2009年5月の本
Index
- 『ナイフ投げ師』 スティーヴン・ミルハウザー
- 『イン・ザ・プール』 奥田英朗
- 『ザ・ロード』 コーマック・マッカーシー
- 『トラブル・イズ・マイ・ビジネス』 レイモンド・チャンドラー
- 『冷たい銃声』 ロバート・B・パーカー
ナイフ投げ師
スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸・訳/白水社
たとえばディズニーランドやディズニーシーがどんなところかを、そこへ行ったことのない人にもわかるように、文章のみで伝えるとする。写真もイラストもいっさいなし。余計な演出をつけ加えることなく、ミッキーマウスさえ知らない人にもわかるように、言葉だけで純粋にその魅力を伝えてみせる。
そんなの、ただあるがままを伝えるだけでも難しい。少なくても僕には無理。ましてや、そんなもので読者を魅了するなんてのは、よほど卓越した文章力がないかぎり至難の
ところがこのスティーヴン・ミルハウザーという人は、デビュー以来、その手のことを延々とやり続けてきている。しかもつねに見事な出来栄えでもって読者を魅了しつつ。
もちろん彼が描くのはディズニーランドのように現実に存在する場所ではない。また、あんなに健全でもない。彼は彼自身の頭のなかだけにある、あやしい陰影をもった架空の世界──二十世紀の雰囲気を色濃く残した架空の遊園地や百貨店、実物と見まがう自動人形や処女だけの秘密結社など──を、熟練のガラス職人のような巧みな筆致でもって、それぞれの短編小説に結実させてみせる。
「物語」ではなく「事物」を描くがゆえに、彼の文章は自然、フィクションよりもノンフィクションに近いスタイルになる。視点はつねに客観的で、主人公なんていないし、会話文もほとんどない。いわば、キャラと会話が命のライトノベルなどとは対極にある、疑似ドキュメンタリー・タッチとでもいうべき作風。
そして、どの作品もそんな現実世界と地続きのリアリティのなかに、なに食わぬ顔をして非現実性が紛れ込んでくる。ありふれた説明から始まる物語は、どれも次第にエスカレートしていって、最後には奇妙に
このノスタルジックでどことなくグロテスクな感覚は、なかなかほかの作家では味わえない。たまにこの手の作品を思いつく人はいるかもしれないけれど、これほどまでの出来栄えで、この手の作品ばかりを
(May 12, 2009)
イン・ザ・プール
奥田英朗/文藝春秋
うちの奥さんの妹が貸してくれたといって、これの単行本がうちにあったので、せっかくだから読んでみました、直木賞作家のベストセラー。グイン・サーガ以外の日本の小説を読むのは、なんだかやたらとひさしぶりだ。読んだことのない日本人作家の作品ともなると、いったいいつ以来だかわかったもんじゃない。
義理の妹がどうしてこの本を貸してくれたのか、理由がわからずにいたのだけれど、読んでみてなんとなく納得した。おそらく笑いの質が京極夏彦に似ているからじゃないかと思う(ちがいます?)。京極作品からミステリの属性と過剰なペダントリーを取り除いてコンパクトにまとめたというか、京極作品のコメディ的な部分だけを抽出した、そんな雰囲気。もしくは毒抜きした筒井康孝というか。とにかく難しい話ぬきで、さらりと読めて楽しく笑える、そんな連作短編集だった。それなりにおもしろかった。
ただ、僕自身はこの手のコメディを楽しむんだったらば、小説ではなくマンガやTVドラマでいい。わざわざ時間をかけて小説を読むんならば、どうせならもっと歯ごたえのあるものを読みたい。いまの僕の嗜好からすると、この本はちょっとばかり軽すぎた。まあ、あまり本を読むのが速くない僕でも、わずか3時間足らずで読めてしまったので、特に文句はないけれど。
それにしても、これの続編が直木賞を受賞したいうのにはびっくりしてしまう。いまの日本にはもっと文学賞という名にふさわしい小説はないんでしょうか?
(May 12, 2009)
ザ・ロード
コーマック・マッカーシー/黒原敏行・訳/早川書房
人類が滅亡して荒廃しきった世紀末のアメリカを旅するひと組の親子の姿を描くロード・ノベル。
父親と幼い息子の絆を描いた物語。そういうといろいろありそうだけれど、ではどんな小説があるかと考えてみても、これというやつが思い浮かばなかった。映画だと 『ペーパー・ムーン』 とか 『パーフェクト・ワールド』 とか。いや、どちらも親子の話じゃないな。お、そうだ、マンガならば、松本大洋の 『花男』 があるぞ――って、いろいろ考えてみて、それくらいしか思いつかない自分が情けない。
いっぽうで人類滅亡についての小説ならば、いくらか挙げられそうだけれど── 『渚にて』 とか 『ザ・スタンド』 とか 『復活の日』 とか──、この小説の場合、過去のそうしたSF小説とは違い、終末テーマはあくまで舞台設定でしかない。なぜ人類が滅亡することになったかについては、まったく説明がない(おそらく核戦争があったんだろうと推測される)。主眼はなぜ人類が滅んだかではなく、荒廃したその後の世界のなかで、無力な父親がいかにして幼い息子を守ってゆくかだ。さらには、これ以上守れないという状況になった場合に、息子を悲惨な運命から救うために、その命を絶つことができるかという重いテーマが加わる。
なんたって、この物語の終末世界では、ほぼすべての動植物が死に絶えている。それはつまり、人には食料にするものが、いっさいないということを意味する。主人公ふたり――最後まで彼らは「父と子」であり、名前がない――は残された缶詰などを探し歩いて飢えをしのいでいる。一方で同じように生き残った人々の多くは倫理観を失い、人を殺して食う鬼畜と化している。そんな世界でもし親が死んで子供がひとり残されたとしたら、悲惨なことになるのは目に見えている。しかもこの父親は血を吐いたりしている。彼は自分にもしものことがあった場合、自分の手で息子を安楽死させられるのかと自問自答しつづける。
かくして父親は、襲いくる食人鬼の脅威と自らの死の影に怯えつつ、暖かい南の土地を目指して、幼く無力な息子とともに旅をつづけてゆく。
そう書くとなんだか悲惨そうな話に思えてしまうけれど、決してそんなことはない――というか、そればかりではない。状況が悲惨きわまるものであるがゆえに、親子ふたりの絆はとても感動的だ。息子の天使のような純真さにも――やや寓話的すぎる傾向はあるものの――心が洗われる思いがする。また、苦難の旅の過程で、無垢だった子どもが徐々に成長してゆくその姿にも、心を打たれる。
とにかくこの小説は全編にわたって、ただひたすら主人公の親子ふたりの旅のみを描いてゆく。これくらい純粋な親子の物語はまたとないと思う。おそらく世紀末を舞台にしたのだって、親ひとり子ひとりという状況をとことん描きたかったからだろう。物語の着想や設定はとくに目新しくなけれど、それでいて非常に強い個性を感じさせる小説だった。
(May 24, 2009)
トラブル・イズ・マイ・ビジネス 《レイモンド・チャンドラー短篇全集4》
レイモンド・チャンドラー/田口俊樹・他訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
ハヤカワ文庫版・チャンドラー短篇全集の最終巻であるこの本は、これまでとはやや毛色が異なっている。
これまでの三巻に収録されていたのはどれもフィリップ・マーロウかそれ相応の人物を主人公にしたハードボイルド・ミステリだけだったけれど、今回はそれらに交じって幻想小説やエッセイ、短編集の序文などが収録されている。また、のちに長篇としてリサイクルされた話がほとんどない(解説では 『山には犯罪なし』 が 『湖中の女』 に組み入れられたと紹介されているけれど、僕はどのへんがそうなのか、わからなかった)。このシリーズは発表順に編集されているはずなので、つまり後期のチャンドラーは、それ以前とはいくぶん創作姿勢が変化してきていたということなのだと思う。少なくても僕はそんな印象を受けた。
なかでもやはりもっとも意表をついているのは、 『青銅の扉』 と 『ビンゴ教授の嗅ぎ薬』 の二編の幻想小説(SF?)。あまりにチャンドラーらしくない内容で、そうと言われなかったらば、絶対に誰ひとりチャンドラーの作品だとは思わない気がする。まあ、どちらも結末にやたらと苦味が効いているところが、唯一それらしい。
あと 『イギリスの夏』 もノン・ミステリ。これはある種の犯罪小説だけれど、フィッツジェラルドに通じる喪失感があって、どちらかというとミステリというよりは普通文学に近い。僕はこの本のなかでは、この作品が一番好きだった。なんでもこの作品はチャンドラー自身がのちに長編か戯曲にしたいと思っていたとか。それが実現しなかったのは残念だ。
そのほか、表題作をはじめとするお得意のハードボイルドものはどれも粒ぞろいだし、全体的に作風がこれまでになくバラエティに富んでいることもあって、ハードボイルドに馴染みのない人でも、それなりに親しみやすい一冊なんじゃないかと思う。
ちなみにこの巻で初登場した翻訳家は、佐々田雅子、浅倉久志、古沢嘉通、高見浩の四氏。ふり返って数えてみたところ、この短篇全集に登場した翻訳家は、総勢十五名だった。みなさま、ご苦労さまでした。
ということで、だらだらと時間をかけて読んできたレイモンド・チャンドラーの作品もこの本でもって打ち止め――となるはずだったのが、ここへきて村上春樹の訳による 『さよなら、愛しい人』 が刊行されてしまったので――しかもさらに春樹氏は引きつづき 『リトル・シスター』 も訳すんだそうで――、まだもうしばらくチャンドラーとのつきあいが続く予定。
(May 31, 2009)
冷たい銃声
ロバート・B・パーカー/菊池光・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫
ホーク、撃たれる。
スペンサー・シリーズにとっては、スーザンと並んで、なくてはならない最重要人物であるホークが、ウクライナ人ギャングに撃たれて瀕死の重傷を負うという、ショッキングな内容の本書。とかいいながら、物語はいきなり銃撃事件のあとで、病室にいるホークをスペンサーが見舞うシーンから始まる。しかもその事件については、済んだこととして多くを語らない。この辺のさじ加減が、いかにもパーカーらしくて僕は好きだ。
自らが撃たれたのみならず、依頼人を守れなかったことで、プロとしてのプライドをこっぴどく傷つけられたホークとしては、当然、倍返ししないと始末がつかない。ということで、物語の大半は、リハビリをさらっと終えたホークの復讐譚となっている――のだけれど。これがまたあっさりとした内容でやや拍子ぬけ。どちらかというと、銃撃事件がもととなってこじれるホークの恋愛関係のほうが、今回の話の焦点みたいだ。まあ、それはそれで珍しい。
一方、スペンサーは当然の如くホークに全面協力しながらも、そのことにより発生する倫理問題に頭を痛めることになる。はなから犯罪者のホークはともかく、とりあえずはカタギのスペンサーが、いくら親友のためとはいえ、また、いくら相手が凶悪な犯罪者とはいえ、自分とは直接かかわりのない人殺しにかかわっていいのかと。寡黙な彼が内面でひそかに抱えるこの問題を、パーカーはスーザンの言葉として読者に伝えてみせる。あらためてこの二人の関係って、よくできているなあと思った。
話は変わるけれど、この文庫本、表紙のデザインがいつもと違う上に、トールサイズとか言って、上背がこれまでよりも少し大きい。サイズについては、これからのハヤカワ文庫がみんなこのサイズになってしまうそうだから仕方ないとして(嬉しかないけれど)、表紙のほうはなぜ変わったかわからない。スペンサーものとしては故・菊池光氏が手がけた最後の作品だから、追悼の意味でわざと変えたのかなとも思ったのだけれど、解説ではそのことにまったく触れていないし……。ハードカバーの表紙は変わっていないだけに、文庫だけ突然変化してしまって、釈然としない。
これはもしや、このシリーズを文庫のみで読んできた僕のような読者を――表紙が変わったことに不満を抱いてしまうコレクター気質の持ち主を――、これを機に単行本へとシフトさせようという、早川書房の陰謀かと思ったりする。
(May 31, 2009)