2007年11月の本
Index
- 『かわいい女』 レイモンド・チャンドラー
- 『ストーリーを続けよう』 ジョン・バース
- 『諜報指揮官ヘミングウェイ』 ダン・シモンズ
かわいい女
レイモンド・チャンドラー/清水俊二・訳/創元推理文庫
今回、チャンドラーを続けて詠むことにしたのは、村上春樹氏が 『長いお別れ』 を 『ロング・グッドバイ』 という邦題であらたに翻訳したことがきっかけだったわけだけれど、そういう風にタイトルに原題をそのままカタカナで使うことに対しては、正直なところ、あまり賛成できない。すでにさんざん人口に
『ロング・グッドバイ』 はまだしも、いちばん納得がゆかないのが、同じ村上春樹訳の 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 。あれと旧訳の 『ライ麦畑でつかまえて』 というタイトルを並べられて、翻訳家の知名度を抜きにして、どっちを選択すると問われたら、たいていの日本人が 『ライ麦畑』 を選択するんじゃないかと僕は思う。少なくても僕はそうする。 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 というカタカナのタイトルはあまりに記号的で、まったくなんのイメージも喚起してくれない。逆に 『ライ麦畑でつかまえて』 というタイトルは、いまとなると、まさに古典という言葉にふさわしいと思いませんか。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 という題名がなんのイメージも喚起しないというのは、単に僕の英語力が足りないからで、もしかしたら、より英語と親しんでいるいまの若い人たちは、村上訳に感化されて、 『ライ麦畑』 というタイトルよりも、そちらの方になじんでしまっているのかもしれない。僕にはそのへんのことはよくわからない。いずれにせよ、たとえ春樹氏がなんという邦題をつけようとも、僕にとってサリンジャーが書いたホールデン・コールフィールドの物語は、いつまでたっても 『ライ麦畑でつかまえて』 のままだと思う。だから正直なところ、春樹さんにもそのタイトルで訳して欲しかった。
さて、そんな僕ではあるけれど、このレイモンド・チャンドラーの長編第五作めのタイトルに関しては、さすがに新訳を出すとしたら、原題どおり 『リトル・シスター』 にする以外、ないんじゃないかと思う。さすがにいまとなると 『かわいい女』 は、あんまりだ。本文中では「小さなねえちゃん」なんて訳されていたりするし、語感的な面では、すっかり翻訳としての賞味期限が過ぎている感がある。
マーロウが事件にかかわる三人の美女たちときわどい会話を繰り広げるシーンがたくさんあり、なおかつそのうちの二人は映画女優だという、これまででもっともハリウッドという華やかな舞台にふさわしい話だったこともあり、この作品については、ぜひ新しい訳で読んでみたいと思ってしまった。
なにはともあれ、これでチャンドラーの長編も残り二作。いよいよ次は春樹氏訳の 『ロング・グッドバイ』 ということに。
(Nov 04, 2007)
ストーリーを続けよう
ジョン・バース/志村正雄・訳/みすず書房
ジョン・バースの作品を読むのは、これが二冊目。とはいっても、一冊目の 『旅路の果て』 を読んだのは、もうおそらく十年以上前だから、すっかり内容は忘れてしまっている。それでもその作品に関しては当時、かなりの好印象を受けた。いかにも現代アメリカ文学らしい、知的で端正な恋愛小説といった感じで、とてもよかった。
そういう風に一冊読んで気に入った作家の場合、たいていは即座に、ほかの作品も読んでみようと思うのだけれど、不思議と十年以上も縁がないままだったのは、日本での出版事情によるところが大きい。
この人の場合、翻訳されている作品が決して多くない上に、そのうちの半分くらいは絶版で、しかもさらに残りの半分くらいは、単行本のサイズが四六判ではなかったりするのだった。
僕は英米文学好きのくせに、こと「もの」としての本に関しては、圧倒的に洋書よりも日本の本のほうが好きだ。装丁のスマートさや紙質、製本の繊細さでは、英米のものよりも日本の本のほうが断然、上だと思っている。
まあ、書籍自体は西洋から伝来したものなので、肥えた目で見ると、洋書こそブック・オブ・ブックスなのかもしれないけれど、少なくても僕個人は、何冊か所有している洋書とくらべて、日本の本のほうが好きだ。そして特にその中でも、四六判──もっとも普及している単行本のサイズ──のハードカバーが最高だと思っている。
なんといっても四六判というサイズは、日本人としての僕の感覚にばっちりとあっている。大きすぎず、小さすぎず、非常にバランスがいい。あれより大きくても、小さくてもいけない。四六判で上下二段組みで、びっしり活字が詰まっていて、表紙が素敵だったらば、もう言うことなし。僕はそういう本を手に取っただけで、幸せな気分になれてしまう。
ただ逆に、そのサイズを偏愛するあまり、それ以外の単行本に対しては、いまひとつ触手が働かないところがある。コレクター気質の持ち主なもので、並べたときにサイズが不揃いになるのが気に入らないのだと思う。スティーヴン・キングなんかは、バタ臭さを強調してか、単行本の大半が四六判ではなく、菊判というのかA5判というのか、とにかくひと回り大きなサイズだったりするけれど、あの人の場合、単行本が四六判中心だったらば、個人的にはもっとたくさん読んでいそうな気がする。
このジョン・バースも単行本のうち、約半数が四六判ではなくて、それが手を出しにくくしている要因のひとつだった。さらには絶版になっていて読めない作品多かったりする上に、「ポストモダニズムを代表する作家」だなんて言われていて、手に入る作品は「小説の表現としての可能性に挑戦した」みたいな、やたらと難しそうな作品ばかり。ずっと気になってはいたものの、そうしたつまらないマイナス要因が積み重なって、縁遠くなってしまっていたのだった。
そんな中、この作品に関しては、四六判で上下二段組300ページ、しかもポップな装丁は 『いまどきのこども』 の玖保キリコと、僕の好きな本の要素をばっちり満たしている。こうなれば、読まないわけにはいかない。ということで、このたび、十年ぶりにようやくジョン・バースと再会することになったのだった。まあ、といいつつ買ってから読むまでに、四年もかかってしまっているんだけれど。
肝心の内容はといえば、作者が「小説とはなんぞや」というテーマをいろいろな形で追求してみせた短編十二編を、短いつなぎのシーケンスを挟みこんで、数珠つなぎにしてみせた連作風の短編集。
やはり語り口は端正だから、けっして読みにくくはないのだけれど、それでも物語としておもしろいと言えるのは数編で、あとは大半が、小説という表現方法に対する知的挑戦といった感じの作品ばかり。興味深く読ませてもらったけれど、正直なところ、きちんと理解できたとは言いがたかった。可愛い表紙のわりには読みでがあるので、活字中毒の人以外には、あまりお薦めできません。
(Nov 08, 2007)
諜報指揮官ヘミングウェイ
ダン・シモンズ/小林宏明・訳/扶桑社ミステリー(全2巻)
なんでも第二次大戦の始まるころ、キューバに滞在していたヘミングウェイは、その土地で仲間を集めて、スパイ活動の真似事のようなことをしていたのだそうだ。自前のクルーザーでカリブ海を航行しつつ、ドイツの潜水艦を探したり、地元の民間人の多くにコネを作って、潜伏しているスパイの情報を集めたり──。そんな文豪の(ある意味、酔狂な)活動に、FBI長官のJ・エドガー・フーヴァーも監視の目をくばっていたという。ヘミングウェイの伝記やFBIの公開文書にその辺のことが記されているらしく、そんな「事実は小説より奇なり」を地でゆく記述におおいに刺激されたダン・シモンズが、その史実をフィクションに仕立て上げてみせたのがこの小説。
作品の冒頭には 『アーネスト・ヘミングウェイ伝』 からの引用がある。それによると、ヘミングウェイの隠密作戦チームには八人のメンバーがいたとのことで、その顔ぶれを紹介した文章の終わりは、以下のようになっている。
「そしてもうひとり、ルーカスと呼ばれていた寡黙な男は、その名前以外、だれも彼の出自を知らなかった」
ダン・シモンズはこの正体不明の男を主人公に仕立て上げ──彼はFBIがヘミングウェイのもとへ送り込んだ特殊工作員という設定──、ヘミングウェイのキューバでの活躍を、ミステリ仕立ての冒険活劇として描き出してみせた。巻末の著者のコメントによると、この小説で描かれるヘミングウェイ絡みのエピソードの95パーセントは真実なのだそうだけれど、それってマジですかと疑いたくなるくらいに派手な娯楽大作に仕上がっている。当時、ヘミングウェイが親交を持っていたイングリッド・バーグマンやゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリッヒ、当時はイギリスの諜報部員だったという007シリーズの生みの親、イアン・フレミングなど、著名人が何人も登場するのにも、ミーハー心を刺激されるし、これまた博覧強記のダン・シモンズらしい、なかなかおもしろい小説だった。なんでもキューバには、当時ヘミングウェイが住んでいた屋敷がそのまま博物館として保存されていて、この小説のなかで活躍するヘミングウェイの愛艇、ピラール号も展示されているのだそうだ。ちょっと見にいってみたくなった。
それにしても 『諜報指揮官ヘミングウェイ』 という、いまいち垢抜けない邦題はどうにかならなかったものだろうか。原題どおり 『クルック・ファクトリー』 ──「悪党工場」という意味で、ヘミングウェイが自らの組織につけた名前──としたのでは、内容がうまくアピールできないから、タイトルにヘミングウェイの名前を盛り込みたかったのはわかるけれど、それにしても、せめてもう少し魅力的なタイトルをつけて欲しかった。こんなタイトルじゃ、まるで読書欲をそそられない。ダン・シモンズの作品じゃなければ、まず手にとっていないと思う。
(Nov 11, 2007)