1998年10月の映画
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GODZILLA [1998年版]
ローランド・エメリッヒ監督/マシュー・ブロデリック、ジャン・レノ/1998年/アメリカ
この映画の予告編は最高だった。
博物館でティラノザウルス・レックスの骨を前に大人が子供たちに、「これが地上最大の動物の骨です」などと講釈をたれている。そこへどーん、どーんと地響きのような足音。黙り込んで不安げな様子を見せる彼ら。緊張感をはらんだ一拍の静寂。その後へ突如巨大な怪獣の足が天井を突き破って現われ、ティラノザウルスの骨を踏みつける!
これはクランクイン前のテスト映像だったらしいけれど、今度のゴジラの大きさ、そして映像の凄さを見せつけるにこれ以上ない出来映えの予告編だと思った。大笑いさせてもらった。そのハリウッド版ニュー・ゴジラが見れる日のことを思って年甲斐もなくワクワクした。
しかし封切り直前までベールに包まれていたそのモンスターの姿がインターネット上で公開されたのを見て、僕の期待は一気にしぼんだ。多くの人が同じ感想を持ったことだと思う。
ハリウッド生まれの新しいゴジラは多くの人がそう語ったように超巨大なイグアナだった。元祖の持つ愛敬がぜんぜんない。ただ単に爬虫類特有のグロテスクな姿が巨大化しているだけだった。このゴジラ像からはなんだか一番大切ななにかが抜け落ちている気がした。
それでも日本での公開から一ヶ月。僕はわずかばかりの期待を胸に、昨日この映画を観に行ってきた。ひとことで言うと、かなり哀れを誘われる映画だった。
最初の30分はかなりよかった。その時間帯においては最高といってもいい。
日本漁船の沈没から、ゴジラの足跡や爪痕の発見、そしてニューヨーク上陸。特に初めてスクリーンに姿を現わすシーンが最高だ。おおー、来たー、と思わず盛り上る。摩天楼を闊歩して高層ビルをかき崩すゴジラの映像は、これが見たかったんだという、まさにそのものだった。
ところが映画が素晴らしいのはその最初の30分のみだと言っていい。これ以降は巨大トカゲが苛められるかわいそうな映画になってしまう。
元祖ゴジラは怪獣だ。水爆の影響でジュラ紀の恐竜が突然変異を遂げたという設定のもと、その大きさはもとより、水爆にあっても死ななかった生命力を持ち、炎(放射能?)を吐くという荒唐無稽な存在だった。
けれどこの荒唐無稽さゆえにこそ、ゴジラは怪獣の「怪」の字に恥じない存在たり得ていた。科学では解明し得ない怪しい存在。理屈ではない無敵の存在。そんな日本版ゴジラに人間のつけいる隙はない。ゴジラは一種の天災として日本各地を破壊しては去ってゆく。
ところが今度のアメリカ版ゴジラにはそうした神秘性がない。確かにその大きさは異常だけれど、その異常さは被爆による突然変異の一言で古典SF的に片付けられてしまう。炎も吐かない。さらに致命的なことに、ニューヨーク上陸の理由には「産卵のため」という至極まともな理由付けがされてしまっている(雌なのか!)。
初代ゴジラにも海の生き物を食い尽くしてしまったため食料を求めて上陸したのだと言う理由付けがなされていた。しかし実際には海から上がったゴジラはそうした設定を無視したように人間を食うことも忘れて東京を破壊し続ける。いい加減な話なようだけれど、でもその圧倒的に不条理な行動ゆえに初代ゴジラは人知を超えた怪獣たり得ている。
ところがニュー・ゴジラは意味不明な破壊などしない。上陸後も魚しか食わない。街に溢れる人間という蛋白質にはまるで興味を示さず、人間が罠として用意した魚の山に誘い出される始末だ。そうして科学者の理論通りにマジソン・スクエア・ガーデンにたくさんの卵を産みつける。動物の本能のみにより行動するこのゴジラには怪獣としての神秘性など微塵もない。
こうして怪獣としての「怪」しさを奪われたゴジラは単なる超巨獣に堕した。そしてそんなゴジラには巨大さ故の悲劇が待っているのみだった。
とにかくこの映画のゴジラは憐れだ。うちの奥さんはこの映画を見て、ゴジラが可哀相だと涙ぐんでいた。
原爆という暴挙のとばっちりを受けて誕生した悲劇の新生物が、結局その誕生の原因を作った人間の手により殺される。そうした悲劇に込められた反核のメッセージは作者の意図通りだから、それが届いているという点では成功している映画だろう。確かに元祖『ゴジラ』にもそうした反核反戦的色彩は強い。
ただし元祖『ゴジラ』は一方的にやられる人間側の悲劇だけれど、この作品では逆に人間にやられる側のゴジラが悲劇の主役となっている。その構造はまるで反対だ。
考えてみると、これはとてもおもしろい問題かもしれない。
エメリッヒ監督は映画パンフのインタビューで、この映画ではフランケンシュタインやキングコングを意識したと語っている。確かに今回の『ゴジラ』はそれらと同じ性質を持っている。どのモンスターも人間が生み出した近代文明の被害者として描かれる。
一方で日本のゴジラには被害者としての性格は希薄だ。人類の築き上げた文化を破壊して回る怪獣ゴジラに同情の余地はない。これは西洋と東洋の文化の違いなのだろうか。海を渡ったゴジラが西洋の論理で変質した結果が今回のハリウッド版『GODZILLA』なのかもしれない。
ただし、だからといってこれは文化の違いだから仕方ない、今回のゴジラはあれでいいと思うかといえば、やはりそんなことはない。
とりあえずゴジラの性格の違いは許容するとしても、全体としてのシナリオの稚拙さはどうしようもない。前半でヘリコプターと追いかけっこしていたゴジラが、クライマックスではタクシー一台に追いつけず、ますます格を落とす。二百もの卵が一辺に孵ってミニラ(?)の巣と化したマジソン・スクエア・ガーデンから主人公たちが奇跡的に脱出したりする展開は子供だましとしか思えない。
特に僕はこのミニラのくだりが気に入らなかった。あれはどうにもジュラシック・パークの二番煎じだ。『ゴジラ』と銘打って『ジュラシック・パーク』をやられたのでは納得しようもない。これでさらにゴジラのゴジラとしての魅力を削いでいる。でかくないゴジラを出してどうする。宣伝文句で"Size Does Matter"とかほざいておいてそれはないだろう。
大体にしてこのエメリッヒという監督はいつもいつも発想がイージーすぎやしないだろうか。『インディペンデンス・デイ』での、コンピュータ・ウィルスで敵のコンピュータを麻痺させるなんて発想、ある程度コンピュータの知識のある人には恥かしくて絶対映画にできない。『スターゲイト』も導入部で散々ワクワクさせておきながら、後半やたらと子供だましの展開になってがっかりした記憶がある。結局今回の『GODZILLA』でも、ゴジラのニューヨーク上陸に産卵のためというさもありげな理由をつけたせいで、物語が小さくまとまってしまった。
ゴジラがゴジラなのなら、やってくる理由など無理につけなくてもいい。ただやってこさせればいい。そうしてただひたすら暴れさせればいい。怪獣とはそういうものだ。そうした割り切りができないあたりは国民性なのかもしれない。
などと、いろいろけなしたけれど、別に映画としてつまらないとは言い切れない。それどころか、『インディペンデンス・デイ』同様、最初から最新映像技術の粋を凝らしたSFパニック映画として見るなら充分おもしろい。よくも悪くもつっこみどころは満載。問題は「ゴジラ」の名を語ってしまったことだ。そういう映画。
(Oct 13, 1998)