Coishikawa Scraps / Books

2025年10月の本

Index

  1. 『ハックルベリー・フィンの冒けん』 マーク・トウェイン
  2. 「『ハックルベリー・フィンの冒けん』をめぐる冒けん」 柴田元幸
  3. 『ミスコン女王が殺された』 ジャナ・デリオン
  4. 『暗闇に戯れて 白さと文学的想像力』 トニ・モリスン

ハックルベリー・フィンの冒けん

マーク・トウェイン/柴田元幸・訳/研究者

ハックルベリー・フィンの冒けん

 最近話題の『ジェイムズ』に興味があるので、それを読む前に、せっかくだから長いこと積読に入りっぱなしだったこれを読んでおくことにした。

 アメリカ文学史上最重要作とも目されるマーク・トウェインの代表作の柴田元幸氏による新訳版。

 語学力が小学生低学年レベルのハックルベリー・フィンによる語りを日本語で再現するにあたって、柴田先生はできる限り、難しい感じは使わないという方針を貫いている。

 その点はおそらくほかの翻訳家の手による旧訳でも似た傾向だろうと思うんだけれど(僕が過去に読んだのは岩波文庫版)、決定的に違うのはその漢字の使い方。

 『ハックルベリー・フィンの冒けん』という題名にそれが顕著に表れている。

 「冒険」でも「ぼうけん」でもなく「冒けん」。

 「冒険」という熟語はハックが使うには難し過ぎるけれど、「冒」くらいは漢字で書けそうなので、あえて「ぼうけん」と開かず、「冒けん」とする。

 「書ける漢字は漢字で書いたほうが頭よさそうじゃん?」という子供っぽさの表れとして、なるほど、確かに子供ってそういうところあるよねとは思うのだけれども。

 結果としてできあがった翻訳の読みにくいのなんの……。

 「未亡人」が「未ぼう人」、「利子」が「利し」、「判事」が「判じ」、「時間」が「時かん」――そんな調子で全編が統一されている。

 こういう漢字の開き方をした文章が、ここまで読みにくいとは思わなかった。

 一人称が「おら」だったり「おいら」だったりする旧訳に比べて、「おれ」を採用した柴田訳は、語り自体はとても現代的な感触でさすがなのだけれど、とにかくこのブロークンな熟語の数々に最後まで慣れることができなかった。

 とにかく僕にとってはこの翻訳は文体がすべて。

 そんな独特の語りを楽しもうって余裕と心意気がある人には薦めの逸品です。

(Oct. 1, 2025)

『ハックルベリー・フィンの冒けん』をめぐる冒けん

柴田元幸・編著/研究者

『ハックルベリー・フィンの冒けん』をめぐる冒けん

 柴田元幸先生による新訳版『ハックルベリー・フィンの冒けん』の副読本。あまりに僕を辟易とさせたあの翻訳がいかに生まれたかに興味があったので、せっかくだからこれも読んでおくことにした。

 第一章は小説の冒頭部分を原文と翻訳と対比させて説明したもの。第二章は『ハックルベリー・フィンの冒険』に関する書評等の引用。第三章はこの小説から派生して生まれたアメリカ文学作品の断片的な紹介。でもって第四章が『ハックルベリー』本編から割愛された二章の翻訳という内容。

 英文の引用があるので、横書き左開きのA5版ソフトカバーの本だけれど、第四章だけは普通の小説のように縦書きの右開きで、本書のうしろからさかのぼって読む変則的な構成になっている。

 そのうちの一篇『筏のエピソード』は『ハックルベリー・フィンの冒けん』の巻末あとがきで、柴田さんが「研究者のウェブサイトで公開する」と言っていた通り、ネットでも読めるけれど、本好きにとってはこうして紙で読めるのは嬉しい。

 とりあえず、『ハックルベリー・フィンの冒険』を大学の授業で学んだり、卒論のテーマに取り上げようって学生にとっては、願ってもない副読本だと思う。

 まぁ、僕にとっては、自分がいかに英語ができないかを痛感させられた、手痛い一冊だったりした。

 この本ではなく『ハックルベリー・フィンの冒けん』で知ったのだけれど、マーク・トウェインは僕の亡父と誕生日が同じだった。しかも生まれたのは九十九年前。あと一年ずれていれば百年できりがよかったのに……。ってまぁ、うちのお父さんはマーク・トウェインとか一度も読んだことがなさそうだったけれど。

 ちなみに僕が生まれたのは夏目漱石の命日の翌日で、それも漱石が他界したちょうど五十年後だったりするので、日米の文豪とのそこはかとない接点がそれぞれ微妙に的を外しているところが親子だなぁと思った。

 ほんとどうでもいい話でごめん。

(Oct. 4, 2025)

ミスコン女王が殺された

ジャナ・デリオン/島村浩子・訳/創元推理文庫/Kindle

ミスコン女王が殺された 〈ワニの町へ来たスパイ〉シリーズ (創元推理文庫)

 そのうち読もうと思っているうちに、前作から三年も過ぎてしまっていた『ワニの町に来たスパイ』シリーズの第二弾。

 なにが驚いたかって、僕自身は三年ぶりですっかり内容を忘れているのに、物語は第一作が終わった直後から始まること。まだルイジアナにきて一週間しかたってないのか!

 まぁ、主人公のフォーチューンは、身を隠すため、つかのまこの町にやってきたという設定なのだし、彼女が身分を偽装している女性も、いまはたまたま旅行中で不在みたいな話なので、そう遠くない未来にその辺の設定が見直されることにはなるんだろうけれど、それにしたって、まだ一週間とは思わなかった。

 だって前回からわずか二、三日で、次の殺人事件が起こるなんて、そんな話あり?

 あまりに強引なご都合主義にびっくりだよ。

 とにかく、今回はシリーズ化にあたって無理やり事件を起こしました、みたいな感が強くて、ミステリとしてはいまいちだった。

 まぁ、キャラクター劇として読むならば、お騒がせお婆ちゃん二人組はあいかわらず元気だし、フォーチューンにアリーという同世代の友人ができたり、カーター保安官助手との仲も進展中だったりして、それなりには楽しめた。でもつづきを読まずにはいられないほどおもしろかったかというと、残念ながらそこまでではないかぁなと……。

 それにしても、第一作が『Louisiana Longshot』、この第二作が『Lethal Bayou Beauty』と、「ルイジアナ」や「バイユー」という言葉を盛り込んでアメリカ南部を舞台にしたシリーズの特徴を示す、なかなか気の効いた原題がついているのに、それをここまでダサい邦題に変えてしまうのって、ある意味すごい。

 第一作はともかく、この第二作のタイトルはさすがにどうかと思った。シリーズの続編でなかったら、絶対に手に取ろうとも思わない。

 ということで、第三作以降を読むかどうかは、現時点では未定。

(Oct. 11, 2025)

暗闇に戯れて 白さと文学的想像力

トニ・モリスン/都甲幸治・訳/岩波文庫

暗闇に戯れて 白さと文学的想像力 (岩波文庫)

 トニ・モリスンがアメリカ文学における黒人の存在意義を考察した論文集。

 『ハックルベリー・フィンの冒険』についても取り上げられているようなので、ちょうどいいから、このタイミングで読んでおくことにした。

 わずか百七十ページ強の薄い文庫本なので、二、三日で読み終わるかと思ったら、そうはいかない。この人の小説同様、文章が難解で、さらっと読み流そうとすると、まったく内容が頭に入ってこない。序盤で挫折して、数日間読まずに放置してあったこともあり、結局二週間近くかかってしまった。

 内容はアメリカ文学=白人男性作家の作品限定という状況にあった当時の文学評論のあり方に対して異議を唱えたもの。

 書き手は白人男性ばかりだけれど、でも彼らの作品の根底には黒人奴隷と人種差別主義がはびこるアメリカ社会の状況が計り知れないほどの影響を与えているぞと。黒人の存在抜きにしてアメリカ文学を語るなかれ!――ってくらいの勢いで、「アフリカニズム」という造語とともに、アメリカ文学における黒人の重要性が主張されている。

 序文+全三章の構成で、それぞれの章では黒人問題を論じてから、具体例として作品が分析されるという形で、第一章がウィラ・キャザーの『サファイラと奴隷娘』、第二章で『ハックルベリー・フィンの冒険』やポーやフォークナーらが語られ、第三章がヘミングウェイの『持つと持たぬと』と『エデンの園』が取り上げられている。

 白人男性がうんぬんと語ったあとで最初に取り上げた作品が女性作家の作品だったり、白人男性至上主義の代表選手のようなイメージのヘミングウェイについて詳細に分析してみせているのに意外性があった。

 まぁ、全体としてはわたくしには難し過ぎました。半分も理解が及ばない。

(Oct. 13, 2025)