2009年11月の本

Index

  1. 『幻影の書』 ポール・オースター
  2. 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 村上春樹
  3. 『京極噺六儀集』 京極夏彦
  4. 『泥棒が1ダース』 ドナルド・E・ウェストレイク

幻影の書

ポール・オースター/柴田元幸・訳/新潮社

幻影の書

 ここ何作か、ポール・オースターを読んできて思ったこと。この人の作品の特徴は、芯がどこにあるかわからないことではないかと。この小説にしても、構造が多重すぎて、どこに焦点をあわせていいのか、よくわからない。
 この小説の語り手は飛行機事故で妻とふたりの息子を失い、悲しみにおぼれて世捨て人同然となっていた大学教授。彼はたまたま観た一本の無声映画に惹きつけられ、その映画の作り手であるヘクター・マンなる映画監督(兼、喜劇役者)が残した十二本の短篇映画に関する詳細な評論書を書きあげる。ヘクター・マンという人は無声映画の末期にほんの短期間だけ活躍して、忽然と姿を消した謎の人物なのだけれど、その本がきっかけとなって、その人の妻だと名乗る女性から、彼のもとへと招待状が届くことになる。ヘクター・マンはまだ生きていて、彼に会いたがっているという。
 ところがこの主人公のデイヴィッドという人が素直じゃなくて、そんな怪しい招待が受けられるかいとばかりに、そっぽを向いてしまう。そのうちに相手側からひとりの女性が使者としてやってきて、彼と彼女とのあいだでひと悶着あったすえに、物語はようやく本題に入り、ヘクター・マンが映画界から姿を消すことになったいきやつや、彼がその後にたどった数奇な人生がひもとかれてゆくことになる。
 いや、「物語はようやく本題に入り」とか書いたけれど、本当にそこからが本題なのかは、いまひとつ心もとない。その部分がいちばん生き生きとしていておもしろいのは確かなんだけれど、それでも作中劇として語られるヘクター・マン作の映画のディテールなども、スティーヴン・ミルハウザーばりで、本編に負けず劣らず読みごたえがあるし、そもそもデイヴィッドとアルマ(彼を迎えにやってきた女性)との関係も、物語の上ではとても重要な意味を持つようになる。さらにヘクター・マンの奥さんという人も──出番は少ないながらも──、終盤の思いがけない展開においては、かなり強烈な存在感を放っている。
 要するに、内容があまりに盛りだくさんで、強力なエピソードがこれでもかと詰め込まれているために、かえって全体像がはっきりしなくなってしまっている──そんな感じ。小説としてのレベルはそうとう高いと思うし、おもしろかったのは確かなところなんだけれど、そういう微妙なバランスの悪さのせいで、頭からどっぷりとその世界に浸りきれない。僕にとってのオースターは、いつもこんな感じのような気がする。
(Nov 11, 2009)

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック

村上春樹・訳編/村上春樹翻訳ライブラリー

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (村上春樹翻訳ライブラリー)

 僕はこの頃やたらと記憶力がない。短期的なことならばそれほど問題がないのだけれど、こと十五年とか二十年とか昔の話となると、じつに多くのことを忘れまくっている。
 この前も高校時代の友人と思い出話をしていて、僕ひとり覚えていないことがやたらと多いものだから、「お前はもういい」と見放されてしまった。確かに、ささいなことならばともかく、一緒にやったバンドのライヴのことまで忘れているとなると──しかもせいぜい片手で余るくらいの回数しかやっていないのにだ──、われながら、さすがにどうかと思う。
 自分でやったのを忘れるくらいだから、観にいったライヴのことなんか、なおさら忘れている。内容をおぼえていないというんならばともかく、チケットの半券が残っているのに、観た記憶がないなんてバンドさえある。わざわざ高いチケットを買って観にいったのに、なんでおぼえてないのか、われながら不思議だ。どうにも日常的に入ってくる情報量が多すぎるので、その分、過去の記憶が自動消去されている気がする。
 なんでこんな話をくどくど書いているかというと、じつは僕がこの 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 を読んだことがなかったらしいことが、いまさらながら判明したからだ。てっきり読んだものと思っていたけれど、探してみたらわが家には、この本の文庫版がなかった。
 ただし、じゃあ絶対に読んだことがないかといわれると、いやちょっと待てといいたくなる。春樹さんがフィッツジェラルドについて書いた文章は、『マイ・ロスト・シティー』 や 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2 バビロンに帰る』──こちらはちゃんと文庫本がある──などでも読んでいるので、それらがデジャヴのようになって、なんだかよくわからなくなっている。それに加えて、この本が刊行された時期というのが、いささか問題になる。
 この本の単行本が刊行されたのは、僕が大学生のころ。で、文庫化されたのが社会人になってから。つまり僕が卒論でフィッツジェラルドを取り上げたとき、この本はまだハードカバーでしか読めなかったことになる。
 そのころの僕はハードカバーを買う習慣がなかったので──というか、貧乏学生ゆえ、買う金も保持するスペースもなかったので──、卒論のために読んだフィッツジェラルド関係の本のなかには、大学の図書館で借りたものも少なくなかった。アンドルー・ターンブルの 『完訳フィッツジェラルド伝』 なんかもそのうちの一冊で、おかげであの本もうちにはない(絶版となってしまったいまとなると非常に残念)。
 この 『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 も同じように、図書館で借りて読んだ一冊だったのかなぁと。でもって、そのときに読んだもんだから、その翌年に文庫化された際に、ついスルーしてしまったのかなあと──そう思ったりするものの、記憶力のあやしい僕のこと。いまさら確かなことはわからない。いずれにせよ、おぼえていなんじゃ、読んでいないも同然ではある。
 まあ、春樹氏がフィッツジェラルドゆかりの地を訪ね歩いて書いたエッセイと翻訳短篇二編というこの本の内容は、フィッツジェラルドのファンにとっても、春樹氏のファンにとっても、どっちつかずで微妙な気がする。だからこそ当時は買わなかったんだろう──とか思うってことは、やはり読んでいるのかなぁ。ああ、わからない。
 とりあえず、翻訳ライブラリーのために追加収録されたエッセイは──フィッツジェラルド本人でも春樹氏でもなく、フィッツジェラルドに近しかった編集者の手によるものなんだけれど──、さすがにわざわざ追加で載せるだけのことはあって、とてもいい内容だった。フィッツジェラルド・ファンにはお薦めです。
(Nov 17, 2009)

京極噺六儀集{きょうごくばなし だいほんしゅう}

京極夏彦/ぴあ

京極噺六儀集

 「六儀」とは狂言の台本のことだそうで。本来は「りくぎ」と読むらしいけれど、この本のタイトルには、あえて「だいほん」とカナがふってある。なんでも京極夏彦原作の狂言、落語、講談を三本立てにした「京極噺」というイベントがあったそうで、この本はその際に上演された台本をまとめたもの。京極夏彦名義にはなっているけれど、京極氏の手によるのは前半の半分──狂言三本と落語一本のオリジナル台本──だけで、残り半分は実際にそれを上演するにあたって、上演者が手を入れた改定版の台本と彼らのエッセイやインタビューという内容になっている。
 もともと僕は小説家としての京極夏彦は愛読しているのもの、妖怪研究家(?)としての活動にはそれほど関心がないし、ましてや狂言などは門外漢なので、この本もあまり乗り気がしないまま、「でも京極夏彦の創作作品はすべて読んでいるしなぁ」と手に取ったのだけれど。ところがどっこい。これがすこぶるおもしろかった。まあ、後半は前半の繰り返しなので、さすがにちょっとなんだけれど、少なくても前半のオリジナル台本に関しては、掛け値なしにおもしろかった。狂言や落語の脚本がこんなにもおもしろいものとは思わなかった。
 考えてみれば、台本というのはセリフだけで構成されているわけで、会話がうまい人が書けば、それだけで十分に優れた作品になるもんなんだろう。純粋に会話文だけの分、小説よりは漫才やコントを観ているような気分で、とにかく笑える。でもって、ただ軽いだけではなく、伝統的な語り口が独特の味わいを生み出している。
 狂言の台本の方はどうかわからないけれど、もしかしたら落語に関しては、別に京極作品に限らずとも、十分に読み物として楽しめるのかもしれないと、これを読んで思った。こんど機会があったらば読んでみよう──とか言っているから、僕の生活はいつまでたっても安定しないんですよね。ま、落語を読むのは老後の楽しみということで。
(Nov 24, 2009)

泥棒が1ダース 《現代短編の名手たち3》

ドナルド・E・ウェストレイク/木村二郎・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

現代短篇の名手たち3 泥棒が1ダース (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 僕はこの本の解説を読むまで、ドナルド・E・ウェストレイクが去年の暮れに亡くなっていたことを知らなかった。そうかぁ、ウェストレイク氏ももう故人でしたか……。
 僕はこの人の本をほんの一部しか読んでいないけれど、読むたびに感心することしきりだったので、亡くなったと知ってとても残念だった。いずれは読める本を古本屋で漁ってでも、すべて読みたいと思う作家のひとりでした。合掌……。
 でも、この本はそんな辛気くさいことを書くのが似つかわしくないくらい、楽しい。手にするまではドートマンダーの短篇をいくつか含むのが売りのふつうの短篇集かと思っていたのだけれど、そうではなく、全編ドートマンダーものからなる短篇集だというんで、おおっと思った(一編だけは主人公の名前が異なるけれど、設定は基本的にドートマンダーものと同じ)。とにかく最初から最後まで、あのユーモアあふれる語り口でもって、天才泥棒の滑稽な活躍ぶりがたっぷりと楽しめる。こういう本を読むと、読書が好きでよかったと思う。
 僕はテレビのお笑い番組をほとんど観ないけれど、それはなぜって、世の中にこういう本があるからだと思っている。本に限らず、ウディ・アレンの映画だっていい。『ONE PIECE』 のようなマンガだっていい。エレカシの音楽にだってユーモアは欠かせない。テレビなんか観なくても、そういう本や映画やマンガや音楽があるだけで、じゅうぶん笑って暮らせる。
 基本的に僕はなにごとも十年、二十年のスパンにわたってつきあえるかどうかを判断基準にしているので、いま現在の人気がすべてといった感のある日本のお笑い文化にはどうにもなじめない。その点、このドートマンダー・シリーズは何十年ものあいだ、読まれつづけている。ふざけた話ばかりだけれど、それでもウェストレイクの語り口は一級品だ。こういうのこそが笑いのワールド・スタンダードであって欲しい。
(Nov 29, 2009)