2017年2月の本

Index

  1. 『翻訳百景』 越前敏弥
  2. 『アリバイ・アイク -ラードナー傑作選-』 リング・ラードナー
  3. 『ゼロ時間へ』 アガサ・クリスティー

翻訳百景

越前敏弥/角川新書/Kindle

翻訳百景 (角川新書)

 『ダ・ヴィンチ・コード』や『解錠師』などを手がけてきた英米ミステリ翻訳家、越前敏弥氏のエッセイ集。
 内訳は翻訳家としての体験談や、ラングドン教授シリーズの出版にまつわる裏話、翻訳の技術的なうんちくに、主催している読書会の紹介などで、残念ながら『百景』と名乗るほどの広がりはないかなぁと。とくに翻訳家としての経歴については、去年読んだ『日本人なら必ず誤訳する英文』にも同じようなことを語ったインタビューが掲載されていたので、またですかという感があった。著作をわずか二冊しか読んでないのに、内容が重複するのはいかがなものか。
 いずれにせよ、僕は翻訳家ならではの視点で未知の作品に関する興味をかきたててくれるような本を期待していたようで──まぁ、そういう部分がないわけではないのだけれど、それでも半分以上は著者が翻訳をする上で育んだ人間関係についての話って感じなので──、やや肩すかしを食ったような気分になった。翻訳家を目指している人には参考になるんだろうし、越前氏のファンにはいい本なのかもしれないけれど、どちらでもない僕にとっては残念ながら満足度の低い一冊だった。
 でもまぁ、新書なんて得てしてこんなもんなのかもしれない。どうもデジタルで読んでいると、単行本、文庫、新書など、原本のフォーマットを意識せずに、すべて同じように一列で読んでしまうのがよくない気がしてきた。
(Feb 16, 2017)

アリバイ・アイク -ラードナー傑作選-

リング・ラードナー/加島祥造・訳/新潮文庫/村上柴田翻訳堂

アリバイ・アイク: ラードナー傑作選 (新潮文庫)

 フィッツジェラルドと友達だったという噂のユーモア作家、リング・ラードナーの短編集。
 主にメジャー・リーグを舞台に、才能はあるけれど性格に難ありな奇人・変人の姿をおもしろおかしく描いてみせた作品がずらりと並んでいる。いわば『男がつらいよ』のアメリカン・ショート・ストーリー編みたいな短編集なのだけれど、この本の主人公たちには寅さんのような憎みきれないろくでなしって感じの魅力はない。近くにいたら本当に困ってしまうような、日本だったら本気で嫌われそうな人たちばかり。
 でも、そんな人たちを描いていながらにしてなお、この本はちゃんとおもしろい。笑えるし、ペーソスもある。これはただひたすら語り手ラードナーの語りのうまさによるところが大きい。どんな人にだって魅力はある。それをすくいとって、いかに読者につたえるか。それこそ作家の腕のみせどころ。その点、リング・ラードナーという人はとても優れた文章家なのがわかる。
 ただ、とにかく全編ユーモラスなので、深みや重厚さには欠ける。本人もそういう自分の作風を意識していて、自分を文学者とはみなしていなかったとかなんとか。
 でもこの軽妙な味わいと底に流れる悲しみを感じれば、これは文学ではないと切り捨てるのは惜しい。こういう軽快さをしっかりと内包できるだけの懐の深さが文学にはあって欲しい。いずれにせよ、村上柴田翻訳堂のなかでももっとも読みやすくて楽しい一冊。
 ということで、これにてこのシリーズも既刊はすべて読了。残すは五月刊行予定の村上・柴田両氏による新訳の二冊のみ(当初は二月と予告されていたのに、春樹氏の新作発売と重なったので延期になったらしい)。
 来月には春樹氏の新しいエッセイ集が出るらしいし、『騎士団長殺し』のあとにそれを読んだら、五月なんてすぐだろう。なんだか途切れなく村上春樹関連の本を読みつづけている気がする。
(Feb 25, 2017)

ゼロ時間へ

アガサ・クリスティー/三川基好・訳/クリスティー文庫/Kindle

ゼロ時間へ (クリスティー文庫)

 ミステリは必ず殺人が起こるところから始まるけれど、それは間違っている。殺人は結果であって、物語はそのはるか以前から始まっているのだ──というような老判事の独白を冒頭にかかげた上で、実際に殺人にいたるそのとき──つまり「ゼロ時間」まで──を描いてみせるという趣向のクリスティーの意欲作。
 この作品のおもしろさは、そういうテーマの作品だから、とうぜん最後の最後にクライマックスで殺人が起こるのだろうと思って読んでいると、じつはそうではないこと(ネタバレごめん)。えっ、と思うようなタイミングで、唐突に殺人が起こる。
 でも、なにそれ、テーマにそぐわないじゃんと思った時点で、クリスティーの手のひらに乗ってしまったも同然。いや、さすがにミステリの女王、うまいです。
 まぁ、謎解きミステリとして見ると、そんなに難しい話ではないと思うけれど(終盤の展開で誰の犯行かはだいたいわかってしまう)、なにより作品の着想が素晴らしい。ミステリの楽しみは殺人そのものではなく、そこにいたるまでの人間模様にこそあるのよ、というクリスティー・ミステリの神髄を明確に宣言した貴重な作品。
 基本的に殺人事件が起こるまでを描くという作品なので、ポアロやミス・マープルの出番のないノン・シリーズの作品だけれど、それでも探偵役に『チムニーズ館の秘密』などに登場したバトル警部を配して、捜査の過程でポアロのことを語らせたりしているところにも、愛読者に対するサービス精神が感じられて嬉しい。
(Feb 25, 2017)