2011年8月の本

Index

  1. 『昔日』 ロバート・B・パーカー
  2. 『バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 村上春樹・編訳
  3. 『死ねばいいのに』 京極夏彦
  4. 『喋る馬』 バーナード・マラマッド
  5. 『修羅維新牢』 山田風太郎

昔日

ロバート・B・パーカー/加賀山卓朗・訳/早川書房

昔日 (ハヤカワ・ノヴェルズ)

 パーカーの訃報を受けて、追悼とうたって前作『ドリームガール』を読んでから、気がつけば1年半も経っていた。感覚的には半年もたっていない気がするのに……。最近は本気で驚くぐらいに一年が短い。この調子だと、老人と呼ばれる日がくるのもそう遠い話じゃなさそうだ。ほんと、まいってしまう。
 さて、このスペンサー・シリーズも最終作の『春嵐』が刊行されて、これを含めて残り五作ということが確定。第三十五作目となる本作では、スペンサーがなんと浮気調査を引き受ける。
 現実の世界の私立探偵は殺人事件なんかとは縁がなく、もっぱら浮気調査ばかりしているというような話は聞くけれど、逆にいえば、小説の世界の探偵が浮気調査をすることって、まったくといってない。それも当然で、やはり他人の浮気現場の覗いてまわる出歯亀のような真似をしていたのでは、ハードボイルド探偵は名乗れなかろう。
 でもこの作品でパーカーはスペンサーにそんな浮気調査をやらせている。スペンサーも普段は引き受けそうにないその仕事を率先して引き受ける。
 それというのも、依頼人が同業者で──身分を隠しちゃいるけれど、司法関係者(FBI捜査官)なのはバレバレ──、浮気をしているらしいその妻というのが大学教授だから。要するにスペンサーは依頼人に『キャッツキルの鷲』のころの自分を重ね合わせて、強い共感をおぼえてしまうのだった。
 もちろん、物語が浮気話だけで終わるわけがなく。スペンサーの仕事は序盤で片づいてしまい(それも悲劇的な形で)、そのあとにはスーザンを巻き込んでの奇妙な三角関係が持ち上がり、さらにはホークやヴィニィ・モリスの力を借りての銃撃戦が待っているという。もともと浮気調査から始まったとは思えない、派手な展開に。
 あからさまに愛の大切さを語りつつ、一方で非合法なバイオレンスも描いてみせるという。これぞまさしくパーカーならではのハードボイルド・ワールド。こういうのもあと四作しか読めないと思うと、返すがえすも残念だ。
(Aug 27, 2011)

バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2

村上春樹・訳編/村上春樹翻訳ライブラリ-

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 僕は村上春樹が好きだけれど、かといって無条件にその人のやることなすことすべてが素晴らしいと思い込んでいるわけではなく、ちょっとなぁ……と思うことも少なからずある。
 この本の表題作を『バビロンに帰る』というタイトルにしてしまったことも、僕が長年不満に思っていることのひとつ。作品は間違いなくフィッツジェラルドの代表作というべき珠玉の短編だけれど、それをこういうタイトルで訳してしてしまうのは、ほんとどうかと思う。
 だって原題は『Babylon Revisited』なわけです。「帰る」んじゃなくて「再び訪れる」でしょう? 「帰る」と「訪れる」ではまるでニュアンスが違う。そして、この作品の場合、主人公が舞台であるパリでは異邦人であるという点が大切だとも思う。だからタイトルに「帰る」という言葉を使うのは、絶対に間違っていると思わずにはいられないのだった。
 昔からそう意訳されてきたのならば仕方ないとも思うけれど、そうではないわけで。この短編はこれまで基本的に、『バビロン再訪』という、そのものずばりのタイトルで訳されてきた。そして僕もそのタイトルを愛してきた。それをなぜいまさら、別のニュアンスのタイトルに変えてくれちゃうんだよぉ……。なまじとても影響力の大きな人の仕事だけに納得がゆかない。
 もちろん「再訪」というあまり一般的ではない言葉には、やや昔風の響きがある。いまっぽくない気がしないでもない。でもフィッツジェラルドという人の文体を考えれば、そのやや時代がかった響きもまたふさわしいと僕は思う。
 ということで、春樹氏がこの名作を『バビロンに帰る』というやわらかなタイトルに変えて訳したことは、僕にとってはこの上ない不満なんだった。それこそ『ライ麦畑でつかまえて』を『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルで訳したのと並ぶ、村上翻訳ワールドに対する二大不満のうちのひとつ。
(Aug 27, 2011)

死ねばいいのに

京極夏彦/講談社

死ねばいいのに

 『死ねばいいのに』たぁ、ずいぶんなタイトルだなあ……と思いながら読み始めたのだけれど、内容はそれほどひどくかった。それどころか、とてもよくできた連作長編ミステリだと思う。
 物語は、とある中小企業の部長さんが、態度のわるいニートの青年とファミレスで話を聞しているというシチュエーションで始まる。
 青年は、最近までその人の下で働いていたある女性について、知っていることを教えてくれと、小生意気な態度で問いかける。
 対する部長さんは、「彼女のことはよく知らない」といいながら、中間管理職らしい愚痴をたっぷりと(読者に)聞かせる。「生きているのがつらい」とか、「生きていてもまるでいいことない」みたいなやつ。
 そんなオヤジの話をさんざん聞いたあと、相手の身勝手な言い分を論破した上で、聞き手のケンヤという青年が最後に吐く捨てゼリフが、タイトルの「死ねばいいのに」なのだった。
 そういう意味では、このタイトルは、京極堂の「不思議なものなど何もない」や又市の「御行奉為」などの系列につらなる、京極夏彦お得意の決めゼリフなわけだ(まあ、ここではそれが、これといって取り柄のないニートの青年によって吐かれるわけだけれど)。京極ファンとしては、非常になじみ深いスタイルの小説だといえる。
 物語はこのケンヤという青年を狂言回しに、一話ずつ語り手をかえながら、最近殺害された亜佐美という女性の人となりをあきらかにしてゆく。そして彼女にかかわりのあった語り手たちの{いびつ}な内面性を暴きたててゆく。というか、語り手個々の自分勝手な救われなさこそが、この小説の肝だ。
 京極作品では、登場人物が内的独白をとうとうと繰り出すシーケンスがあって、時としてそれがちょっとつらかったりするのだけれど、この作品ではそういう傾向がもろに前面に出ている。なので最初のうちはとっつきにくそうだなぁと思ったのだけれど、読み進めてもそれほど苦じゃなかったのは、それぞれのグチグチしたもの言いが、最後に「死ねばいいのに」という突っぱなしたひとことによって、ばっさりと切り捨てられるからだろう。
 落ちにもなんとも言えない奇妙な味わいがあるし、これはこれでいい出来だと思う。
(Aug 27, 2011)

喋る馬

バーナード・マラマッド/柴田元幸・訳/柴田元幸翻訳叢書/スイッチ・パブリッシング

喋る馬(柴田元幸翻訳叢書―バーナード・マラマッド)

 バーナード・マラマッドというと、学生時代に『アシスタント』を読んでひどく感動した記憶があるので、この短編集も楽しみにしていたのだけれど、なぜか今回は駄目だった。まったく楽しめず。バットにかすりもしない感じ。
 ここまで感じるものがないというのも、僕としてはかえって珍しいので、たんに読んだタイミングが悪かったのかもしれないという気がしてくる。いすれ読み返したら、また違う感じ方をしそうな気もするので、今回のところは感想は保留。
 とりあえず、ユダヤ系小市民の日常を描くピースのあいまに、しゃべる馬やら鳥が登場する超常的な題材があたり前のように紛れ込んでいるのが、不思議な感じのする短編集だった。
 あと、この本は装丁が素敵だ。これだけでも手元に置いておくに十分という気がする。
(Aug 27, 2011)

修羅維新牢

山田風太郎/ちくま文庫

修羅維新牢 山田風太郎幕末小説集 (ちくま文庫)

 なんだかすごくひさしぶりに山田風太郎を読んだ。調べてみたら、風太郎の本を読むのはじつに四年ぶり。小説ということでいえば、六年ぶりだった。すっかりご無沙汰してしまった。
 知らないうちに僕の読書リストから消えてしまっていた風太郎だけれど、まだまだ未読の作品はたくさんあるし、最近は第何次・風太郎復刊ブームのようなので、これからまたしばらく、意識的に読もうと思っている。
 ということで、まず手始めがこの幕末、それも大政奉還直後を舞台にした連作長編。江戸を占拠した薩長軍が、頻発する仲間の暗殺に対する報復措置として、御家人十人を無差別に斬首にすることに決めたという設定のもと、無実の罪で死に追いやられてゆく十人の御家人たちの姿を積み重ねてゆく。解説によると作者本人の評価はいまいち低いんだそうだけれど、いやいや、なかなかどうして。シニカルな結末がとても効いた良作。
 山田風太郎の小説は基本どれもエログロだけれど、それでいて読了後に一抹の清涼感がある。それは書いている本人がその世界観に溺れていないからだと僕は思う。エログロを書きながらも、風太郎先生の視線には終始冷めたものがある。人間性に対する達観がある。人間なんて所詮{しょせん}たいしたもんじゃないんだという絶望がある。でも、そう思いながらもなお、その絶望に打ちのめされることなく、救いの手を差し伸べてくれる。そこが素晴らしい。
 以下ネタばれになってしまうけれど、この小説のラストで、ある人物はみずからの罪をつぐなうために、ぞれと知らずに罪人を解き放ってしまう。それどころか、彼が自らを犠牲にして救ったのは、生きるに値しないろくでなしばかりだという結果になる(この皮肉な結末が見事)。
 それでも、その人が自らの命を捨てた行為に僕らは救われる。彼のヒロイズムは空回りしてしまうけれど、それでも彼の行いにより、その世界の歪みは是正されて、最後に平衡を取り戻す。決してハッピーエンドってわけではないけれど──いや、おそらくハッピーエンドではないからこそ──、そこには血みどろの内容からすれば意外な、そこはかとない清涼感がある(もしかしたら脱力感と言い換えたほうが正しいかもしれないけれど)。この感じは、なかなかほかの作家では味わえない。
 ひさしぶりに読んで、やはり山田風太郎はおもしろいと思った。まだまだ未読の作品がたくさんあって、なんとなく幸せな気分だったりする。
(Aug 28, 2011)