2011年7月の本

Index

  1. 『逆光』 トマス・ピンチョン
  2. 『必要になったら電話をかけて』 レイモンド・カーヴァー
  3. 『冥談』 京極夏彦
  4. 『さよなら、愛しい人』 村上春樹
  5. 『ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン』 ジェイムズ・エルロイ&オットー・ペンズラー編

逆光

トマス・ピンチョン/木原善彦・訳/新潮社(全二巻)

逆光〈上〉 (トマス・ピンチョン全小説) 逆光〈下〉 (トマス・ピンチョン全小説)

 帯の言葉を引用させてもらえば、この本は「空想科学冒険少年スパイ超能力探偵SM陰謀ミステリ歴史・幻想美少女数学ギャグ労働史恋愛ポルノ革命テロ家族小説」ということになる。読んでいない人にはなんだそりゃだろうけれど、読んだ人からすると、ああなるほどという内容。
 とにかく、この小説はなにもかもが過剰だ。上下巻で一千七百ページを超えるボリュームからしてはんぱじゃないけれど、そのなかに盛り込まれた情報量の多さも洒落にならない。
 ベースとなるのは、とある無政府主義者の爆弾テロリストの三人息子にまつわる、それぞれの物語──なのだけれど。そこに枝葉末節がこれでもかと盛り込まれていて、全方向に拡散しまくり。そもそも、その三人息子が出てくるまでに、かなりのページ数を割いているし、一概に彼らが主人公とも言い切れない気さえする。
 舞台となるのは、十九世紀末から二十世紀初頭の世界各地。ある人はアメリカを横断してメキシコへと到り、ある人はヨーロッパへ船で渡って、イギリス、ドイツ、イタリア、さらにはシャンバラ(シャングリラとの違いがわからない)を求めて、中央アジアへも足を伸ばす。登場人物も数え切れないくらい多い。さらには時代設定を考えると、ちょっと奔放すぎやしないかってくらいに、エロもたっぷり(それもバラエティ豊か)。
 前作の『メイスン&ディクスン』は主人公がはっきりしていた分、旅行記的な味わいがあったけれど、こちらはいくつものエピソードが世界中をまたにかけて並列して語られてゆくために、もっとグローバルな広がりが感じられる。二十世紀初頭のパラレルワールドを覗き込んでいるような感覚があるというか。果てしなく広がる超巨大な箱庭を覗き込んでいるみたいだというか。その賑やかな小宇宙はとても眩惑的だ。
 あまりのボリュームに読み終えるのに3ヶ月半もかかってしまったけれど、それだけの価値はある大作だと思う(わかんないことだらけだけれど)。あまり深い意味は気にせずに、カタカナ語や理工系のキーワードの多さに辟易としないでいられて、なおかつ天才のばかばかしいどんちゃん騒ぎにつきあえる、たっぷりと時間のある人にはお薦めの一冊(いや二冊)。
(Jul 11, 2011)

必要になったら電話をかけて

レイモンド・カーヴァー/村上春樹・訳/村上春樹翻訳ライブラリ-

必要になったら電話をかけて (村上春樹翻訳ライブラリー)

 レイモンド・カーヴァーの死後十年たってから発見された三編の短編小説を中心に編纂されたカーヴァー最後の短編集。
 この本に収録されている短編は全部で五編。ひとつ前に読んだ『英雄を謳うまい』にも似たような数の短編が収録されていたような気がするけれど、あちらにはそのほかにもエッセイや詩が混ざっていたのに対して、こちらはすべて小説のみ。それだけでぜんぜん印象が違う(自分の小説好きを再認識)。完成度の高い低いは僕にはよくわからないけど、これぞカーヴァーって読後感はたっぷりと味わえた。死後に改めてこういう本が読めるというのは、コアなファンの人にとってはけっこう嬉しい贈り物だったんじゃないかなと思う。
 とはいえ、いまだに僕自身はカーヴァーの小説がそれほど好きだと言えない。ここまでつきあってきてなおそうなのだから、これはもう変わらないんじゃないかと思う。
 それでも、このごろは僕自身がいろんな意味において弱ってきていることもあって、この人の書くそれぞれに問題をかかえてなんとか生きている小市民の姿には、そこはかとなく感じるものがあったりもする。人はみな、それぞれに大変なんだよねぇ、みたいな。そこには確実なリアリティがある。あまり積極的に関わりたくはないけれど、感じるものは確実にある。
(Jul 21, 2011)

冥談

京極夏彦/メディアファクトリー

冥談 (幽BOOKS)

 京極夏彦は僕より三歳年上だ(学年では四つ)。人間この年になれば、二、三の歳の差なんてないも同然だから、ほぼ同世代と言っていいと思う。
 ただ、それでいて僕と京極氏には似たところがほとんどない。年が近いことと本が好きなこと、せいぜいそれくらい。あとはとても同じ時代を生きてきたとは思えないくらい、違っている。
 ロック好きで英米文化かぶれの僕と、妖怪研究家を自称する、和装の小説家。サッカー好きの僕に対して、京極氏はスポーツ観戦嫌いを公言している。逆にあまりテレビを観ない僕に対して、京極氏はテレビが好きだという(執筆のかたわらで四六時中ビデオを再生しているというから驚く)。
 ほんと、京極夏彦という人は、僕と同じ時代を、僕とはまったく異なる価値観で生きてきた人なのだと思う。まあ、僕のまわりには音楽好きはいても妖怪好きはいないので、そういう意味では、京極さんが特殊なのだけれど。
 そもそも妖怪の好き嫌い以前に、僕の知っている範囲では、京極さんほど自分が生まれた「昭和」という時代をまっこうから受け入れている人はいない気がする。
 『幽談』につづく新作怪談シリーズ(?)の第二弾であるこの本でも、そんな京極夏彦の独自性はあきらかだ。
 とにかくこの本からは、昭和の香りがつよく漂う。障子に畳に縁側、田舎の祖母の広大な屋敷、不動産屋のとなりの空き地など。昭和生まれの僕らには懐かしく、平成生まれにはおそらくぴんとこないんじゃないかという風景が、この怪談集のほとんどの作品の背景となっている。
 村上春樹を筆頭とするいまの日本文学の無国籍性(──って、僕に日本文学のなにがわかっているんだって話だけれど──)とは対極の、日本ならではの、昭和生まれならではの土着性が京極さんの作品にはある。それは僕自身の趣味からは基本的に外れたものだ。
 それなのに僕が京極夏彦という人に執着するのは、それがあまりに徹底されているがゆえ──なのだと思う。生半可な付け焼刃やちょっとした思いつきからではなく、日本という国が長い年月を経て{はぐく}んできた民衆文化への確固たる愛情のもとにそうした小説を書いているのがわかる。日本文化への深い傾倒が伝わってくる。
 それは僕自身の愛するものではないけれど、その確固たる姿勢にはとても共感できる──というか、憧れる。この時代にあって、ここまで確固たる自分の世界を持っている人が同世代にいるのって、非常に頼もしい。
 昭和から平成へと日本がどんどん軽薄になってゆくなか──そうした軽薄さをそれなりに受け入れつつも──、昭和の闇を伝えつづけている京極夏彦という人は、僕にとってはその情熱のゆえに、かけがえのない作家なのだった。
(Jul 30, 2011)

さよなら、愛しい人

レイモンド・チャンドラー/村上春樹・訳/早川書房

さよなら、愛しい人

 村上春樹氏によるレイモンド・チャンドラー新訳シリーズの第二弾。
 調べてみたら、前回この作品を清水俊二氏による旧訳で読んだのは、もう四年前のことだった。つい先日のことのような気がするのに、いつの間にか、かなりの時間が過ぎている。で、そのせいもあってか、やはりストーリーをよく覚えていなかったりもする。
 いや、さすがに大鹿マロイ(この村上訳では「へら鹿(ムース)」)の登場シーンやリンゼイ・マリオットが殺されること、アン・リオーダンの存在や、マーロウが精神病院に強制入院させられたり、カジノ船に侵入したりするくだりなど、細かいエピソードは覚えていた。でも、殺人事件の犯人の正体とか、マロイの恋人の行方とか、ぜんぜん覚えていない。おかげで妙に新鮮だったりするんだから、いいんだか、悪いんだか……。
 『ロング・グッドバイ』を読んだときには、「清水訳の方がよくないか?」と思った春樹氏の新訳だけれど、今回はあのときのように新旧をつづけて読んだりしていないためもあってか、なんの不満も感じずに楽しめた。というか、逆に「やはり文章がくどくてリズムは悪い気がするけれど、このくどさこそがチャンドラーが文学的に評価される理由なんだろうな」とも思ったりもした。清水訳よりも細部がくっきりはっきりしている気がする。
 その一方で、前回読んで印象的だったシーンに、今回はあまりインパクトを受けなかった。具体的には刑事部屋にいるピンクの頭の虫と、カジノ船のくだりでマーロウを助けるレッドの存在。どちらもこの作品では非常にポイントの高いキャラ(虫も?)だと思うのだけれど(どちらも僕は大好きだ)、今回はその他のディテールに埋もれてしまっている感じがして、あまり目立った印象は受けなかった。でもまあ、それは訳のせいではなく、僕自身の受け取りかたの問題という気もする。
(Jul 30, 2011)

ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン

ジェイムズ・エルロイ’オットー・ペンズラー編/木村二郎・他訳/ハヤカワ・ミステリ

ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 アメリカで1997年から刊行されているという人気短編ミステリ・アンソロジー・シリーズの2002年版。
 ジェイムズ・エルロイが選定にたずさわっている上に、ロバート・B・パーカー、マイクル・コナリー、トマス・H・クック、ジョー・R・ランズデールといった大物作家の作品が収録されているというので、発売当初に買ってはみたけれど、かなりボリュームがあるので何年も放置してあったもの。その後、続編もガンガンと出たもんで、いまやわが家では五冊が積読状態。こりゃいかんと、いまさらながらにようやく読んだ。
 でもこのシリーズ、買ったまま読まないでいた僕も駄目だけれど、その後の早川書房の姿勢もどうかと思う。もともとは他社が出版していたシリーズを横取りしたくせして(01~03年版がDHCから出ている)、五冊出しただけで打ち切りになってしまった模様。売り上げがいまいちだったのかもしれないけれど、そりゃないだろうと思う。「毒を食らわば皿まで」と「継続は力なり」がモットーの僕としては納得がゆかない。
 でもまあ、なんにしろこの本はおもしろかった。編集者のオットー・ペンズラーという人がボクシングや野球にまつわるアンソロジーを出したあとだとかで、それらにまつわる短編が多いのが特徴。注目のパーカーの短編も、じつは長編『ダブル・プレー』のもとネタ(のちにこれが長編化されたらしい)だから、とりあえず野球もののうちのひとつに数えられる。ただ、そういう内容だけに、それほど感心はしなかった。
 収録作品の中でもっともよかったのは、いちばん最初に収録されているジョン・ビゲネットという人の『ベフカルに雨は降りつづける』。これは宝くじにあたってそこそこの金を手にした貧乏なメキシコ人青年が、母親を殺して失踪した父親を探し求めて復讐しようとするという作品。僕にはメキシコを舞台にした物語に対する苦手意識があるのだけれど、これはとてもよかった。
 あと、『ミリオンダラー・ベイビー』の原作者だというF・X・トゥールという人のボクシング小説『夜の息抜き』もいい。そのほかにもよく書けた短編が目白押し。さすがに「ベスト」を謳うだけのことはあると思った。
(Jul 30, 2011)