2009年7月の本
Index
- 『われらが歌う時』 リチャード・パワーズ
- 『移動祝祭日』 アーネスト・ヘミングウェイ
- 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 スコット・フィッツジェラルド
- 『明日に向かって捨てろ~BOSEの脱アーカイブ宣言~』 BOSE(スチャダラパー)
- 『追憶のハルマゲドン』 カート・ヴォネガット
- 『重力ピエロ』 伊坂幸太郎
われらが歌う時
リチャード・パワーズ/高吉一郎・訳/新潮社(上・下巻)
僕がいま現在、もっとも翻訳が出るのを楽しみにしているアメリカ人作家、リチャード・パワーズの長編第8作。
翻訳としてはこれがまだ4作目だけれど、今回のもまたもや破格。すごい、すごすぎる。この人、人間じゃないんじゃないだろうか。書く本、書く本があまりに規格外だ。天才とはまさにこういう人のことを言うんだと、あらためて思う。
つねになにかしら新しいことにチャンレジしてみせる天才パワーズがこの作品で挑んでみせたのは黒人差別問題。リチャード・ライトやジェームズ・ボールドウィン、トニ・モリソンといった黒人作家の作品で僕には馴染みの深いテーマだけれど、白人でここまで真正面から黒人問題を描いてみせた作家はおそらく珍しいんじゃないかと思う。
この小説の主人公は、音楽が縁で出逢い、白人と黒人という人種の壁を越えて結ばれたカップルとその子供たちからなるシュトロム一家。父親のデイヴィッドはアメリカに亡命してきたユダヤ人物理学者。母親のディーリアは声楽家をめざす若き黒人女性。つまり彼らの子供たち――ジョナ、ジョゼフ、ルースの三兄妹――は、ユダヤ人と黒人という被差別人種どうしを両親とするハーフなのだった。
その点、この小説は、たんに黒人文学の系列に属するだけではなく、バーナード・マラマッドなどのユダヤ人文学も継承するよう意図されているのだと思われる――というか、人種差別という社会問題をより深く描き出す上で、あえてこういう設定を選んだのだろう。
冒頭、子供たちがまだ幼いころのシュトロム家は、音楽好きの両親のもと、一家そろってクラシック系の歌曲を合唱するのを楽しみとする、とても幸せそうな家族として描かれる。歌のあふれる家庭の風景は幸福感であふれている。僕もこんな風に歌える父親だったらよかったのにと思ってしまうくらいに。
しかしながら、話が進むにつれて、その一家がどれくらい深刻な問題を抱えているかが、次第にあきらかになってゆく。
なんたって、デイヴィッドとディーリアのふたりが出会うのは、いまだ公民権運動も始まらない第二次大戦中のことだ。いまでならば白人と黒人の夫婦も珍しくなさそうだけれど、そのころのアメリカでは、州によっては白人と黒人の結婚が重犯罪とされていたという。そんな時代に、世間の風潮に逆らって結婚したふたりの前途は、多難なんて言葉じゃ言い尽くせないくらいの苦悩に満ちている。とくに白人との結婚により、愛する家族との絆を失ってしまうディーリアの孤独はよりいっそう深刻で胸をうつ。
彼らとって音楽は、シビアな人生を生きてゆく上での唯一のよりどころだった。音楽に導かれて出会った彼らは、自分たちが音楽に向ける情熱のありったけを注いで、子供たちを育てる。結果、長男のジョナは声楽家としての天性の才能を開花させ、弟のジョゼフをしたがえてクラシックの世界で大成することになるのだけれど――R&Bやソウルが隆盛をきわめる60年代に、クラシック界で活躍する黒人兄弟を描くあたりが、白人作家ならではという気がしないでもない――、しかしながら、ジョナの音楽家としての成功は、皮肉にも彼ら一家の離散を招くことになってしまう。
この小説はシュトロム夫妻の受難の歴史をフラッシュバックで差し挟みつつ、その子供たちの波乱に満ちた音楽人生を、あふれんばかりのレトリックでもって描いてゆく。また、そこには20世紀のアメリカ社会で実際にあったさまざまな事件が効果的に織り込まれている。たとえば、デイヴィッドとディーリアのふたりが出会うのは、リンカーン記念館の前で開かれた、マリアン・アンダーソンという黒人女性ボーカリストのフリー・コンサートにおいてだ。僕は先日、そのときの記録映像を、同じ場所で開かれたオバマ大統領就任記念コンサートのテレビ中継で見たばかりだったので、ちょっとびっくりした。
なんにしろこれは、とある一家の家族史をベースにした音楽小説でありながら、なおかつアメリカの現代史をたっぷりと盛りこんで、人種差別問題を真正面からとりあげてみせた大河小説でもあるという、とんでもない力作なのだった。しかも最後には村上春樹ばりのファンタスティックな結末まで用意されている。こんなすごい小説、めったに読めない。
これまでに翻訳されたパワーズ作品のなかでは、もっともエンターテイメント性が高くて読みやすかったし――まあ、とはいってもパワーズはパワーズだから、骨が折れることには変わりがなく、このところ音楽中心の生活を送っていて、ずいぶん読書量が減ってしまっているせいで、不覚にも読み終わるまでに2ヶ月ちかくかかってしまったけれど――、時間が許すのならば、いまからもう一度、読み返したいくらいってくらいに、おもしろかった。
(Jul 03, 2009)
移動祝祭日
アーネスト・ヘミングウェイ/高見浩・訳/新潮文庫
ヘミングウェイが晩年になって若き日のパリでの思い出をつづった
正直なところ、僕はヘミングウェイがあまり好きではない。
つまらないから、ということはない。 『日はまた昇る』 や 『武器よさらば』 を読んだときには、おもしろいと思った。それどころか、どちらも確か二回は読んでいる。新潮文庫の短編全集だって読んでいる。でもなぜか、心惹かれない。なにが違うんだか、よくわからない。ただ単に惹かれない──そうとしか言いようがない。
それでも、これだけの名声を受けている人なのだから、もしかして読んでいるうちに、ある日突然、その魅力に目覚める日がくるかもしれない──そう思って、ときどき気が向くと、その作品を手にとっている。この作品もそんな一冊。
この本はエッセイ集ということもあって、読んで感動のあまりヘミングウェイが好きになるなんてことは、いつも以上にないのだけれど──いや、じつは読み始めるまで、これがエッセイ集であることさえ知らなかったりするのだけれど(なにごともなるべく先入観ゼロで接すべしという方針なので、帯の宣伝文句とか裏表紙のあらすじとか、ほとんど読まないもので)──、それでも終盤になって、フィッツジェラルドについての思い出をたっぷりと語っていたりするので――しかもこれがけっこう笑える――、フィッツジェラルド・ファンの僕にとっては、思わぬめっけもんという作品だった。
まあ、ただしそれってのがまた、フィッツジェラルドのプライベートなうちあけ話(それも性生活に関する悩みごと)をあからさまに取りあげていたりしていて、「いいのか、こんな話、人に聞かせちゃって」と思うような内容だったりするんだけれども……。
こんな風に、亡き友の恥となるような話を公然と語れてしまうデリカシーのなさが、僕をこの人から遠ざけているような気もする。
(Jul 17, 2009)
ベンジャミン・バトン 数奇な人生
F・スコット・フィッツジェラルド/永山篤一・訳/角川文庫
デイヴィッド・フィンチャー監督、ブラッド・ピット主演のアカデミー賞候補作の原作を中心に、角川文庫が独自に編集したフィッツジェラルドの短編集。
ブラッド・ピット主演の話題作の原作がフィッツジェラルドの作品? その作品の存在を知らなかった僕は──情けなくもその短編はわが家にあるフィッツジェラルドのアンソロジー(原書)に収録されていたのだけれど──、そう聞いたときにかなりの違和感をおぼえた。フィッツジェラルドの作風からして、素直に映画化したら、そうそう大ヒットするような感動作が生まれるとは思えなかったからだ。
はたして、この短編集を読んでみて、僕は確信した。こりゃ、映画と原作はぜんぜん違うんだろうと。原作の短編は──老人として生まれた主人公性が年とともにどんどん若返ってゆくという発想こそ奇抜なものの──、いかにもフィッツジェラルドらしい、かなりシニカルな内容だったからだ。心温まるヒューマン・ドラマからはほど遠い。こんなものをそのまま映画化して、アカデミー賞候補の感動作ができあがるとは、とうてい思えない。ケイト・ブランシェットが演じるヒロインの見せ場だって、まったくといっていいほどないし。
とはいっても、じゃあこの原作がつまらないかといえば、話は逆。この小説はとても素晴らしいと僕は思う。人とは違った奇特な境遇に生まれついてしまった主人公の生涯をユーモアとペーソスこめて描ききったその筆致には、これぞフィッツジェラルドという味わいがある。なんでこれがいままで未訳のまま放置されていたのか、不思議になってしまうくらい。
あわせて収録されている作品も、十代のころに書いた処女作だというミステリや、犬が主人公の小編など、基本的にエンターテイメント色の強い、珍しい作品がセレクトされている。すでに名作のひとつとして名高い 『最後の美女』 が入っているのは、ややイレギュラーな気がするけれど、翻訳家としてはやはり、これぞフィッツジェラルドというべき作品をひとつくらい入れたかったんだろう。なんにしても、フィッツジェラルドの翻訳書としては、これまでにないタイプのおもしろい短編集だった。エドワード・ホッパーの絵をあしらった表紙もカッコいい。
これにあわせてイースト・プレスという出版社から出ている 『ベンジャミン・バトン』 一遍だけを収録した単行本も併読した。文体としてはそちらのほうが若い印象だし──というか、訳者がどういう人か知らないけれど、文庫版の訳は新訳のわりにはすでに古びている気がする──、ベンジャミン・バトンの各世代のイラストをあしらった装丁もきれいで、そちらはそちらでいい本だった。
(Jul 22, 2009)
明日に向かって捨てろ!! ~BOSEの脱アーカイブ宣言~
BOSE(スチャダラパー)/双葉社
「ほぼ日刊イトイ新聞」で人気を博した連載を単行本化したもの。スチャダラパーのボーズが、「ほぼ日」の永田さんという人とともに、あーだこーだいいながら、自らの部屋にあふれかえる数々のいらなさそうなものを捨てようとして捨てきれないその様を、おもしろおかしく伝えてみせた対談。
僕自身もコレクター気質の持ち主で、ものだらけの家で暮らしているものだから、やっていることが他人事とは思えず、自虐的な笑いとともに楽しく読ませてもらった。ちょっとした息抜きに読むにはぴったりの本だと思う。
まあただ、僕はこれをネットでの連載が終わるころに見つけて、あらかた目を通したのに、それをまた本で買って読んでしまうという行為自体が、この本の趣旨とはまさに正反対の無駄にものを増やす行為で、なんだか間違っている気がしないでもない。この本の場合、写真がどれも小さいので、ネットで読んだときのほうが楽しかった気もするし……。
ということで、ボーズのファン以外で興味のあるのかたは、ネットで読んだ方がいいのではと思うような本。でも本好きの僕としては、これはこれで本として好きでした――とかいっているから、ものが増えまくるわけだけれど。
(Jul 25, 2009)
追悼のハルマゲドン
カート・ヴォネガット/浅倉久志・訳/早川書房
カート・ヴォネガットの死後に刊行された未発表短編を中心にした短編集。
遺作となったエッセイ集 『国のない男』 では翻訳家が浅倉久志さんじゃないことを残念に思ったものだけれど、これは出版社が早川書房ということもあり、期待どおり浅倉さんの翻訳。でもあとがきは収録作品のあらすじを並べたあっさりとしたもので、故人の思い出を熱く語ったりするところがまったくなくて、ちょっと拍子抜けした。
内容はといえば、息子さんマーク・ヴォネガットによるの序文から始まり、若いころに戦場から家族へ宛てた手紙のコピー、なくなる直前に書きあげられたというスピーチ原稿、初期の未発表短篇十編、そして比較的最近の作品ではないかと思われる、いかにもヴォネガットらしいブラック・ユーモアの効いた表題作が収録されている。
収録作で特徴的なのは、過半数を占める初期の短編のほとんどが、第二次大戦のときの経験をベースにした戦争小説であること。それらの作品は戦場を舞台にしているがゆえに、当時の娯楽雑誌には載せにくかったんだろうと浅倉さんは推測している。理由はどうであれ、ヴォネガットがこんなにストレートに自らの戦争体験を反映した作品を残してたというのはかなり意外だった。
なんにせよ、そうやってこぼれ落ちた作品ばかりを集めた結果として、この本はこれまでのヴォネガットの作品とはちがって、SF色の薄い、普通文学的な味わいのある本になっている。故人の知られざる一面の垣間見える――それでいてちゃんと往年のウィットを感じさせる作品もある――なかなか興味深い一冊だった。
(Jul 31, 2009)
重力ピエロ
伊坂幸太郎/新潮文庫
うちの妻子にキャンペーンのパンダ・グッズをプレゼントするために読み始めた、今年の「新潮文庫の100冊」(のうちの我が家の四冊)、第一弾は伊坂幸太郎の 『重力ピエロ』。
伊坂幸太郎という人には、日本のベストセラー作家のなかでは比較的興味があったので、これがいい機会だと思って、初めて読んでみたのだけれど……。
うーん、これは駄目。物語が不自然なところへきて、独断的な語り口と底の浅い衒学趣味が鼻について、まるで楽しめなかった。
悪いけれど、僕はいまさら文部省推奨の 『走れメロス』 や芥川をキャラクターの口を借りて引用するようなセンスの持ち主にはどうにも共感できない。他人の文学を引用するのが許されるのは、その対象に対する深い愛情と造詣と覚悟を持っている人間だけだと思っているので。
残念ながらこの作品からはそのいずれも感じとれなかった。
文学の知識をひけらかすならば、教科書レベルではなく、もっと深いところをえぐってくれよと言いたい。それができないならば、下手な引用は避けたが無難だ。底の浅さが透けて見えてげんなりしてしまう。
とにかくこの小説は、文学性にしろエンターテイメント性にしろ、僕がふだん読んでいる英米作家の作品とはレベルが違いすぎる。この本の作者が本当にこの文庫の作者紹介にあるように、「近年稀にみる資質の持ち主として注目を浴びている」のだとしたら、日本の文学界はそうとう憂うべき現状のように思える。少なくても僕がこの数年に読んだ本のなかには、これよりも素晴らしい作品がいくらでもある。
伊坂幸太郎という人には新世代の作家として、ひそかに期待するところがあったので、がっかり度がなおさら高かった。
こういう小説がベストセラーになり、あまつさえ映画化されてしまう状況が、僕が日本の文学を敬遠してしまうなによりの理由なんだよなあと思ってしまうような非常に残念な出来の作品だった。
暴言御免。
(Jul 31, 2009)