2009年3月の本

Index

  1. 『贖罪』 イアン・マキューアン
  2. 『若者はみな悲しい』 フィッツジェラルド
  3. 『ティファニーで朝食を』 トルーマン・カポーティ
  4. 『シルバー・スター』 デイヴィッド・ハンドラー

贖罪

イアン・マキューアン/小川太一・訳/新潮社

贖罪

 キーラ・ナイトレイ主演映画 『つぐない』 の原作。ひとりの少女が幼さゆえに犯した過ちと、そのために身を滅ぼした人々の姿を、端正な文章でみごとに描きだしてゆく。
 これはかなりすごい小説だった。古典的なよそおいを持った恋愛小説でありながら、シニカルな戦争小説としての要素をも含みつつ、小説という表現形態の存在意義を問いかける批評性まで持ちあわせている。もとよりイアン・マキューアンという人は非常に優れた文筆家だと思っていたけれど、これはまさに代表作と呼ぶにふさわしい出来映えだと思う。
 だがしかし。これほどの作品を仕立てておきながら、ここでもやはりマキューアンはミスを犯す。
 物語の中心となる事件は、一通の手紙の渡しまちがいをきっかけとして起こる。ところが、僕は肝心のその部分にまるで説得力を見いだせなかった。捨てるつもりだった手紙の下書き(それも卑語を書きつらねたもの)を、まちがって封筒に入れたりする人はいないだろう。なおかつ、大事なその手紙を直接相手に渡さずに、幼い子供に託したりするってのもない気がする。そのほかの部分の見事さと比べると、僕にはその部分の展開があきれるほど拙く思えた。なまじ作品の出来自体が素晴らしいだけに、そんな風にわずかながらでも傷がついているのが、なんとももったいない。
 じつはこれに先行する二作、 『愛の続き』 と 『アムステルダム』 を読んだときにも、僕は同じようなことを思ったのだった。どちらも優れた小説だけれど、それでいてプロットの一部に「それって不自然じゃん?」と言いたくなるような破たんがある。やたらと無理やりな展開がある。おかげで絶賛するまでには至らない。これだけ素晴らしい文章が書ける人が、年中そういうミスを犯しているのって、けっこう不思議な気がする。
 野球にたとえるならば、素晴らしい投球術を持っているにもかかわらず、なぜだか試合ごとに肝心のところで失投をおかしてしまう球界屈指の技巧派投手。そんな印象のイアン・マキューアンだった。
(Mar 07, 2009)

若者はみな悲しい

フィッツジェラルド/小川高義・訳/光文社古典新訳文庫

若者はみな悲しい (光文社古典新訳文庫)

 F・スコット・フィッツジェラルドがバリバリの現役だったころに刊行されたオリジナル短編集、 『All the Sad Young Men』 の全訳。
 これまで日本で出版されたフィッツジェラルドの短編集は、すべて出来のよいものをセレクトした独自編集のものばかりだったから、この企画自体はとても素晴らしいと思う。これまで翻訳がなかった作品も何篇か含まれているし、読むまではとても好感度が高かった。──そう、読むまでは。
 いざ、読んでみると、なんだかやたらと違和感がある。僕が思っているフィッツジェラルドのイメージと、この翻訳はなにかがずれている。冒頭の二編が 『リッチ・ボーイ』 と 『冬の夢』 という、僕もこれまでに何度も読んでいる、フィッツジェラルドの短編のなかでもきわめつけの代表作だけに、なおさらそう思った。はて、いったいなにが問題なんだろう?
 結論からいってしまえば、翻訳の方向性がいま風だから、ということなのだと思う。具体的にいえば、主語を平気で省略する。現在時制を多用する。長いセンテンスを複数に分けるなどなど。おそらく読むときのリズムのよさを重視したんだろう。そうやって自由に手を入れた、文法的にみるとかなりくだけた訳文になっているのだった。古典新訳文庫というコンセプトからすると、まさにうってつけの一冊かもしれない。
 ただ、これが僕の感覚にはいまいちフィットしなかった。僕はフィッツジェラルドという人を、手の込んだいい回しを好む、古典的なセンスの名文家だと思っているので、この翻訳の持つ現代風な感覚は、そんな僕の持つフィッツジェラルド像にあまりにもマッチしなかった。たとえてみれば、ジャズ・エイジのスーツ姿を期待していた人が、ポール・スミスのジャケットを着て現れてしまったみたいなものだ。
 そもそも 『若者はみな悲しい』 というタイトルだって、よく考えてみるとおかしい。これでは世の中のすべての若者が一様に悲しがっているように取れてしまう。世の中には悲しむことを知らないような若者だっているわけで、そういう人たちから悲しみを知る若者たちを区別しているところに、このタイトルの意味があるんじゃないかと僕なんかは思う。
 さらに言うならば、 これまで 『金持ちの青年』 や 『リッチ・ボーイ』 と訳されてきた作品を、 『お坊ちゃん』 というタイトルにしてみせたのもどうかと思う。たしかに「お坊ちゃん」という言葉は金持ちのご子息を指すのが一般的だから、意味的にはまちがっちゃいない。格好を気にせずに、そう訳してみせた思い切りのよさには、ある意味感心しもした。それでもその言葉が揶揄{やゆ}するところの「世間知らずのぼんぼん」というイメージは、この短編の世慣れた主人公にはふさわしくないと僕は思う(漱石じゃないんだから)。
 どちらのタイトルについても、どうしてそう名付けたかは、訳者自身が巻末できちんと説明してくれている。その姿勢には好感が持てるし、それはそれでひとつの見解だと思うのだけれど、いずれにせよ僕の感覚は以上のとおりなので、やはりちょっとなあって感じだった。
 じつはこの小川高義という人は先日読んだジョン・アーヴィングの 『また会う日まで』 も訳していて、あれを読んだときにも僕はけっこう訳文に違和感を感じたのだった。おなじく小川訳のジュンパ・ラヒリでは特にどうこう思わなかったので、やはりフィッツジェラルドやアーヴィングのような個人的に愛着のある作家の場合、既存のイメージが影響してしまうのが問題なんだろう。いずれにせよ僕は、優れた翻訳は訳者の存在を意識させないものだと思っているので、やたらと文体を意識させられたこの本は、あまり高く評価できないでいる。
 ただし、これらすべては翻訳のよしあしというより、単に趣味の問題。僕にはこの翻訳はあわなかったというだけで、フィッツジェラルドの作品自体は素晴らしい。特にこれまで翻訳されていなかった小品が、どれも――文学性こそ高くないものの――落ちのきいたエンターテイメント性の高い作品ばかりであるところに、フィッツジェラルドのこれまで知らなかった一面が見られて、その点ではとても有意義な本だった。
 ちなみに小川氏は、古典新訳文庫の次回作として 『グレート・ギャツビー』 を手がけるのだそうだ。そりゃまた「神をも恐れぬ」ならぬ、世界のムラカミをも恐れぬ、たいしたチャレンジ精神だ。僕には村上訳が世に出てまだ日も浅いこの時期に、新たにギャツビーを訳そうと思う人の気持ちがよくわからない。
(Mar 13, 2009)

ティファニーで朝食を

トルーマン・カポーティ/村上春樹・訳/新潮社

ティファニーで朝食を ティファニーで朝食を (新潮文庫)

 村上春樹が 『ティファニーで朝食を』 を翻訳したと知って、それは読まねばと思い、発売とともに単行本を入手したのだけれど、あいかわらずの積読の多さに読むのを先延ばししていたら、読まないうちにあっという間に文庫化されてしまった。
 僕としては、ティファニーという高級ブランドのイメージ・カラーをあしらった単行本のスマートな装丁よりも、物語の舞台となるアパートメントの外観をラフなタッチで描いた文庫版の表紙のほうが好きだったするので、これはちょっとばかり悲しかった。
 そもそも、僕は同じ村上春樹が訳したカポーティの 『誕生日の子供たち』 という本を読んでいないわけで、冷静にあとから考えて、なんでそっちを無視しておいて、同じカポーティのこの本を買ったんだと自問自答することになった。 『誕生日の子供たち』 を読んでいないのは、表紙がいまいち趣味じゃないからだったけれど、それならばこの本もおんなじだ。
 では、もとから僕が 『ティファニーで朝食を』 という作品に特別な愛着を感じていたかというと、そんなこともないわけで。過去に新潮文庫の旧版で読んでいるけれど、内容はほとんど覚えていないし、オードリー・ヘプバーンの映画にいたっては──これまた内容はまったく記憶にないけれど──、それほどおもしろいと思った記憶もない(いま観たらまた印象が違いそうだけれど)。
 そんな風になんだかんだと考えてみるに、要するに僕がこの本を買ったのは、 『ティファニーで朝食を』 というとても有名な作品を、村上春樹が翻訳したという話題性に惹かれたから、ただそれだけという結論になる。なんだか、みもふたもない。
 でも、じゃあこの本を読んで後悔したかというと、そんなことはなくて、逆にこれが思いのほかおもしろかった。これぞ村上春樹の新訳のおかげ──と言えればいいのだけれど、なんたって旧訳で読んだのはおそらくもう二十年以上昔の話だから、そんなことはとても言えない。この十年くらいのあいだで僕自身の読書傾向がかなり変わってきているので、どちらかというとその影響のほうが大きくて、いまなら旧訳で読んでも十分に楽しめそうな気がする。
 いずせにせよ、このところの僕は妙に頭の働きが鈍くて、どこがどうよかったか、うまく説明できない。それでもこの本に収録された表題作(中編)と短編三作はどれも、いまの僕にとってはとても魅力的だった。いつかまた読み直して、ちゃんと考えたいと思う。あしからず。
(Mar 31, 2009)

シルバー・スター

デイヴィッド・ハンドラー/北沢あかね・訳/講談社文庫

シルバー・スター (講談社文庫)

 ふとっちょ映画評論家ミッチ・バーガーと美人黒人警官デズ・ミトリーのカップルがニューヨーク郊外の富裕層が住まう小さな村でつぎつぎと起こる殺人事件に挑むシリーズ第三弾。
 デイヴィッド・ハンドラーという人は本当にセレブが大好きだ。どの作品でも事件に絡むのは大層な肩書きを持った人たちばかりだけれど、今回もご多分にもれず、ジェームズ・ディーンの再来と噂される若きハリウッド俳優とくる。
 うーん、これが知らない作家の作品だったらば、僕なんかこの時点で読書欲がうせる。途中でフランク・キャプラを馬鹿にするような台詞があったりもして、キャプラの好きな僕としては心外だったし、この人には自分の趣味のよさをひけらかすようなところがあって──でもそのわりには趣味がよいとも思えなくて──、そういうところが、いまいち好きになれない。それでも読んでしまうのは、腐れ縁というかなんというか……。僕にこの作家を推薦した友人(税理士)がいまとなるとちょっと恨めしい。
 なぜ僕が文句をいいながらもこの人の小説を読んでしまうかといえば、それはミステリとしての出来映えや文学性がどうこうではなく、キャラクター劇として適度に楽しめるから、ただそれだけだと思う。難しいことは抜きにして、マンガやテレビ・ドラマのように気楽に楽しめる小説。いわゆる僕にとってのライト・ノベル──ハンドラーの作品は僕にとってそんな感じだ。
 この作品については、トリックの要となる部分が──日本語に翻訳されているがゆえに──最初からネタばれしてしまっているようなところがあって、ミステリとしては原作者にやや気の毒だった。ま、今回も読みものとしては適度に楽しいです。
(Mar 31, 2009)