1998年のコンサート

Index

  1. エレファントカシマシ @ 日本武道館 (Jan 3,4, 1998)
  2. ソウルシャリスト・エスケイプ @ 日清パワーステーション (Mar 4, 1998)
  3. U2 @ 東京ドーム (Mar 5, 1998)
  4. ローリング・ストーンズ @ 東京ドーム (Mar 14, 1998)
  5. エレファントカシマシ @ 渋谷公会堂 (Apr 25, 1998)
  6. ソウル・フラワー・ユニオン、スピーチ @ クラブ・クワトロ (Jul 10, 1998)
  7. エレファントカシマシ @ 日比谷野外大音楽堂 (Aug 22, 1998)

エレファントカシマシ

コンサート1998日本武道館“風に吹かれて”/1998年1月3,4日/日本武道館

明日に向かって走れ ― 月夜の歌

 すでにあの日から3週間が経過してしまっている。去年のもの悲しいブレイクの結果として実現した2度目の武道館ライブ。
 エレカシとしては、アクト・アゲインスト・エイズへの出演も含めると、3度目となるこの会場のステージだった。僕らがここで彼らを見るのも3度目になる。
 初めて彼らをこのホールで見た時、用意された席はアリーナの三千のみだった。あれから7年を経て、ふたたび彼らはこの会場に戻ってきた。今度は会場すべてを観客で埋め尽くして──。まずはこれだけのファンを新たに獲得したという事実を祝福しておきたい。心中の複雑な思いはひとまず置くとして。
 新年早々二日続けて開かれたのこのコンサートに、僕らは両日とも足を運んだ。初日の席はステージ真正面、1階席の前から3列目。1階席ながら、前のお客さんが立たずにいてくれたので、最後まで坐ったままで見ていられた。翌日はアリーナ、ステージに向かって左手ということで、終始立ちっぱなし。
 本来ならばライブなんてものはスタンディングがあたりまえだけれど、エレカシの場合、座ったままで見てきた時期が長かったので、立って見ることを強いられると、ちょっとばかり複雑な気分になる。しかも方向転換のせいで、ダンス・ミュージックとしての機能性がやたらと低い昨今だ。いまさらどうしてこんな音楽を立って見ないといけないんだと文句のひとつも言いたくなる。
 なにはともあれ、エレファントカシマシ、7年ぶりの武道館公演。
 この日はまず、オープニングナンバーがふるっていた。7年前のそれは 『夢のちまた』 だった。今回はごく普通に 『明日に向かって走れ』 なのだろうと思っていた。昨年後半のコンサートがそうだったから、多分そうだろうと。
 ところがこの予想が見事に裏切られる。オープニングを飾ったのは、こともあろうか 『奴隷天国』 だった。
 正直言ってこの一曲にはかなり驚かされた。そして、とても嬉しかった。
 この 『奴隷天国』 という曲は、かつての宮本の表現の過激な部分がもっともはっきり表れた楽曲のうちのひとつだ。それを、さらなるポピュラリティの獲得を目指すはずの新年最初のコンサートで冒頭に持ってきた。そんなバンドの挑発的な姿勢が、なにより嬉しく、とても痛快だった。なにしろ客席に向かって、「なに笑ってんだよ、おめーだよ、そこの」と罵倒するという、とんでもない曲だ。それを──宮本のエキセントリックなキャラクターとせつない楽曲がお目当ての──最近の観客で埋まった武道館で、最初にぶっ放してきたんだから、盛りあがらないはずがない。
 とはいっても、そうした過激さがバンドに、かつての低迷をもたらしていた感も否めない。宮本もいまとなると、それをしっかり把握しているのだろう。この曲が終わるや否や「や、驚きましたか」と会場に愛想を振りまいていた。ヘビーなテーマの楽曲を、表現の上ではヘビーなまま、キュートな笑顔でラッピングして、さあどうぞと差し出してみせたこの日のオープニングは、これからのエレカシの活動に期待させるに十分だった。今年はやってくれそうな予感を感じさせてくれた。
 ただし、残念なことに、そんな特別な感慨を抱かせてくれたのは、この一曲目だけだった。そのあとは終始、最近のエレカシに顕著な、悪くはないんだけれどなにかいまひとつもの足りないという感覚に終始した。
 選曲やステージ構成の問題もある。2曲目はいまやすっかりライブで2曲目に演奏されるのが定番になってしまった感のある 『夢を見ようぜ』 だし、その後に続くのが 『明日に向かって走れ』 『四月の風』 『孤独な旅人』 だ。この展開はあまりに型にはまり過ぎてしまっている。そもそも、やはりそれらの新曲群がライブではいまいち盛りあがらないのが致命的だ。せっかく熱く始まったコンサートが、3曲目、4曲目と続いていくうちに徐々にヒートダウンしてしまったような印象があった。
 このあとでひさしぶりに 『デーデ』 と 『星の砂』 が続けて演奏された。かつては「なんでこの2曲を必ず続けて演奏するんだろう」と、そのあまりのワンパターンさに食傷気味だったこの昔懐かしいメドレーさえ、いまとなると、その前の新曲群よりもよほど新鮮だった。どうせなら前半は往年の勢いのあるナンバーで、{あお}れるだけ煽って欲しかった。
 その後、コンサートはアルバム 『東京の空』 からの3連発──去年の野音の時と同じ──や、珍しいところでは今回のベスト盤でデビュー以来、初めて日の目を見た 『ポリスター』 ──宮本は 『ポリススター』 と紹介していた──、細海魚さんをゲストに迎えた 『寒き夜』 、そしてひさしぶりの 『珍奇男』 というメニューで展開してゆく。個人的には大好きな 『寒き夜』 が聴けて感激、と言いたいところなのだけれど、どういう訳かこの日は心に届かなかった。残念ながら、ひさしぶりに聴かせてもらった 『珍奇男』 からも、以前ほどのダイナミズムが感じられなかった。
 本編終盤はこのところのステージの定型通り。イントロがやや間の抜けた感じで始まる 『かけだす男』 から、アルバム 『ココロに花を』 のアップテンポなナンバー3曲を並べ、 『戦う男』 と 『今宵の月のように』 で終わる展開にはなんの新鮮さもなかった。とくに二日目は 『かけだす男』 の途中で宮本のギターの弦が切れたにもかかわらず、それを無視して突っ走った結果、ひどい演奏になってしまっていた。最近のライブの白眉である 『うれしけりゃとんでゆけよ』 と 『戦う男』 が特にひどくてココロから残念だった。そのせいで前の日も見ておいてよかったと思わされたのが情けない。
 以降、アンコールとなるわけだけれど、今回のコンサートはここからがメインかもしれない。アンコール1曲目で、噂に聞いていたオーケストラがステージ後方に姿を現わしたのだった。曲はもちろん 『昔の侍』 。今までのエレカシでは考えられない豪華な演出に、今回の武道館に対する意気込みが伝わってきた。
 ただし、じゃあそれが効果的だったかというと、かなり疑問だった。武道館という特別な会場でのコンサートということで、特別なアトラクションを用意したんだろうけれど、それが空回りしてしまった感じ。正直なところ、あまり出来はよくなかった。基本的にとっちらかった彼らの演奏が、オーケストラの音とあうわけがない。正月早々、この一曲のためだけに集まったオーケストラの人たちが可哀相な気がしてしまった。
 そのあともアルバム 『明日に向かって走れ-月夜の歌-』 からのナンバーが4曲続いた。そして前回同様、宮本の声が出なくなってきているという事実に心を痛める。特に 『恋人よ』 と 『風に吹かれて』 という、このアルバムの売りである楽曲にその傾向が顕著なのだから悲しくなってしまう。見ていてちょっとばかり痛々しかった。
 一度目のアンコールはさらに 『星の降るような夜に』 と 『ファイティングマン』 で終了。そして2度目のアンコールで 『悲しみの果て』 『さらば青春』 『赤い薔薇』 の3曲を聴かせて、98年の幕開けを飾るエレファントカシマシの武道館公演は無事──かどうかはともかくとして──幕を閉じたのだった。実に2時間半に及ぶ長丁場だった。僕が初めて見た頃の、1時間前後のライブですべての力を出しきっていたエレカシと比べると、ずいぶん持久力がついたものだと思う。表現者としての姿勢が変ったせいもあるんだろうけれど、これはこれで大きな成長の証しだろう。
 ただし、時間が長くなったとはいえ、それで満足度が増したかというと、やはりそんなことはない。僕にとっては、昔の短かったライブの方が、より中身が濃かった印象がある。正直言って、2時間を超えるステージを見せるには、まだまだプレイヤビリティが低すぎると思う。同じ武道館で見た奥田民生のライブと比べると、その辺の力量の差はあきらかだ。ベテランのミュージシャンがバックを固める民生さんと比較するのも酷かもしれないけれど、アーティストとしての存在では決して引けを取らないバンドだと思っているので、やはり期待するものも大きくなるのは仕方ないのだった。
 ともかく、そんなわけで、可もあり不可もあるという内容の新春武道館2デイズだった。まだ書き足りない気もするけれど、そろそろ言葉に詰まってきたので今回はこれでおしまい。次は4月に渋公だそうだ。
(Jan 24, 1998)

ソウルシャリスト・エスケイプ

1998年3月4日/日清パワーステーション

LOST HOMELAND

 いやはや、つらいライブだった。わが人生において、これほどまでにつらいコンサートは初めてだった。昼間に仕事の関係で、東京ビッグサイトで開かれていたコンピュータ・ショーを見て回っていたおかげで、ライブが始まる時点ですでに足腰がヨレヨレ。おかげで途中から疲れが腰にきた。ライブで腰が痛くなったのなんて初めての体験だったので、ちょっとばかりショックだった。おれも歳だなあと思う。
 まあライブ自体にも、かなり不満はあった。中川敬の歌ものはともかく、オールスタンディングのライブハウスで、大隈さんやサム・ベネットのインスト・ナンバーを聴かされるのは、正直つらかった。そういうものはちゃんと席の用意された空間でやって欲しい。全体の四分の一近くを占めた印象のインスト・ナンバー群は、バンドマンがソロで活動する場合にありがちな失敗の典型だと思った。
 いかに本人たちが新人バンドと言い張ったところで、僕ら観客はそうは思わない。多くのファンは、歌のあるバンドだからこそ、ソウル・フラワーを愛しているんじゃないだろうか。少なくても僕はそうだ。インストが好きなら、それにふさわしい音楽をもっと聴く。あくまでロックにこだわるのは、そこに言葉があるからだ。言葉を用いない音楽は、そういう音楽にふさわしい空間を用意して、そういう音楽にふさわしい観客に対してふるまわれるべきだ。
 中川敬ともあろう人がそんなこともわきまえず、自らのバンド仲間に花を持たせるために、ロックを聴くために集まった客に対して、ダンス・ミュージックとは呼べないインスト曲を何曲も披露してしまったという事実には、少なからずがっかりさせられた。
 彼にしてみれば、自分が歌を歌わなくても、これはこれでいい曲聴かせたるんやから構わんやろ、これが俺の新しいバンドなんや、たまにはこういう曲聴いてみるのもいいで、とでもいうつもりだったのだろう。
 悪いけれど、それは間違いだ。僕らはロック以外の音楽のよさがわからないわけではない。ロックでなくてはならないと思うからこそ、ロックを聴いているのだし、わざわざ高い金を払ってまで、コンサート会場に足を運んでいるんだ。
 大隈さんたちの演奏がつまらなかったというつもりはない。ただ僕個人は、前述のような疲労感もあって、ロック以外の音楽を受け入れることのできる状態ではなかった。
 僕は中川敬がソウル・フラワーを離れてどんな歌を聴かせてくれるのかを知りたさに、疲れ切った体を引きずるようにして、新宿まで出向いた。その期待はある程度は叶えられ、ある部分は大きく裏切られた。彼にしてみれば、そんなのはお前の勝手やということになるんだろう。これはソウル・フラワーではなく、まったく新しいバンドなんやと。そのバンドがどんなスタイルで音楽を奏でようとこっちの自由だと。
 でも正直いって、僕を含めた大半の観客は、インスト・ナンバーがなければ、何倍も嬉しかったろうと思う。それはラストナンバーの 『外交不能症』 における異常な盛りあがり方を見れば、あきらかだ。僕ら観客がソウルシャリスト・エスケイプというニューバンドに求めていたのは、センスのいいクロスオーバー・ミュージックなんかではなく、ソウル・フラワーという共同体から離れて、ニューエストの頃のように自由で新鮮な音をたたき出す中川敬の姿だったのだから。
 いまになってみると、逆にそれがわかっているからこそ、中川敬はこうしたスタイルのコンサートにせざるをえなかったのかなという気もする。
(Mar 18, 1998)

U2

ポップマート・ツアー1998/1998年3月5日/東京ドーム

ポップ

 念願叶ってのU2のライブだったのだけれども。
 これがソウルシャリスト・エスケイプの翌日で、まだその疲れが取れていなかったために、かなりつらいコンサートになってしまった。この日はなんと、僕としては東京ドームでは初めてのアリーナ席だったのもわざわいした。当然、ライブが始まってからは、最初から最後まで立ちっ放し。おかげで前日と同じように疲れがまたもや腰にきてしまった。後半は踊るどころか立っているのがやっとというていたらく。非常に楽しみにしていただけに、本当に残念だった。
 いやしかし、開演前にアリーナの席につき、初めて見たステージの印象は大変地味だった。すでに何ヵ月ものツアーを経てきているせいか、全体的にかなり薄汚れている。そのせいでとてもみすぼらしかった。
 まずは目に入るのがステージの背景全体に広がるタワーレコード・カラーの電光スクリーン(東京ドームだからオーロラビジョンですかね)。ここにはタワーレコードのロゴの代わりに、「POPMART」の文字が浮かんでいる。でかいことはでかいけれど、電気が入っていないのでかなり地味だ。
 このスクリーンをバックにして、ステージ中央には、マクドナルドのシンボルマークの「M」を半分にちょん切ったような巨大なアーチが備えつけられている。これはおそらく、アルバム 『POP』 の裏ジャケットのデザインを実物化したものだろう。ステージ右隅にはこれまたかなりの大きさのレモンのオブジェがあり、これを貫くピンが天井へと傾いて伸びている。その先には土星を見立てて輪をかぶったオリーブらしき物体が突き刺さっている。ステージ上の装飾といえばわずかこれだけ。ZOOTVに負けない最高に派手なコンサートを期待していたので、この地味さにはやや拍子抜けした。
 6時半という、平日にしては通常より早めの開演時間は、当然のごとく裏切られる。なぜってくらいの大音量でかかっていた 『ビター・スイート・シンフォニー』 と 『ミッション・インポッシブル』 が鳴り止んで、ようやく客席の明かりが落ちたのは、予定より30分遅れてのことだった。
 U2のメンバーはプロレスラーやボクサーのようにスタッフに引き連れられ、アリーナ席のあいだに設けられた花道を通ってステージに上がっていった。僕らの席からわずか十メートル程度のところを通り過ぎたのだけれど、なんたって相手はU2。スタッフに混じっている上に地味すぎて、誰が誰だかわからない。
 注目の一曲目は 『MOFO』 。この曲以降もステージ構成は、若干の差異を除けば、ほとんど 『ロッキング・オン』 で紹介されていた海外ツアーと変らなかった。意表を突いたのは、エッジのソロが 『サンデー・ブラディー・サンデー』 の弾き語りだったことくらいだろう。多分、アンコールの演出なんかも、ツアーのあいだ、ずっと同じだったんじゃないかと思う。
 で、いきなりそのアンコール。ステージ脇のレモン(実は超巨大なミラーボール)がステージ前方の小ステージまで移動してきて、それが真ん中から上下二つに割れて、中から4人が腰に手をあてたポーズで登場する。これで場内は爆笑と失笑の渦。演奏されるのは当然のごとく 『ディスコティック』 。この日、朝からこの曲が頭の中でリフレインし続けていた僕としては、その中央ステージでの音がいまひとつ小さかったのが残念だった。
 さらにこのあと、新作からの 『~ヴェルベット・ドレス』 でボノは観客の女の子ひとりをステージに引きあげて、チークダンスを披露。ここまでならありがちだけれど、さらに続く 『ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー』 では、この娘に膝枕をさせての熱唱するんだから、恐れ入った。
 これらの曲は本ステージではなく、客席に突き出した離れ小島ステージでこじんまりと演奏された。いきなりそんなアンコールを取り上げてしまったけれど、今回のツアーの見所はこうしたふざけた寸劇ではなく、これ以上はないというくらい徹底した、そのスタジアム・ライブにおける演出にあった。
 最初に書いた、ステージのバックに拡がる電光スクリーン。これがコンサートが開始した瞬間から、とんでもない映像を放ち続けたのだった。
 とにかくでかい上に手が込んでいる。東京ドームのバックスクリーンをそのまま覆い隠すほどの大きさのスクリーンだ。そこにライブ映像──素のままのものや、特殊効果をかけたもの──、ボノの口やエッジのギターのドアップ、CG、アニメーションなどが、せわしなく映し出される。まるでリアルタイムでビデオクリップを見ているかのような感覚に陥る。しかし、それは当然ビデオクリップなんかじゃない。そうした映像の手前には、現実の存在である、本物のボノの小さな姿があるのだった。これが2階席だったらまた印象はかなり違っていただろう。彼らの存在を肉眼で確認できる距離であったという点において、今回のライブがアリーナで見れたことは、なにより幸せだった。
 前回のツアーでU2は、いくつものTVモニターをステージ上に効果的に配し、その前でボノがロックスターや悪魔を滑稽に演じてみせることで、現在のスタジアム・コンサートのあり方を見事にデフォルメしていた。それはあとからビデオで見た僕に、来日公演を観にゆかなかったことを激しく後悔させるに十分な内容だった。
 今回のツアーで彼らは、画期的なその前回のツアーを超えるなにかを見せることを義務づけられていた。ロック界で一、二を争う誠実さを持つU2というバンドは、そうしたプレッシャーに対して、前回を凌ぐ容量の映像とバンドぐるみでの道化で答えてみせた。僕はそんな彼らを尊敬してやまない。
 今回のツアーに対する批判もあるらしい。でも、ストーンズの東京ドームを見終えたばかりの今の僕には、このポップマート・ツアーを非難する人の気持ちがよくわからない。あの日のU2のステージは、東京ドームという音楽には不利な会場で僕がこれまでに見たコンサートのうちで、間違いなく一番素晴らしいもののひとつだった。演出のど派手さを割り引いたとしたところで、あの日ドームに響き渡っていた音が、わずか4人のメンバーによって奏でられていたという事実の前になにが言えるだろう?
 たとえコンサートのハイライトが 『アクトン・ベイビー』 の曲であろうが、アンコールの最後を飾ったのがやたらと地味な 『ウエイク・アップ・デッド・マン』 であろうが、そんなことはどうでもいい。とにかくU2は素晴らしかった。
(Mar 19, 1998)

ローリング・ストーンズ

ブリッジ・トゥ・バビロン・ツアー1998/1998年3月14日/東京ドーム

Bridges to Babylon

 ローリング・ストーンズ、三度目の来日公演、なのだけれど。
 今回はとにかく音が悪かった。あまりに悪くて、なんだか遠くから覗き見しているような、情けない気分にさせられるライブだった。
 花火の爆音とともにかき鳴らされた今回のツアーの一発目は 『サティスファクション』 。でもって、いきなり場内は手拍子の嵐。そしてサビの大合唱。普段、僕が足を運ぶコンサートでは、あまりそういうことがないので、ちょっと意表をつかれた。そうか、こういうオーディエンスに支えられてのスタジアム6デイズなのか、と思う。
 なんにしろ、あれから2週間以上過ぎてしまったいまとなると、さすがにそのあとになにが続いたか、すっかり忘れている。個人的にうれしかったのは 『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』 『ギミー・シェルター』 とキースの 『ワナ・ホールド・ユー』 の3曲。インターネットでのリクエストで選ばれたらしい 『スター・スター』 もよかった。前回のドームでやたらと感動した 『ダイスを転がせ』 は、音の悪さのせいでイントロがよく聞き取れず、やはりいまいち。もっとも一番踊りまくっていたのは、やはりこの曲だったけれど。
 それにしても、インターネットでほかの日のセットリストを見ると、けっこう選曲が違っていてくやしい。 『ビッチ』 『アンダー・マイ・サム』 『イッツ・オンリー・ロックンロール』 『メモリー・モーテル』 『レット・イット・ブリード』 『クレイジー・ママ』 『ラスト・タイム』 、そして 『アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・メイク・ラブ・トゥ・ユー』 って……。おいおい、なんで僕の行った日にやってくれないんだと思ってしまうような曲名が並んでいる。僕の日の目玉は 『スター・スター』 だけのようだ。公演日の選択を失敗したかもしれない。
 特に──このところのスタジアム・ライブの定番といった感のある──アリーナ中央に設けられた小ステージでの選曲、そのわずか3曲の中に、あまり好きじゃない 『ユー・ガット・ミー・ロッキング』 が含まれているのが一番残念だった。ほかの日はもっと古典的な曲なのに、なぜあの日だけそんな新しい曲をあのステージで? 週末がいけなかったか。
 やはりストーンズほどのキャリアを誇るバンドのライブを一日見て済まそうというのが間違いかもしれない。しかしながらチケット一枚一万円の世界では何日にも行くのは苦しい。まあ今回は音が最低だったし、一度見ただけでよしとしようと、自分を慰める今日この頃だった。
(Mar 30, 1998)

エレファントカシマシ

コンサート1998春/1998年4月25日/渋谷公会堂

ココロに花を

 開場6時、開演6時半というのは随分余裕のないセッティングだなと思っていると、案の定というか、なんというか。開演10分前に渋公前に着いた僕を待っていたのは、入口前の長蛇の列だった。しとしと雨の降る春の宵、まったく嫌になる。チケットも普通郵便で送ってくるし、ディスクガレージというプロモーターはどうにもなってない。
 そんな風に入場が遅れていたので開演も押すのだろうと思っていたのだけれど、コンサート自体は予定から十分遅れただけで始まった。席に着いてからほとんど間もなく、いきなりという感じだった。ステージに現れた宮本の挨拶の声がやたらとでかく感じられたのは、前から8列目、ステージ向かって左の隅から3番目という席のせいだった。とても左手のスピーカーに近い。おかげで最近の押さえ気味な音量にもかかわらず、ひさしぶりに大音量を満喫できて、なによりだった。
 この日も一曲目が 『明日に向かって走れ』 、そして次が 『夢を見ようぜ』 という定番のオープニング。なんとも変わり映えしない始まりだったけれど、そこからの展開がこれまでとはやや異なっていた。
 まずは 『風に吹かれて』 を披露。声域的にきついこの曲を、まだまだ声のよく出る早めの時間帯に持ってきたのは正解だと思った。そしてそのあと、「『ココロに花を』から3曲続けてお届けします」と紹介されて、それに続いた3曲は 『孤独な旅人』 『かけだす男』 『おまえと突っ走る』 だった。 『孤独な旅人』 はともかく、あとの2曲は比較的クライマックスで演奏されることが多かっただけに、それを前半に持ってきたのには、意外性があってよかった。
 さらにこのあとに、ひさしぶりの 『愛の日々』 が続く。そんな風にこの日はまるで、 『ココロに花を』 の発表会の様相を呈していた。このアルバムで取り上げられなかったのは 『ドビッシャー男』 と 『流されてゆこう』 だけだ (カットされたのが個人的に好きな2曲だったのが残念)。その一方で 『明日に向かって走れ』 からは先の2曲に加え、 『赤い薔薇』 『せいので飛び出せ!』 『今宵の月のように』 『月夜の散歩』 『戦う男』 の7曲のみ。さらにシングル 『さらば青春』 と新曲 『はじまりは今』 で、以上がこの日のすべてだった。
 つまり 『珍奇男』 はともかくとして 『ファイティング・マン』 も 『デーデ』 も演奏されていない。フルライブでこの2曲なしなんて、僕が知っている限り、バウスシアター5デイズを除けばエレカシ史上初だろう。とにかく事務所移籍後の曲だけで押し切った2時間足らずだった。これは随分と大胆な試みに思えた。
 過去の楽曲をあえて外した選択には賛否両論あるだろうけれど、僕は意外なことに、けっこう好意的に受け止めている。今までラストに持ってきていた 『赤い薔薇』 をあえて中盤で聴かせ、最後を 『戦う男』 で締めてみせた演出は僕の趣味にあっていたし、古い曲を排したことで全体的に統一感のあるコンサートになっていたと思う。中途半端な印象が強かった最近のライブの中では一番よかったんじゃないかと思った。
 ただし最近の曲ばかりで統一感があったということは、それはつまり、いまひとつ盛りあがれないエレカシという昨今のイメージが全開だったということでもある。僕は近頃のエレカシならばそれも仕方ないかと思っているので、それなりに満足できたけれど、昔ながらの力強さを求めるファンには、まるで満足のいかない内容だったことだろう。実際、会場を出たあと、憤懣やる方ないといった調子の女の子の声を耳にした。
 この日のライブで一番盛り上ったのは、昔のエレカシを引きずったようなハードさが売りのエンディング・ナンバー 『戦う男』 だった。それはこの曲が昔からのファンにとっての唯一のオアシス的存在だったからだろう。けれどもその一方では、ヒット曲 『悲しみの果て』 や、和気あいあいとした勢いだけの 『せいので飛び出せ!』 もまた、それなりにファンの支持を受けていたようだった。そして今のエレファントカシマシは、確実に後者のファンのためのバンドになりつつある。この日のコンサートは、そうしたエレカシの新しい方向性を、 『ファイティング・マン』 さえを封印するという形で、今までになくはっきりと打ち出した点で、新たな出発点となるライブなのかもしれない。
 僕らの前の席には、中学生くらいの女の子と、その母親らしい小太りの中年女性がいた。この二人がまるで友達同士のように和気あいあいとライブを楽しんでいたのが印象的だった。宮本の一挙一動に盛りあがるその様子を見ていると、この路線はこの路線で愛している人がいるんだということが実感できた。かつてのコンサートでは考えられない風景だったから。僕がこの日のライブに好印象を受けたのはこの二人の影響も大きかった。
 それにしてもやはり、との思いは否めない。 『さらば青春』 で宮本が歌詞を忘れて演奏を止めて改めて歌い直す──しかも結局思い出せずに鼻歌になってしまう──なんて場面を見せられるとなおさらだ。どの曲だか忘れたけれど、もう一曲歌詞を間違えた曲があった。昔なら絶対にそんなことはなかった。彼にとって新しい楽曲の歌詞の存在がいかに軽いかをまざまざを見せられた場面だった。今の路線を続けてゆくつもりにしろ、新しい浮ついた歌詞の曲に対しても、これまでのように真剣に取り組んで欲しい。
 それにもっとギターもきれいな音を出せるようにならないと。フレーズ自体は想像力に富んでいるにもかかわらず、なんで彼はあんなにもつたない音を出すのだろう。不思議だ。よい曲をとか言いながら、よい音はいつまでたっても出せるようにならない。故意にあれでいいと思っているなら大きな間違いだと思う。ポップを目指すならば、もっときちんとして欲しい。
 確かに今回のコンサートを、僕は楽しんで見ることができた。しかし二日間あったうち、都合で一日しか見れなかったことを別に残念とは思わなかった。逆に用事があってよかったとさえ思った。かつては二日続けてのライブで一日を見逃したことを後悔させられたこともあった。けれど今のエレカシでは絶対そんなことはないだろう。
 次は8月に恒例の野音が2日あるという。なんで今年は秋じゃないのか不思議だけれど、個人的には妻が出産を控えている今だから、かえってその方が好都合ではある。この二日間に足を運んで、エレカシ三昧だったこの何年かを締めくくりたい。今後は一度にそう何日も見に行くだけの経済力はなくなるし、そもそも見に行く必要もなくなるかもしれないから。
(Apr 29, 1998)

ソウル・フラワー・ユニオン&スピーチ

1998年7月10日/クラブ・クワトロ

ELECTRO AGYL-BOP

 なんちゅうか、やはり非常に疲れるライブだった。ソウル・フラワーが絡むといつもこんなだ。ともかくもうジョイント・コンサートを観にゆくのはやめたほうがよさそうだと思わされた三時間半だった。
 ひさしぶりに足を運んだクラブ・クワトロは、いつだか妻に聞いた通り、改装して受付を一階下に移していた。それで広くなったかというとそうでもない。なんのための改装かよくわからない。
 ソウル・フラワー・ユニオンをほかのバンドの前座として見るのは初めてだけれど、だからといって特に変わりなし。内海陽子が欠けていて、代わりに伊丹英子と彼女のそっくりさんが加わっていた(英坊はちゃんと別にいる)。それを除くといつも通りのソウル・フラワーだった。演奏には問題なし。のりもよい。選曲は 『エレクトロ・アジール・バップ』 が中心で、ラストの 『もののけと遊ぶ庭』 では、さすがのハイテンションを見せつけてくれた。
 ただ、やはり今の民謡ミクスチャー路線には疑問符が否めない。特にこの日のように彼らのファンではなく、ヒップホップ系の音楽ファン中心の観客に対してどれだけアピールできたのかという観点に立てば、なおさらだ。それなりに盛りあがってはいたけれど、かといってファンでもなかった人が、これを契機にソウル・フラワーを聴くようになるとは、正直なところ、僕には思えなかった。
 僕自身はエレカシとの対バンでソウル・フラワーを初めて生で観て、その素晴らしい演奏に感動して、彼らのファンになった人間なだけに、そんな風に思えてしまうこと自体が、やはり少なからず残念だった。

HOOPLA

 さて、彼らの演奏が終わってからスピーチが登場するまでに四十五分もかかる。ひさしぶりに一人きりでライブに足を運んだ僕には、この待ち時間は非常に苦痛だった。スピーチが登場する頃には、待ちくたびれてしまって、もういいや、さっさと終わってくれという気分だった。ところがどっこい。
 このスピーチのライブがすごくよかった。
 ステージ構成はババオジェそっくり(本人?)のギタリストに五弦ベースを弾くベーシスト、ドラム、キーボード(&パーカッション?)、ディスコ風の男性ダンサーに女性コーラス二人、そしてスピーチの八人。当然、全員黒人。演奏はすべて生音だった(と思う)。ナチュラルトーンの音量抑え目な演奏が最初のうちはもの足りなかったのだけれど、スピーチのスタイルにはそれが見事にあっているようだった。
 なんたって、もとよりフレンドリーな雰囲気が持ち味のアーティストが、クワトロのような狭い空間で、日本ではそれほど知名度が高いとも思えない彼を見るためにわざわざ集まったファンの前でパフォーマンスを繰り広げるのだから、盛りあがらないはずがない。しかも 『ピープル・エブリデイ』 のような必殺のコーラスを持った楽曲の連発だ。狭いクワトロは終始合唱の渦。ソウル・フラワーの時とはまるで乗りが違った。この乗りのよさには驚いた。なんだ、集まったのはスピーチのファンばかりだったかと思った。
 場内を左右に分けてのコール・アンド・レスポンスなども、エレカシの比じゃない。比べるのが間違っていると思わされんばかりの反応のよさ。そしてやはり楽曲がいい。耳触りがよさ過ぎるくらいにつぼを抑えている。新譜の曲に加えて 『レボリューション』 『テネシー』 『ピープル・エブリデイ』 『ミスター・ウェンデル』 とアレステッド・ディベロップメントのヒットチューンも一通り並べてみせた。これで盛りあがらないはずがない。 『テネシー』 には特に痺れた。あの曲はくる。
 結局、疲れきっていた僕も、三度目のアンコールまでつきあってしまった。二度目のアンコールではボブ・マーリーの 『Redemption Song』 を聴かせてくれた。あまりにはまり過ぎていて、しばらくはそれがカバー・ナンバーであることに気がつかないくらいだった。
 アンコールはいつ終わるとも知れず続いた。一人ずつメンバーが姿を消していく形でフェードアウトしていく演出のせいもあっただろう。きちんとスピーチの別れの言葉を聴かないでは帰れないぞという雰囲気が会場に満ちていた。
 三度目のアンコールのあと、演奏を終えてから、ようやくスピーチが「グッドナイト」というのを見届けて、僕は会場をあとにした。充分満喫していたし、スピーチがステージに姿を現わしてから二時間が過ぎていた。その辺が僕の体力の限界。やはり仕事帰りにネクタイを締めて見るのはつらかった。
 なんにしろ、僕の妻が大喜びしそうな楽しげなライブだった。妊娠していなかったらぜひ見せてあげたかった。
(Jul 20, 1998)

エレファントカシマシ

恒例!夏の野音'98/1998年8月22日/日比谷野外大音楽堂

明日に向かって走れ ― 月夜の歌

 去年はその客の入りにたまげたものだったけれど、この一年でエレカシのライブ会場におけるそうした風景もすっかり見慣れたものになった。
 9度目の野音。今年の席はステージ向かって左手の隅の方。ステージも遠いし、あまりいい席じゃない。僕の妻に言わせると、「これまでのファン歴の中で最低の席かも」とのことだった。これでファンクラブの優先予約なんだから恐れ入る。
 立ち見までいる会場内を見回すと、大半が十代か二十代前半の女の子のように見える。しかもコアなロックファンという雰囲気ではない。多分、音楽ファンの中でも最も移り気なオーディエンス。今のエレカシはそんな女の子たちに支えられている。盛況の中でなんとも複雑な気分になる。
 この日のコンサートは、意外にも 『ファイティング・マン』 で幕を開けた。盛りあがるのが当然の選曲なのだけれど、若干いつもよりスローだったためか、あまりがーんとくる感じはなかった。それはアンコール一発目の 『男餓鬼道空っ風』 も同様で、この日のエレファントカシマシの演奏には、全体的になんだかいつもより弛緩した印象があった。
 オープニングナンバーのあとに続くのはいつものとおり 『夢を見ようぜ』 。芸のない曲順にやれやれと思っていると、次にいきなり新曲がやってきた。そのタイトルが 『トゥナイト』 だと。おいおい、佐野元春やシャネルズじゃないんだからさぁ。
 この日、この曲を含めて実に5曲の未発表曲が披露された。ライブ初お目見えの 『涙の数だけ』 も含めると6曲。そうした面では意欲的だったと言える。ただし、この新曲群がなかなか情けのない出来なのだった。
  『トゥナイト』 の後、 『四月の風』 と 『孤独な旅人』 を挟んで第二の新曲が登場するのだけれど、このナンバーのタイトルが(多分) 『グッバイ・ママ』 。いきなり英語のタイトルの連発。しかもその語彙が貧弱。歌詞もこのところのパターンから一歩も出ていない印象でがっかりさせられる。
 ただし、曲調だけは別だった。これらの曲において宮本は、今までの彼にはなかったタイプのシャープなギターカッティングを聴かせてくれる。
 これまでの宮本主導のギターサウンドというのは、独特のリフを効果的に使ったドコドコした印象の曲が多かった。最近の曲で言うと 『うれしけりゃとんていけよ』 や 『涙の数だけ』 なんかはそんな宮本節の典型的な例だ。
 ところが 『トゥナイト』 と 『グッバイ・ママ』 の二曲は、どちらもそんな今までの宮本節にあてはまらない。かといって 『悲しみの果て』 や 『孤独な旅人』 のように単純なコード・ストロークでもない。いたってまっとうな現在形のロックンロール、と言えばいいのか。アンコールの一番最後に演奏された曲などもイントロだけ聴くとニール・ヤングの曲みたいだった(どこが現在形だ)。前に言っていた「普通にやりたい」という発言がこういう形を取って現れたのだろうか。具体的に上手く書けないけれど、とにかくなにげなく新機軸だと思った。
 その後に演奏された新曲はどれも、アレンジにはかなり気を使っている感じが伝わってきた。今回のライブで唯一好意的に受け取れる部分があるとしたならばその点だ。バンドとしてかなり音造りに意識的になってきていると見た。次のアルバムでは、それがいい形で結実するよう、期待したいと思う。
 中盤はまた、細海魚さんをゲストに迎え、 『誰かのささやき』 『いつものとおり』 『さらば青春』 などが披露される。今回のライブで個人的に一番よいと思ったのはこれらの曲だった。ただ、情けないことに、僕にはこの中盤あたりの曲順が全然記憶にない。 『珍奇男』 『おまえと突っ走る』 『かけだす男』 なんかがこの辺で鳴らされている。
 そして来月発売のニューシングル収録の2曲、 『夢のかけら』 と 『ココロのままに』 が演奏されたのも、確かこの辺だった。後者はテレビ朝日の甲子園特番テーマソングとして耳にしていた時から、かなり期待していた曲だった。これは期待を裏切らない。典型的な宮本節だからだ。ところが問題は 『夢のかけら』 だ。この曲はちょっとすごかった。
 この新曲において、宮本はキャリアで初めて「愛してる」を連発し、真っ向からラブソングを歌ってみせた。コーラスから入るオープニングといい、最初のヴァースの「君は猫で/僕は嘘つき」という歌い出しといい、もうすべてが今までのエレファントカシマシという文脈から外れている。スピッツかミスチルのパクリかと思った。
 この曲自体が悪いという気はない。しかしこんな曲、シングルに切るなよなぁ。売れても売れなくても格好悪いぞ、これは。三十路のファンとしては今さらこんな曲聴かされても困ってしまう。
 アンコールの一番最後に披露されたタイトル不明の新曲も歌詞がすごかった。
 「町をさまよう男/人恋しくてさ/~(不明)~女/愛を求めて」
 なんだよ、それ……。
 とにかくやたらと歌謡曲化している。こんな曲を正式に発表されてしまったら、しらばくは恥しくてエレカシのファンを名乗れない。僕らが聴き続けてきたエレファントカシマシはこんなバンドじゃないぞ。
  『夢のかけら』 のインパクトがある種あまりに強すぎたのか、ライブの本編がどの曲で終わったのか全然思い出せない。初めのアンコールはコール・アンド・レスポンスつき 『男餓鬼道空っ風』 、 『デーデ』 ~ 『星の砂』 のメドレー、 『星の降るような夜に』 と 『涙の数だけ』 。もしかしたらこの 『涙の数だけ』 が本編のラストナンバーだったかもしれない。お馴染みの 『デーデ』 メドレーはこうしてアンコールに持ってくるのが今の状況においては一番正しいように思う。キャーキャー騒ぐ女の子たちを前にしてこの2曲を聞くのは、すごい違和感だった。言葉がグサグサきた。
 二度目のアンコールには 『悲しみの果て』 『はじまりは今』 『今宵の月のように』 とシングルを3曲並べてみせた。そしてその後にもう一度だけ出てきて、「新曲でいいですか」と挨拶してから、先に延べたニール・ヤング的なアレンジに歌謡曲じみた歌詞を乗せた新曲を披露。こうしてこの夏の野音は幕を閉じた。
 新曲5曲の方向性も意外だったけれど、それ以上に、アルバム 『明日に向って走れ』 から 『今宵の月のように』 以外の曲が選ばれていなかったのがなによりも意外だった。彼らにもあのアルバムの曲はライブ受けしないということがわかったのか、それとも単にあの作品が失敗作だったことをいまさら認めたのか。理由はどうであれ、なんだか寂しい話だ。
 今のエレカシなら、もう当分ライブを見る必要はないと思う。この先のアルバム2、3枚、無視しても構わない気もしてきた。かといって本当にそうするわけにはいかないところが困ったバンドだ。まいる。
(Aug 24, 1998)