2011年3月の本

Index

  1. 『午前零時のフーガ』 レジナルド・ヒル
  2. 『厭な小説』 京極夏彦

午前零時のフーガ

レジナルド・ヒル/松下祥子・訳/ハヤカワ・ミステリ

午前零時のフーガ (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 はじめて読んだころのレジナルド・ヒルは、僕にとってかなり手強い作家だった。登場人物の正体をぼやかしたまま、場面を前後左右する手法を多用するため、物語は把握しにくいし、博学に裏打ちされたエスプリの効いた会話も、歯ごたえがありすぎた。
 でも、最近は大半の著作を読み終えて、その作風にもすっかり馴染んだうえに、トマス・ピンチョンやリチャード・パワーズのような作家の作品をコンスタントに読むようになったことで、僕もそれなりに読書好きとしてのグレードが上がっている。
 いまの僕にとって、レジナルド・ヒルの作品はすごくしっくりくる。難しすぎず、軽すぎず、まさにジャストなエンターテイメントとして、読書する楽しみをもっとも強く味わわせてくれる作家のひとりとなっている。今回の作品も楽しいことこの上なし。まるで頭からしっぽまで、たっぷりとあんがつまったタイヤキのよう。
 今回の物語は、前作でリハビリを終え、職場復帰して間もないダルジールが、なんと曜日をまちがえて、日曜日に出勤しようとするというエピソードから幕をあげる(ネタばれ失礼)。まだまだ本調子じゃない御大が、誰にも知られぬうちに自らの失態に気づき、途方に暮れるさまがユーモラスに描かれている。
 もちろんレジナルド・ヒルたる人が、それをそのまま一直線に描くはずはなく。ダルジールの行動を謎めかして描く一方で、そんな彼を尾行する謎の美女と、さらにその女性を尾行するもうひと組の存在をパラレルに描いてゆく。やがてこの三つの歯車ががっちりと噛みあい、物語はぐんぐんと推進力を得て本編へ突入してゆくという趣向。
 物語自体はまる一日の出来事を描いて終わるので、あまり大事件って感じでもないけれど、それでもその激動の一日の終わりに、とても味な演出が用意されていたりすることもあり、シリーズ読者としてはとても満足のゆく一冊だった。
 最近、大ベテランのミステリ作家が次々と他界している。レジナルド・ヒルも現在七十四歳だというので、この先、もうそれほど多くの新作は望めないだろうけれど、いつまでも長生きして、このつづきを書きつづけて欲しいと、心から願ってやまない。
(Mar 06, 2011)

【追記】……なんてことを書いたときには、よもやこれが遺作になってしまおうとは思ってもみなかった。合掌……。

厭な小説

京極夏彦/祥伝社

厭な小説

 厭な気分をモチーフにした、京極夏彦による不条理小説の連作短編集。
 この本の帯には「知りませんからね 読んで後悔しても。」という宣伝文句が大きく印刷してあるけれど、さすがにそこまで厭じゃない。──というと語弊があるか。決していい話ではないので。というか、心温まるところはひとつもないので。
 とくに最初の二編、『厭な子供』 と 『厭な老人』 は、実際にかなり不快だ。なかでも冒頭の『子供』 は結末が下世話に最低で、この本自体が失敗作なんじゃないかと思うくらいだった。
 でも、その後の作品は悪くない。『厭な扉』 のSF的な趣味、『厭な先祖』 の滑稽味のあるグロテスクさ、『厭な彼女』 の救われない不条理感、『厭な家』 の結末の意外性と、それぞれ短編小説としての切れがある。で、それらをラストの表題作 『厭な小説』 でひとつにまとめて、厭な気分を無限ループに陥らせて完結するという趣向もみごと。
 なかでも一番まいったのは、『厭な彼女』。ほかのすべての作品が、なんらかの形で超常的な要素を含むのに、これだけはそういうのがない。不思議なことが起らないだけに、彼氏の厭がることを平然とやりつづける──それどころか極限までエスカレートさせてゆく──彼女の不気味さには、なんともいえないものがあった。
 ということで、読み始めた時点ではやや引いてしまったけれど、読み終えてみれば、いつもどおりに京極ワールドを十分堪能できた一冊。必読というほどの出来ではないけれど、小説好きならば、おそらく読んでも後悔はしません。
(Mar 06, 2011)