2008年8月の本

Index

  1. 『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ
  2. 『赤と黒』 スタンダール
  3. 『グルー』 アーヴィン・ウェルシュ

わたしを離さないで

カズオ・イシグロ/土屋政雄・訳/早川書房

わたしを離さないで

 なぜだかよくわからないけれど、あちらこちらで絶賛されているカズオ・イシグロの長編第六作。
 今回の作品でイシグロが舞台に選んだのは、近未来のイギリス。基本的には現代とほとんど区別のつかないその社会だけれど、そこでは一点、普通に考えるとあり得ないような、非常にシリアスな社会政策が実施されている。
 それは人間という存在の意味を問いかけるような、非常に非人道的な政策だ。それがどのようなものかがこの小説の肝なので、ここでは詳しく書けない──って、まぁ、この時点ですでにかなりネタばれ気味な気がしないでもないけれど。
 語り手となるキャリーはその当事者である女性。しかしながら、彼女自身やその仲間たちは、自らが置かれた立場がいかなるものかを、まったく理解していない。生まれたときから特殊な環境下に置かれ、その意味するところを隠されたまま成長してきた彼女たちは、自分たちの置かれた立場を別に理不尽だとも思わず、普通の人ととちょっと違う、くらいに受け止めて、ごく普通に生きている。
 そう、彼女は本当のことを知らない。この点こそが、イシグロの真骨頂だ。語り手が真実を知らないがゆえに、本当のところは最後まで読んでもはっきりしない。それでも彼女が語る、不器用な恋といびつな友情の物語のすきまから、その社会が隠しているグロテスクなものの断片がちょろちょろと垣間見えてくる。一見ありふれた思春期の思い出話の背景に潜む、悪夢のような運命が行間から滲み出してくる。
 おそらくその辺のなんともいえない感じが、絶賛されている理由ではないかと……そう思いつつも、僕はあまりこの小説に惹かれはしなかった。よく書けているとは思うけれど、どこがそれほど感動的なのか、わからない。解説を寄せている柴田元幸氏が現時点でのイシグロの最高傑作と評し、タイム誌が英米文学のベスト100に選んだりするほどの作品だ。そのよさがわからないのは、おそらく僕の不徳のいたすところ。
 もっと勉強して出直します。
(Aug 08, 2008)

赤と黒

スタンダール/野崎歓・訳/光文社古典新訳文庫(全二巻)

赤と黒 (上) (光文社古典新訳文庫 Aス 1-1) 赤と黒(下) (光文社古典新訳文庫)

 ドストエフスキーの 『罪と罰』 もそうだったけれど、十九世紀の大志を抱く貧乏な若者にとって、ナポレオンという英雄の存在はそうとうな求心力を持っていたらしい。
 『罪と罰』 の主人公ラスコーリニコフは、ナポレオンをロールモデルとして、偉業の前には犠牲はつきものだという自己中心的な理屈から、老女殺しという犯罪に走る。この小説の主人公ジュリヤン・ソレルの場合は、貴族階級の女性たちと身分ちがいの関係を持つことによって、その征服欲を満たすことになる。ナポレオンに憧れて大成を夢見ていたにもかかわらず、貞節な人妻や美しい処女が身分の差を越えて、貧乏な自分と恋に落ちることに激しい優越感をおぼえた彼は、そのうちに自らもその恋愛感情に溺れて、のっぴきならない事態を招くことになる。
 彼らはともに優れた資質を持ち、高い志を抱いた真面目な青年たちだ。にもかかわらず、ナポレオンの偉業に憧れるあまり、その偉業への道すがらにあった非倫理性をまで是とする過ちをおかして、自らの未来をだいなしにしてしまう。かたや殺人、かたや不倫という人の道をはずれた行いによって。
 端的に云ってしまえば、彼らの破滅は、人より秀でたその才能と釣りあわない性格的な弱さゆえの悲劇なのだろう。結局、偉人と凡人を分けるのは、才能よりもむしろ、そうした性格的な強さと弱さなのだと、これらの作品はそう云っているように思える。そして自分自身の弱さを自覚している凡人たる僕らは、これらの小説に悲しい共感を抱くことになるのだった。さすが古典、しっかりと読ませる。
 ちなみにネットで調べてみたところ、この新訳はその筋の人に云わせるとめちゃくちゃ不出来らしく、日本スタンダール研究会というところの会報(Vol.18)では「誤訳博覧会」とまで評されている。この会報がインターネットで無料公開されているので読んでみたのだけれど、これがまあ、非難されるほうも、これくらい徹底的に精読してもらえれば逆に翻訳家冥利に尽きるんじゃないかってくらいの詳細さで、その徹底ぶりに感心してしまった。
 僕もこの本を読んでいて、なんとなく違和感をおぼえたことが何度かあり、そのときは深く考えもせずに、これはきっと作品が古いからだろうくらいに思っていたけれど、なるほど、どうやら翻訳にかなり問題があったらしい。まあ、翻訳としての出来のよしあしはともかく、単に個人的な好みの問題でいえば、旧来は「ジュリアン」だった主人公の表記を、わざわざ見慣れない「ジュリヤン」に変更した時点で、どうかと思う。世の中、新しければいいってものでもないことの見本のような翻訳作品だった。
(Aug 23, 2008)

グルー

アーヴィン・ウェルシュ/池田真紀子・訳/アーティストハウス

グルー

 『トレインスポッティング』 で衝撃的にデビューしたアーヴィン・ウェルシュの六冊目の著作。
 『トレインスポッティング』 がよかったので、この人のことはその後も気にかけているのだけれど、なにせ単行本の大半(いや全部?)がソフトカバーなので、いまいち購買意欲が湧かず、これなら文庫になってから読めばいいやと思って、見送ってしまっていた。でも知名度が低いせいか、残念ながら文庫化されることはほとんどなく、一方で既刊はどんどん絶版の憂き目にあっていて、現在普通の書店で手に入るのは、『トレインスポッティング』 の文庫版と最新作の 『シークレット・オブ・ベッドルーム 』 の二冊だけという状態。気がつけば、二年半前に刊行されたこの 『グルー』 でさえ絶版になってしまっている。最近は出版事情がシビアだという話を聞くけれど、翻訳本ともなると、なおさらそのシビアさに拍車がかかるらしい。こういうおもしろい本が次々と手に入らなくなっていて残念だ。
 なんにしろこれは、新刊として書店に並んだ当時に、ウェルシュの本にしては珍しく、表紙のデザインに惹かれて入手したもの。僕がこの人の本を読むのはこれが三冊目になる。
 『トレインスポッティング』 でセックスとドラッグと暴力と軽犯罪に明け暮れるUKの青年たちの姿を大胆に表現してみせたウェルシュは、八年後のこの作品では、その手の若者たちがどういう中年期を迎えることになるかを、三十年の長きスパンにわたって、意外と楽観的なヴィジョンでもって描いてみせている。 『トレインスポッティング』 は断片的な描写を積み重ねたコラージュ風の手法ゆえ、ストーリー的には、ややまとまりがない印象を受けたものだけれど、それに比べるとこの作品は、物語がとても骨太な感じがする。描いている世界は変わらないのだけれど、アプローチがすごく正攻法になったというか。
 いってみれば、『ハイ・フィデリティ』 や 『アバウト・ア・ボーイ』 のニック・ホーンビィがとてもパワフルでワルになった、みたいな感じ。おかげで斬新さは薄れたものの、その分、ストレートに物語として楽しめる小説に仕上がっている。これはとてもおもしろかった。 『トレインスポッティング』 のキャラクターもところどころにちょい役で登場するので、あの作品が好きな人は要チェックです──って、ああ、もう売ってないんだった。
(Aug 30, 2008)