2016年7月の本

Index

  1. 『ウィズ・ザ・ビートルズ』 松村雄策
  2. 『極北』 マーセル・セロー
  3. 『結婚式のメンバー』 カーソン・マッカラーズ
  4. 『デッドアイ・ディック』 カート・ヴォネガット

ウィズ・ザ・ビートルズ

松村雄策/小学館/Kindle版

ウィズ・ザ・ビートルズ

 『ロッキング・オン』創刊メンバーで、大のビートルズ・ファンである松村雄策氏がビートルズの全アルバムを発売当時の思い出とともに語ってゆくエッセイ集。
 僕が初めて『ロッキング・オン』を読んだのは、かれこれ三十年ほど昔のことで、そのころもっとも好きだったライターのひとりが松村さんだった。渋谷陽一氏をはじめとするほかのライターが抽象的で難しい文章を書いているなかにあって、松村さんはひとりカジュアルな言葉でもって、等身大の音楽ファンとして気取りのない文章を書いていて、とても親しみが持てた。
 そんな松村さんが大好きなビートルズのデビュー五十周年を記念して書いたのがこの本。さぞや力のこもった内容になっているのだろう……と思ったら、そんなことがない。その語りはいたってあっさりとしている。そのへんがこの人らしい。
 読んでいておもしろかったのが、「LP『ヘルプ!』はイギリスでは八月六日に発売されて、初登場の八月十四日から九週間第一位になっている」みたいなヒットチャートの順位に対する言及がすべての作品に対して徹底していること。僕自身はあまりチャートの順位を気にするタイプではないので(極端な話どうでもいいと思っている)、そういう情報をこまめに書いている松村氏の姿勢がちょっと意外だった。松村さんたちの世代にとっては、好きなバンドのヒットチャートの順位に一喜一憂するのが、音楽を楽しむ上でなくてはならない楽しみのひとつだったのかもしれない。
 まぁ、そんな風にチャートの順位を細かく記しているわりには、作品ひとつひとつに関してのデータや記述はそれほど細かくなく、ざっくりした内容に終わっているので、ビートルズについて詳しく知りたいという人にはあまり向かないと思う。あと、ビートルズとは関係のない松村氏の個人的な思い出話もけっこう盛り込まれているので(僕の娘が通っている高校のとなりの高校に通っていたらしい)、松村雄策って誰?と思ってしまうようなビートルズ・ファンにとっても、なにこれ?って感じの本のような気がする。
 ということで、ビートルズというよりは、松村さんに対する興味が優先する読者向けといった印象。
 『ウィズ・ザ・ビートルズ』というタイトルのとおり、松村雄策という人が“ビートルズとともに”どう生きてきたかを語った一冊。日本という世界の果てで、ビートルズをリアルタイムで聴いていた一ファンによる六十年代の回顧録。
(Jul 03, 2016)

極北

マーセル・セロー/村上春樹・訳/中央公論新社

極北

 『モスキート・コースト』の原作者で、村上春樹氏とも交流のあるポール・セロー氏の二男、マーセル・セローによる重厚なるディストピア小説。
 お父さんに紹介されたので読んでみたらおもしろかったからと春樹氏が翻訳することにしたのだそうだけれど、これがなかなかとっつきづらい小説だった。
 なによりまず、舞台が殺伐としている。
 この小説の舞台となるのは、現代文明が崩壊したあとの近未来の北極圏(アラスカあたり?)。なぜ世界が滅びたかについての明確な言及がないところが、コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』を思い出させる。SFではないので、どうして世界が滅びたかはどうでもいい。大事なのはそこで生きる人の姿を描き出すことだと──そうした姿勢は共通している。
 ただ、マッカーシーの作品が過酷な環境下に生きる親子の絆をよりどころにしていたのに対して、こちらにはそうやって支えあう柱がない。序盤で芽生えた出会いの喜びは早々に刈り取られてしまうし、悲惨な過去をかかえた主人公には、無条件に心を開ける相手がいない。その分、圧倒的に孤独感が強い。
 あと、これは春樹氏も訳者あとがきで書いていることだけれど、この小説は見事なまでに先が読めない。極寒地でひとり生きる主人公を描く序盤にこそ静謐な印象があるけれど、いったん彼女が旅に出た先には、『マッドマックス』っぽい世紀末的な喧噪が待っていたりする。そもそも先に書いた序盤のささやかな出会いと別れのドラマからして、すごくイレギュラーだ。え、そこからは先は語らないで終わらしちゃうんだ?って。僕は最初の五十ページを読んで、けっこう唖然とした。
 その部分はこの小説でもっとも心温まるエピソードなので、ふつうの小説家ならばそこをじっくりと掘り下げて描くと思うのだけれど、マーセル・セローはこの物語にはぬくもりなど必要ないといわんばかりに、そこをごっそりはしょって、主人公をシビアな現実と向かいあわせる。そこにはまさに『極北』というタイトルにふさわしい、寒々とした風景が広がっている。
 なんにしろ、先の読めなさはこの小説の重要なポイント。僕は不本意にもつい「彼女」という言葉を使ってしまったけれど、できれば主人公の性別も知らないで読んだほうがいいと思う(僕は最初のうちは男性だと思って読んでいた)。この小説の先の読めなさには、まさに「一寸先は闇」という言葉がふさわしい。
 まぁ、とはいえ舞台が殺伐としている上に先が読めなさすぎて、長編小説ならではのドライブ感──そこまで読んだ勢いで否応なく物語の世界に引きずり込まれるような没入感──は足りない気がする。そこははやや残念かなと。
 すべての登場人物が世界に突き放されているような──ここでは誰ひとりとして特別ではいられないような──そんな無情感の漂う世界をタフに描いたあげく、最後の最後になってようやくわずかばかりの希望の灯をともして終わる。そんな小説だった。
(Jul 10, 2016)

結婚式のメンバー

カーソン・マッカラーズ/村上春樹・訳/新潮文庫(村上柴田翻訳堂)

結婚式のメンバー (新潮文庫)

 村上春樹・柴田元幸という英米文学翻訳界の大物ふたりがタッグを組んで、絶版になっている翻訳作品から、自分たちがもう一度読みたいと思った作品を新訳・復刊で紹介するという新企画『村上柴田翻訳堂』。
 三月末に新潮文庫で刊行が始まって、気がつけばもう六点が出ている(全十冊の予定)。放っておくとたまる一方で、いつまでも読まずに終わりそうだから、ここらで既刊を一気に読んでしまうことにした。
 ということで、記念すべき第一作目は春樹氏が新訳を手がけたアメリカ南部の女流作家、カーソン・マッカラーズの長編小説。
 アメリカ南部の女性作家の作品といえば、まずはハーパー・リーの『アラバマ物語』を思い出すことになるのだけれど、この作品は南部の田舎町が舞台というだけではなく、主人公が十二歳の女の子で、ちょっと年が下の従妹としじゅう行動をともにしているという設定が、まんまあの作品と重なる。
 調べたらハーパー・リーはカーソン・マッカラーズより十歳ほど年下で、『アラバマ物語』はこの作品よりも十五年あとに発表されているので、もしかしたら『アラバマ物語』はこの作品の影響を受けているのかもしれない。少なくてもリーさんが同じ南部生まれの先輩作家を意識していることは十分に考えられる。
 とはいえ、舞台設定に通じるものがあるだけで、両者の作風はまったく異なる。
 『アラバマ物語』は主人公こそ少女だけれど、メインとなるのは子供の目を通して描かれる大人の世界での出来事だった。黒人差別問題を軸にした社会派のドラマ。それゆえに映画化され、ピューリッツァー賞にも輝いた。
 対するこちらは、人よりのっぽで孤独な魂をもった十二歳の少女の内面を、実体験にもとづいてきめ細やかに描いている。日々の平凡な生活に飽きたらず、未知の世界を夢見ながらも、現実的なヴィジョンもない幼い夢想家が巻き起こすひと夏のささやかな騒動を、自ら経験した人だからこそ描ける説得力を込めて描いてみせる。
 いまだ自分の気持ちをきちんと言葉にできないひとりの少女がちょっぴり背伸びをして大人の世界を垣間見るこの作品の世界観には、『ライ麦畑でつかまえて』の十二歳南部少女版とでもいった感触がある。また、ハーパー・リーの幼馴染であるカポーティの作品を思い出させるものもある。なるほど、春樹氏が好きなのもなんとなくわかる気がする。
 とはいえ、十二才の少女のうっぷんたっぷりな作品だけあって、さすがにもう五十も近い男性読者の僕としては、いまいち共感しにくいものがあった。こういう作品は主人公と同じように、ここではないどこかに恋い焦がれる十代か、せめて二十代に読んでおくべきだったなぁと思う。
(Jul 23, 2016)

デッドアイ・ディック

カート・ヴォネガット/浅倉久志・訳/早川書房/Kindle

デッドアイ・ディック

 前にもちょこっと書いたけれど、これは僕が文庫本ではなく、単行本で買った初めてのヴォネガット作品。
 でも、そのわりにはいまいち愛着が薄いのは、おそらく主人公の人生の悲惨さゆえ。
 この本の主人公ルディ・ウォールツは、十二歳のときに過失で悲劇的な事故を起こして、その後の人生を棒に振ることになる、おそらくヴォネガット作品史上、もっとも哀れで覇気のないキャラクターだ。生涯にひとりの友人も恋人もできず、ただ両親の世話だけをして生きてきた。晩年はいくらか巻き返したみたいだけれど、それでも結局、ひとりの女性を知ることもなく老後を迎えている。
 ヴォネガットの語りはいつもどおりの見事さながら、そんなルディくんとその家族があまりに救われないので、読んでいてどうにも気分が晴れない。もともと問題のある一家が──ルディのお父さんは資産家のドラ息子で、画家時代のヒットラーと懇意にしていた三流画家という設定だ──、彼の起こした事件のためにどん底まで落ちぶれてしまう。
 その語りはじつにヴォネガットらしく、ブラック・ユーモア満載なのだけれど、いくらユーモアを込めて描いたところで、その対象の一家があまりに笑えないので、笑いよりも苦さのほうが勝ってしまっている感が否めない。
 あと、この小説はいつにも増して、よくわからないことが多い。
 物語の現時点でルディは兄とともにハイチでホテルを経営していることになっているけれど、どのようにしてハイチにたどり着いたのかは語られない。
 また、ルディの故郷である町の市民が中性子爆弾で全滅したというSF的エピソードも盛り込まれているのだけれど、その悲劇の犯人も原因もわからないままだ。
 もうひとつ、ルディはところどころで「去勢された薬剤師」と表現されるのだけれど、それが身体的に本当に去勢されているのか、精神的な意味で使われているのかが、僕にはわからなかった。
 まぁ、もしかしたらどれもこれも、ちゃんと読めばどこかに書いてあったのかもしれないけれど、いずれにせよ僕には読み取れなかった。書かれているにしても、それくらいの書き方になっているわけだ。そんな風に(一部の読者には?)わからないことがわからないまま放置されてしまう点も、この小説が読後感がすっきりしない要因のひとつになっているように思う。
 いや、とはいえ、印象的なエピソードはたくさんあるし、ルディが料理上手という設定のため、料理本のようにさまざまなレシピが載っていたりして、小説としてはヴォネガットらしいテイストがたっぷり。
 そのほか、ドウェイン・フーヴァーの自殺した妻、シリアが重要な役どころをはたしていたり、ラボー・カラベキアンの名前が出てきたりと、他の作品とリンクする点も多く、ヴォネガット・ファンとしては決して見逃せない作品でもある。
 うーん、とはいえ、残念ながら今の僕にはいまいち楽しみ切れなかったというのが正直なところ。次に読むときには印象が変わっていたらいいなと思う。
(Jul 27, 2016)