2011年9月の本

Index

  1. 『ブラッド・メリディアン』 コーマック・マッカーシー
  2. 『豆腐小僧その他』 京極夏彦
  3. 『分別と多感』 ジェイン・オースティン
  4. 『スロー・ラーナー』 トマス・ピンチョン
  5. 『聖なる怪物』 ドナルド・E・ウェストレイク
  6. 『滝への新しい小径』 レイモンド・カーヴァー
  7. 『探偵稼業は運しだい』 レジナルド・ヒル

ブラッド・メリディアン

コーマック・マッカーシー/黒原敏行・訳/早川書房

ブラッド・メリディアン

 タイム誌が選んだ「英語で書かれた小説のオール・タイム・ベスト百冊」のうちの一冊にも含まれているというコーマック・マッカーシーの出世作。
 しっかし、これは手ごわかった。コーマック・マッカーシーの小説はいつでも手ごわいけれど、これはテーマがもっとも殺伐としているため、これまでで一番きつかった。
 この小説でマッカーシーは十九世紀の開拓時代のアメリカとメキシコを舞台に、非正規のインディアン討伐隊の言動を描いてゆく。いちおうそのグループに加わった家出少年が主人公ということにはなっているけれど、彼が話の中心となるのは物語もすでに終わりに近くなってからで、それまでは、ただひたすらこの集団の残虐行為の数々が描かれる。
 それもただインディアンを殺すってだけならばともかく、彼らは殺したインディアンの頭の皮を剥いでまわる。頭の皮を剥ぐなんて残虐行為はインディアン側の風習かと思っていたけれど、この小説では白人側も同じようにインディアンの頭の皮を剥いでいる(どうやらそれで殺した人数を証明するらしい)。想像するに痛々しすぎて、すんごく嫌だった。
 そうした行為を繰り広げる討伐隊には、何ヶ国語をもあやつる巨体の判事がいて(全身に一本の毛も生えていないらしい)、この謎の人物が、『ノー・カントリー』のシュガーのような悪魔的存在として、物語に宗教的でオカルティックな味わいを加えている。この悪の化身のような人物の存在がこの作品の白眉たるところだろうと思う。
 最後になっていきなり時間軸が二十年以上のスパンですっとんでしまうスタイルはその後の『平原の町』などにも通じるし、なるほど、これがマッカーシーの代表作のひとつだというのはよくわかった。でも好きかといわれると困ってしまう。そんな作品。
(Sep 13, 2011)

豆腐小僧その他

京極夏彦/角川文庫

豆腐小僧その他 (角川文庫)

 3Dアニメ映画『豆富小僧』の原作だというジュヴナイル小説……なのだけれど。
 京極夏彦が最初に豆腐小僧を世に送りだした長編小説『豆腐小僧双六道中ふりだし』は江戸時代の話で、なおかつ人間と妖怪の交流などは基本的になし。架空の存在である妖怪たちが、架空は架空のままで繰り広げる、メタフィクショナルな物語だった。
 それに対して映画版では──って、観ていないので細かいところはわからないけれど──、現代を舞台に、豆腐小僧らの妖怪と人間の女の子が行動をともにしている……っぽい。どうして京極夏彦原作でそういうことになっちゃうんだ?――という僕の疑問に答えるかのように刊行されたのが、この作品だった。
 そうか、これは子供向けの話だから、妖怪と人間が交流しちゃうのか……と思ったら、やはりそんなことはない。この小説でも、妖怪は基本、人には見えない存在のまんまだ。舞台を現代にうつして、小学生の男の子(映画では女の子?)を主人公に、お天気制御システムがどうしたというプチSFな展開にこそなっているけれど──あと、語りが落語調からありふれた「である」調に変わってはいるけれど──、作品の基本構造は『双六道中ふりだし』とおんなじだ。ここでも豆腐小僧たちはきちんと、人の想像の世界にしか存在しないものとして扱われている(ま、基本)。
 要するに、小僧と女の子がなかよくなっちゃう、みたいな展開は映画のオリジナルなわけだ。いやー、そうとわかってほっとした。だって、この物語の要は、妖怪なんて実際にはいないんだってところなのだから。本来は存在しない妖怪たちが存在しないという自己認識を持ったまま、独自に繰り広げる物語だからこそ、これはファンタジーではなく、一個のメタフィクションとして有効なのだから。それを子供と交流なんかさせたら、普通のファンタジーになってしまう。
 京極夏彦が映画化にあたって、そこのところを曲げていたらやだなぁと心配していたんだった。でもさすが京極氏。そんなことにはしていない。コマーシャリズムに乗りはすれども、流されていない。そこが素晴らしい。
 ということで、これも原作とはいいつつ、映画とはかなりテイストが違っているとみた。で、それゆえ僕はなおさら映画版への関心がなくなった。やっぱ駄目ですって、オリジナルの{きも}の部分をはずすような映画化は。絵がかわいすぎるってだけでも引いていたのに、肝心かなめの妖怪の存在意義まで違うんじゃ話にならない。
 この本に関しては、豆腐小僧のなんたるかを知る上ではあまり役に立たないけれど、京極夏彦名義のもっとも薄い一冊という点において、また『京極噺六儀集』より転載された狂言台本の素晴らしさゆえに、ファンとしては一読の価値はあるかと思います。
(Sep 14, 2011)

分別と多感

ジェイン・オースティン/中野康司・訳/ちくま文庫

分別と多感 (ちくま文庫)

  映画にもなった『ジェイン・オースティンの読書会』を読もうと思って、でもせっかくだからその前にジェイン・オースティンをすべて読むことにしよう、名付 けて「ひとりジェイン・オースティンの読書会」──とか思ったのがいつのことやら。
 ブログに検索をかけてみたら、二年前の十一月の話だった。気がつけば二年も前のことになっている。ほんと、この頃の月日の過ぎる速さと来た日には……。
 ま、なんにしろようやく読み始めましたジェイン・オースティン。まずは処女長編の『分別と多感』から。読んだのはオースティンの全作品が揃っているちくま文庫版で、訳者はすべて中野康司という人。
 この小説は、分類するならば恋愛小説なんだろうけれど、あまり恋愛小説っぽくない。というのも、恋人同士がふたりきりで愛を語らったりするシーンがほとんどないせいだと思う。
  物語は主人公のエリナーとマリアンの姉妹ふたりの恋愛を軸に進んでゆくけれど、基本的どちらもうまくゆかなくて、熱く恋を語るような展開にならない。どちらかというと、あまり男運に恵まれない美女姉妹ふたりを取り囲む俗物的な人間模様を描くのが主体という感じの小説だった。
 でもそれでいてこれが滅法おもしろい。十九世紀のイングランドの有閑階級における人々の俗物ぶりが徹底していて、なんだかとても笑えるのだった。むちゃくちゃ守銭奴な義兄夫婦とか、なりふり構わず成り上がろうとする恋敵とか。なんだこの人たちって感じで、やたら失笑を誘われる。そういう読み方が正しいかどうかは別として、僕にはこの小説はいっぺんのコメディとして、とてもおもしろかった。
 ……って、なんとなく間違っている気がしなくもない。
(Sep 23, 2011)

スロー・ラーナー

トマス・ピンチョン/佐藤良明・訳/新潮社

スロー・ラーナー (トマス・ピンチョン全小説)

 「トマス・ピンチョン全小説」の第三弾にして、ピンチョン唯一の短編集。ここから先、最後に出る(と思われる)最新作を除いた作品はすべて再読となる。
 この短編集については、ちくま文庫版を読んだのがいつのことだったか記憶にないけれど(調べてみたら十一年前だった)、その頃はまーったくおもしろいと思わなかった。おもしろいうんぬん以前に、なにが書いてあるのか、さっぱりわからなかったような気がする。
 今回、新しい訳で読み返してみたところでは、まったくわからないってことはないけれど、かといっておもしろいかと問われると、やっぱり無条件にイエスとは答えられない。少なくても最初の三篇(『スモール・レイン』『ロウ・ランド』『エントロピー』)に関しては、あいかわらず、なにが書きたかったんだか、さっぱりわからない。序文でピンチョン本人が説明してくれているのにもかかわらず、わからないんだから情けない。
 それでも、そのあとのスパイ小説『アンダー・ザ・ローズ』は、その後に書き直されて処女長編『V.』へと組み込まれたというだけあって、コミカルさと悲惨さがないまでになったピンチョンならではのテイストが出ていて興味深く読めたし、なにより最後の『シークレット・インテグレーション』、これが素晴らしかった。この短編の素晴らしさがわからなかった十一年前の俺ってなんだったんだと思ってしまった。
 この作品はピンチョン版『スタンド・バイ・ミー』ともいうべき少年小説。そのためピンチョンの圧倒的なペダンティズムが薄れていて比較的読みやすいし、それでいて普遍的な少年性のようなものもしっかり出ていて、なおかつ人種差別問題にまで言及しているという希有な短編(ここでの「インテグレーション」は「人種統合」の意味)。ピンチョンがこういう小説を書いているってことに、いまさらながらびっくりした。ほんと、この短編はとてもよかった。
 この本に関して残念なのは翻訳。
 かつて『ヴァインランド』を読んだときにも思ったことだけれど、僕にはどうにもこの佐藤良明という人の言語感覚がしっくりこない。ピンチョンのカジュアルな文章をくだけた口語調で訳す、そのくだきかたが性にあわない。おかげで不必要に翻訳を意識させられてしまう。僕は翻訳は訳者の存在を意識させないものほどいいと思っているので、申し訳ないけれど、この訳はあまり好きになれない。
 そういう意味では、これまでピンチョン訳の第一人者だった志村正雄という人も、正直なところ、僕は苦手だった。どうもピンチョンの場合、過剰にペダンティックな分、訳者にも文章の読みやすさよりもペダントリーを重視する人が選ばれて、結果としてなおさら読みにくくなっている気がする。今回の全集には、いままで以上の読みやすさを期待していたのに、その中心人物が志村氏の弟子のような人だとは……。
 佐藤氏はこれから出るすべての作品に絡んでいるようなので、この先の作品もちゃんと楽しく読めるのか、やや心配になった。
(Sep 24, 2011)

聖なる怪物

ドナルド・E・ウェストレイク/木村二郎・訳/文春文庫

聖なる怪物 (文春文庫)

 僕は前に「殺人の起こらないミステリが書けるから、ウェストレイクが好きだ」というようなことを書いたけれど、この小説では序盤からいきなり殺人がほのめかされる。主人公の大物俳優(なにやらラリっている)がインタビューを受けて、みずから生涯を語るという設定のもと、この人の過去になにやら恐ろしいことがあったことがほのめかされている。
 こりゃもしかひさびさの連続猟奇殺人話かっ──と思ったとたん、気分的に引いてしまって、はじめのうちはあまりページをめくる手が進まなかった(最近、そういうのに弱いのです)。
 でもそこはさすがウェストレイク。むやみに死をもてあそんだりしない。殺人は起こりこそすれ、決して猟奇的なものではなかった。途中まで読んで、そのことがある程度はっきりしたあたりからは、さくさくと読むことができた。
 で、読めばそこはウェストレイクの作品。ミステリとして見るとトリックは弱くて、途中で全体的な構造は見透けてしまうけれど、一遍のエンターテイメントとしてはよく書けていると思う。苦悩を背負って生きてきた主人公が、それでも結局はバカばっかりやっている悲喜こもごもな感じがいい。
 ひとつ前のピンチョンやオースティンもそうだけれど、コメディ要素と悲劇性が適度にないまぜになった、こういう小説がたくさんあるのが、英米文学の強みだと思う。日本では笑いは笑い、悲しみは悲しみと、もっとはっきり分かれてしまっている気がする。
 でも人生ってそういうものではないでしょう? 笑ったり泣いたり怒ったり。数限りない喜怒哀楽を繰り返しながら僕らは生きている。だから小説もそうであって欲しい。笑いと悲しみが同時にあってこその文学だと僕は思う。僕が英米の作品を好んで読む一番の理由はここのところにある。
(Sep 24, 2011)

滝への新しい小径

レイモンド・カーヴァー/村上春樹・訳/村上春樹翻訳ライブラリ-

滝への新しい小径 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 レイモンド・カーヴァーの死後に刊行された詩集。これがカーヴァーの遺作とのこと。
 前にも書いたかもしれないけれど、基本的に僕には詩を味わう能力が欠落しているようなので、この本もほとんどそのよさが理解できていない。
 それでもさすがに作者が死の宣告を受けたあとで編纂された詩集だと思って読むだけに、それはそれで感じるところもある。
 とくに終盤、作者が妻への愛などをあからさまに心情吐露した作品では、過去の作風とは違った、そのあまりにストレートな告白に、さすがに心を動かさずにはいられない。なんといっていいのか、言葉には困るけれど。
 この本には、それらのカーヴァーの作品に交じって、チェーホフなどの作品からの一節を詩に見立てた断片が挿入されていて、これが全体のイメージを豊かにしている。奥さんのテス・ギャラガー(この本に心のこもった序文を寄せている)の提案によるものらしいけれど、これはほんと秀逸なアイディアだと思った。
 もともとは散文の一部として書かれた文章が、こんなふうにカーヴァーの詩集のなかで、立派な詩のひとつとして機能するというのはちょっとした驚きだ。それだけチェーホフが素晴らしい文筆家だったという証明なんだろう。
 僕は不覚にもチェーホフって一度も読んだことがないので、今度読んでみないといけないと思わされた。
(Sep 24, 2011)

探偵稼業は運しだい

レジナルド・ヒル/羽田詩津子・訳/PHP文芸文庫

探偵稼業は運しだい (PHP文芸文庫)

 禿げかけた小太りの黒人探偵(でもなぜかもてる)、ジョー・シックススミスを主人公にしたユーモア・ミステリのシリーズの第五弾。作者は偉大なるレジナルド・ヒルだっ。
 ……って、調べてみれば、最初の二作がハヤカワ・ミステリから刊行されたのが、気がつけばすでに十五年近く前のこと。売り上げがいまいちだったのか、それ以来、見限られてしまっていたこのシリーズの最新作がなんと、あいだの二作品をすっ飛ばして、PHP文芸文庫から刊行された。おいおい、早川さん、なにやってんだいと言いたいところだけれど、まあいいや。読めただけでも幸せってもので。
 そもそも、僕がその一、二作目を読んだのはかれこれ十年前のことで、内容に関してはすっかり覚えていない。過去のマイ・ノートをあさってみたところ、もともとこのジョー・シックススミス氏は読み切り短編からスタートしたあと、出世して長編デビューした探偵のようで、そのせいか長編でも短編的なエピソードの寄せ集め的な傾向があって、あまり読みごたえはなかった模様。
 とはいえ、じゃあつまらないのかというと、そんなはずがない。なんたってレジナルド・ヒルの作品なのだから。しかも五十代なかばを過ぎた、脂が乗り切った年齢で始めた新シリーズだけあって、軽妙洒脱でユーモア満点(で、若干下品)。ダルジール&パスコー・シリーズに比べると軽すぎる嫌いはあるけれど、その分、作者が楽しんで書いている様子が伝わってきて文句なし。
 シリーズが五作と長続きしたためだろう、この作品では過去の二作品とは違い、短編の寄せ集め的な印象ではなくなっているし、一遍のコメディとして、マンガみたいに楽しめる作品に仕上がっている。
 唯一残念なのは、以前の作品をおぼえていないのに加え、あいだを飛ばしているせいで、キャラクターの人間関係がよくわからないこと。やはりこういう作品はつづけて読んでこそ楽しみも倍増するってもの。ここは、ぜひともPHP研究所にがんばってもらい、過去の二作品を出版していただきたい。よろしくお願いします。
(Sep 24, 2011)