2020年5月の本

Index

  1. 『美しく呪われた人たち』 F・スコット・フィッツジェラルド
  2. 『猫を棄てる 父親について語るとき』 村上春樹
  3. 『ブラック・クランズマン』 ロン・ストールワース

美しく呪われた人たち

F・スコット・フィッツジェラルド/上岡伸雄・訳/作品社

美しく呪われた人たち

 長いこと翻訳されていなかったフィッツジェラルドの第二長編作品が本邦初登場~。
 ――と、そのこと自体はとてもめでたいと思うのですが。
 読んでみて、なぜこれがいままで翻訳されていなかったか、よくわかった。
 じつは僕はかつてこの作品を原書で半分くらい読んだところで挫折しているのだけれど、今回この翻訳を読んでみて、そのわけもわかった気がした。
 いやー、とにかく無駄に長い。若き日のフィッツジェラルドが華々しくデビューしたあと、第二作目ということで気負ったのがひしひしと伝わってくる。でもってその熱意が残念ながら悪いほうに出てしまっている。とにかくこんなに筆圧高く、こんなに救いようのない話を書いてどうするんだって思う。
 物語は有閑階級に生まれ育った一組の美男美女のカップルが、いかにして出会い、いかにして愛しあい、そしていかにして破滅していったかを描いてゆく。
 よくいわれるように、フィッツジェラルドは自伝的な内容の小説しか書けなかった作家だとするならば、ここに描かれる不幸な恋愛劇はそのままスコットとゼルダの関係性を反映していることになる。でもってそれがかなり居たたまれないものなのに驚く。
 だってデビューからわずか二年しかたっていないんだよ? なのにフィッツジェラルドがここまで冷徹な恋愛観を持ってしまっているのって、なにごとかと思う。この人、不幸すぎる。洒落にならない。
 ふたりが出会って恋に落ちるまでの関係性のヴィヴィッドさや、そこから愛が失われてゆく過程のリアルさには素晴らしい部分もあると思う。二十代の若者が自らの恋愛体験から、こんな分析力を得ていることには素直に感服する。ふたりの関係がはぐくまれてゆく過程には、恋愛小説というよりも、ある種のサスペンス・スリラーを読んでいるようなスリルがあった。
 でも後半、ふたりの結婚生活が行き詰まりはじめてからの、主人公アンソニーの駄目人間ぶりがすごい。すごすぎる。そのせいで途中までのよい印象がすべてふっ飛んでしまうくらい。とくに最後のほうでアンソニーがマルチ商法まがいの仕事に手を出すあたりの恥ずかしさったらない。マジで赤面もの。読むのやめたくなるレベルだった。
 とにかくあまりに救われなくて、読み終わったあとでこの作品が好きだなんて気分にはとてもなれない。村上春樹によってフィッツジェラルドが神格化された現在の日本ならばともかく、さもなければ、さすがにこれは売れないよなぁ……と思ってしまった。
 まぁでも、時代の寵児がいかにして転落したかを赤裸々に描いたフィクションとして、ある意味とても貴重な小説なのかもしれない。華々しく文壇デビューして最愛の人と結婚した人生の絶頂期というべき時期にこんな小説を書かずにいられなかったところに、フィッツジェラルドという人の不幸な才能が見事に表れている気がする。
 この意欲的な失敗作の冗長さを反省した結果が、無駄のなさという点ではこれと対極をなす次回作『グレート・ギャツビー』という宝石のような小説として結実したとするならば、これはこれで意味のある作品なのかもしれない……と思わないでもない。
(May. 10, 2020)

猫を棄てる 父親について語るとき

村上春樹/文藝春秋

猫を棄てる 父親について語るとき

 村上春樹氏が今は亡き父の思い出を語った長めのエッセイ一本だけを収録した単行本。
 新書サイズのハードカバーというイレギュラーな形式で、ページ数にして百ページちょっと。台湾出身の高妍という女性イラストレーターの昭和レトロな挿画も多数収録されているから、本文はもっと少なくて、短めの短編小説一編くらい。なのでさくっと一時間半もあれば読み終えられるボリュームだけれど、内容はけっこう重い。
 この本で明かされているように、村上春樹という人は父親との間に深い断絶があったとのことで、思い出といってもとても限られたものになっている。それこそ、ふたりのあいだで直接交わされたコミュニケーションとなると、表題となっている幼少期に猫を捨てに行った話と木登り子猫の話くらいしかない印象。
 それでは春樹氏がこのエッセイでなにを語っているのかというと、もっともページ数を多くの裂いているのは、二十歳そこそこで徴兵された父親の戦争での体験について。それも直接本人に聞いた話ではなく、父親の死後に春樹氏が調べた結果、こういうことだったんだろうという話。その軽妙なパブリック・イメージからすると意外なほどに、この本での春樹氏は自分の父親が関係したであろう歩兵部隊の足跡を丹念にたどっている(『アンダーグラウンド』のような本を書く人だから、意外でもなんでもないじゃんという人もいるだろうけれど)。
 なぜ春樹氏がそれほどまでに父親の戦争体験に強い関心を示すことになったかというと、それはかの人が所属していた(と春樹氏が思い込んでいた)歩兵第二十連隊が、「南京陥落のときに一番乗りをしたことで名を上げた部隊」だったから。
 要するに自分の父親があの悪名高い南京虐殺に加担していたのではないか――自分は非道な行いをした父親の息子なのではないか――というのが、春樹氏にとっては長年のトラウマになっていたらしい。そういえば以前に『ねじまき鳥クロニクル』に関するエッセイかなにかでも、父親絡みで戦争について特殊な思いを抱いているようなことを読んだ気がする。長年心にわだかまったその辺の事情をつまびらかにしてみせたのがこのエッセイなのだろう。
 団塊の世代の人たちは、直接の戦争経験こそないものの、その後の僕らの世代にはうかがい知れない戦争の影響を間接的に受けているんだなと思った。僕の両親は戦時中はまだ子供だったから、戦争のつらさは知っていても、自ら戦争に加担したがゆえの良心の呵責のようなものはいっさい感じていなかったように思う。
 春樹氏の父親との関係を考える上でもうひとつ重要なのは、彼の祖父が僧侶であり、彼の父親とその兄弟が全員僧侶になる教育を受けて育てられたという点。
 話はちょっと違うかもしれないけれど、僕の母方の祖父は大工の棟梁で、僕の叔父たちはほぼ全員がその下で働く町大工だったから、祖父の職業によって一家の方向性が決まる感じはなんとなくわかる。うちの場合は大工という職業上、とても呑気な人ばかりだったけれど、それが僧侶となればどうかは推して知るべし。ジャズや米文学に傾倒して、大学時代に学生結婚するような自由人だった春樹さんが、そんな一族の一員である父親とうまがあわないのは無理もない気がする。
 とにかくこの本を読んで伝わってくるのは、春樹氏が父とのあいだにいかに深い断絶を抱えて生きてきたのかという事実。僕は村上春樹ほどの影響力を持った人がかたくなに子供をなさずに生きてきたことに疑問を持っていたけれど、自身と父親とのあいだがそういう関係だったら、みずからが父親になる決断ができないのは仕方がないことなのかもしれない。
 村上春樹という作家が抱えた人生の深淵の一部が透けて見える一冊だった。
(May. 17, 2020)

ブラック・クランズマン

ロン・ストールワース/鈴木沓子、玉川千絵子・訳/PARCO出版

ブラック・クランズマン

 スパイク・リーの最新作『ブラック・クランズマン』の原作本。
 著者はあの映画の主人公だったロン・ストールワースその人で、内容的にも基本的には映画で観た内容に準じている(正しくは映画がこの本の内容に準じている)。
 ここはさすがにフィクションだろうって思った映画での派手なクライマックスはないし――潜入捜査の結末はあまりにあっさりとし過ぎている嫌いはあるけれど、でもそれが事実なんじゃしょうがない――登場人物の名前も違っているけれど、あとはだいたい似た感じ。ブラックパンサー党の幹部の講演会をきっかけに潜入捜査官となる冒頭のくだりから、その後の流れはほぼ映画のままって印象だった。
 この本で印象的なのはその語り口の温厚さ。
 スパイク・リーの映画では人種差別の醜さが強調されていたけれど、この本ではその部分は意外なほどに控えめ。白人至上主義のKKKに黒人警官である著者が加入することになった滑稽さを笑ってこそいるものの、そこには過剰な憎しみやあざけりのようなものは感じられない。そのニュートラルな語り口に好感が持てた。
 ストールワースさんは電話での会話で白人と勘違いされてKKKに加入することになるわけだけれど、この本を読むとなるほどと思う。年を取ってからこういう本を書ける人だったら、白人だと勘違いされるのも納得がゆく。この本は肌の色では人の知性や品性は決まらないという事実のいい証拠だと思う。
 それにしても幹部を「グランド・ウィザード」とか「ドラゴン」とか「サイクロプス」とか呼んでいるというKKKがすごい。監修の丸屋九兵衛という人があとがきに書いているとおり、それってまさに厨二病なんでは……。
 そんな幼いころの趣味性を残したままの人たちが徒党を組んで差別と暴力をまき散らしているアメリカって国には、やはりどこかちょっと病んだところがあるんだろうなと思った。
(May. 31, 2020)