者が増えてゆく。でも誰がなんのために人を殺しているか、さっぱりわからない。
 古代エジプトゆえに死者はミイラとして葬られ、その不条理な死の連鎖は人々に「呪い」として受け取られる。その部分の不気味さがこの小説の読みどころだと思う。
 あと、紀元前の話だからポアロもミス・マープルも出てこないのは当然として、では誰が探偵役を務めることになるのか、というのがいまいちよくわからない点もこの作品のポイント。それらしきキャラはいるけれど、探偵役かと思っていた人がじつは犯人だとかいう可能性も……という疑いが最後まで解けない。おかげで僕は最後まで誰が犯人がわからなかった(疑ってはみたけれど、真相にたどり着けなかった)。このところはクリスティーの作法に慣れてしまって、たいてい途中で犯人がわかってしまうのに、この作品ではみごとに騙されました。
 それにしても、この小説はキャラクターの名前がやたらと読みづらかった。インホテプ、レニセンブ、ノフレトあたりの名前は最後まで自然に読めるようにならなかった。
 犯人はわからないわ、名前は覚えられないわ。古代エジプトは思いのほか手ごわかった。
(May 14, 2017)

乳と卵

川上未映子/文藝春秋/Kindle

乳と卵

 『みみずくは黄昏に飛びたつ』のなかで、自分にとっていちばん重要なのは文体だと語った村上春樹をもってして、「文体がすべての小説」といわしめた川上未映子の長編第二作、『{ちち}{らん}』。それっていったいどんななんだと興味が湧いたので、つづけて読んでみました。きっとそういう人が日本中にわんさといるんだろう。
 読んでみて、なるほどと思った。文体しかないというのはこういうことだったかと。
 とにかく、この小説の個性を決定的なものにしているのがその文体だということにはまったく異存なし。関西出身の女性による、関西弁まじりの口語体。それが段落の途切れ目の少ない「である」と「ですます」のごちゃ混ぜになった文章で延々とつづく。
 美文と呼ぶにはほど遠いけれど、それでいて決して読みにくくはない。誰の真似をするでもなく、自分のなかから自然に出てきた(ように思える)言葉をそのままさらけだしたかのような、技巧的なあざとさを感じさせないその文章の奔放さに僕は感心した。少なくてもカッコつけな僕などには絶対にこんな文章は書けない──というか、こういう文体で小説を書こうとか、小説が書けるなんて発想自体が微塵も出てこない。
 さらにこの小説の場合、そんな地の文のあいまに、語り手の妹の娘で、口をきくのをやめて筆談だけで暮らしている女の子が書いた手記がインサートされる。それが不勉強な中学生くらいの少女の文章ということで、非常にたどたどしい。
 ただでさえ飾らない文章のなかに、それよりさらにつたない──でも思春期前の悩み多き少女の内面をダイレクトに表現した──文章が組み込まれているという。この飾らなさの相乗効果がこの小説の最大の個性であり、いちばんの読みどころだと思う。
 物語的にはあってなきがようなもので、東京で暮らす語り手のもとに、姉とその娘が上京してきて、二泊して帰ってゆく。ただそれだけ。タイトルにある「卵」に関して、クライマックスと呼ぶべき悲喜劇的アクシデントこそ起こるけれど、それにしたってささやかなものだ。語り手の職業も、妹の巻子が豊胸手術にこだわる理由も、その娘の緑子が口をきかない真意も、最後まで語られない。ま、そういうこともあるねんって感じでさらりと流されておしまい。
 とにかく登場人物はわずか三人で、しかも全員女性。その三人がともに過ごした三日間を、語り手と少女の手記による心の声だけで描かれるという。この小説のその世界観は僕にはまったく馴染みのない感覚で成り立っている。
 川上女史は先のインタビュー集で自分が女性であることのハンディのようなものについて語っていたけれど、僕にはこの小説は女性の生理にもとづいた、女性でないと書けない作品だと思う。そういう見方をされるのは作者には不本意なのかもしれないけれど、でももし日本に紫式部から連綿とつらなる女流文学の流れがあるとしたら、この作品はそのなかにおいて評価されるべき作品なのではないかという気がする。
(May 27, 2017)