2007年12月の本

Index

  1. 『国のない男』 カート・ヴォネガット
  2. 『ボストン、沈黙の街』 ウィリアム・ダンデイ
  3. 『真相』 ロバート・B・パーカー
  4. 『芸術家の奇館』 デイヴィッド・ハンドラー

国のない男

カート・ヴォネガット/金原瑞人・訳/NHK出版

国のない男

 カート・ヴォネガットの遺作となったエッセイ集。
 ヴォネガット翁は、あいかわらず見事な語りで、シニカルに毒舌を吐きつつ、ユーモラスに人類愛を訴えている。石油に依存しすぎている現代社会を、愚かな化石燃料中毒と弾劾してみせたり、八十歳すぎの頑固な老人らしく、インターネットを断固拒否して、タイピストに郵送で原稿を送る自らのライフスタイルをいきいきと活写してみせたり。老いてなお枯れることなく下ネタを連発するのはちょっとなんだけれど、それでもヴォネガットの語り口は最後の最後まで非常に魅力的だ。叶うことなら、僕もこういう文章が書けるおじいさんになりたい。
 この本で残念なことがあるとしたら、それは出版社が、これまでヴォネガットのほとんどの作品を出版してきた早川書房ではない点。まあ、もとはといえば原書が出てから2年も版権をとらずに放ったらかしていた早川がいけないんだけれども、それにしてもこういうのってやはり、人の死にあてこんで儲けようとしているのが見え見えで、あまり気持ちがよくない。翻訳家もこれまでヴォネガットに縁もゆかりもない人みたいだし……。
 そもそもこの金原という人、『白鯨』 を 『モウヴィ・ディック』 なんて訳している時点で、個人的にはちょっとなあと思ってしまう。この本には、随所にヴォネガット直筆の警句や滑稽詩が挿入されていて、そこで原文と翻訳が対比できてしまうため、必要以上に翻訳に不満を感じてしまうことにもなる。あとがきも他人{ひと}の言葉の引用ばかりだし、正直なところ、ヴォネガットの作品を手がけるには、この人では役不足だと思った。できればこれまでずっとヴォネガットを訳してきた浅倉久志さんの訳で読みたかった。長年ヴォネガットとつきあってきた人が、故人を偲ぶあとがきが読みたかった。
 いや、それでもこれは、基本的にはとてもいい本だと思う。わずか百五十ページ程度のなかに、ヴォネガットの魅力がぎっしりと詰まっている。自国の大統領ジョージ・ブッシュを思いきり罵倒する一方で、十九世紀のオーストリアの産婦人科医を賞賛してみせ(この人の話は最高にいい)、下ネタまじりで隣人愛を訴える。そんなヴォネガットが僕は大好きだ。こういう作家と出会えたことを幸せだと思う(最近はなにかにつけて、そんなことばっかり言っている気がするけれど)。
 この本のなかでヴォネガット翁は、どんなに小さなことでもいいから、幸せを感じた時には、そのことに気づいて欲しいと言っている。そして、その気持ちを声に出して言ってみるように薦めている。その仰せに素直に従って、この本を読めた幸せを言葉にして終わりたいと思う。ヴォネガットの言葉──正しくはヴォネガットのおじさんの言葉──を借りると、それは次のようになる。
「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」
(Dec 06, 2007)

ボストン、沈黙の街

ウィリアム・ランデイ/東野さやか・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

ボストン、沈黙の街 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 黒人が銃を片手に、ボストンバッグを肩に疾走している写真をあしらった、すっきりとした表紙のデザインが気にいって、前から気になっていた作品。新人作家のデビュー作ながら、04年の『このミス』海外部門では7位につけているし、おもしろそうだからそのうちに読もうと思いつつ、気がつけば3年も過ぎていた。なんだか、そんなのばっかりだ。
 タイトルにもあるとおり、この小説の舞台はボストン。ボストンといえば、まず思い浮かぶのは ロバート・B・パーカーのスペンサー・シリーズ。最近だとマーティン・スコセッシがオスカーを獲得した 『ディパーテッド』 も記憶に新しいし、メジャーリーグ・ファンにとっては松坂大輔のいるレッドソックスかもしれないけれど、やはりボストンといえばスペンサー。僕にとってのこの街のイメージは、パーカーの文体によって強く印象づけられている。それからすると、この小説のボストンはまるで別の土地みたいだ。
 物語は二十代なかばで片田舎の警察署長を務めることになった青年が、地元で起こったドラッグ絡みの地方検事殺人事件の捜査のために、ボストンへと出張してくるというもの。経験豊かな私立探偵のスペンサーに対して、こちらは殺人事件の捜査はこれが初めてという新人署長。彼はつい先日まで大学の史学科に通っていたのだけれど、わけあって中退して父親のあとを継ぎ、故郷の警察署長になったという設定になっている。舞台がボストンといいつつ、中心となるのは麻薬取引が蔓延する架空の地区ミッション・フラッツ(これが英語の原題)だし、ここまで設定が異なっていれば、雰囲気が違うのも当然という気はする。
 そんなわけでこの作品の特徴は、探偵役をつとめる主人公が、いたって経験不足な点。彼が引退したベテラン刑事の手ほどきを受けつつ、したたかな不良刑事や検事補らと張りあってゆくさまは、それなりに新鮮だった。主人公の過去があきらかになる中盤以降の展開も、ハードボイルドかと思っていたら、実はトリックのフェアさ加減が問われるタイプのミステリだったりして、とても意外性がある。
 でも残念ながら、僕にとってはこの小説はいまひとつだった。作品を通じて伝わってくる表現者の人間性に、あまり信用できない感があるからだ。
 いちばん典型的なのが、主人公がヒロインと初めてベッドインしたあとのシーン。彼女がシャワーを浴びているあいだ、彼はテレビで西部劇を見ていたりする。このシチュエーションは僕の感覚としてはあり得ない。相手の女性に対して失礼じゃん。それこそ、スペンサーのフェミニズムを見習ってもらいたいと思ってしまった。
 とにかく、その手の違和感があちこちにあって、ミステリとしての出来以前の問題として、素直に受け入れられない作品だった。それなりに期待していたので、ちょっと残念。
(Dec 15. 2007)

真相

ロバート・B・パーカー/菊池光・訳/ハヤカワ・ミステリ文庫

真相―スペンサー・シリーズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 ということで、 『ボストン、沈黙の街』 に続いて読んだのが、同じ町を舞台にしたハードボイルドの老舗、スペンサー・シリーズの通算三十作目。
 ハードボイルドというと、まずはタフでクールというイメージが一般的かもしれないけれど、僕にとって一番のポイントは、ユーモアがあるか、ないかだ。金や権力を嘲笑{あざわら}う反骨心こそ、ハードボイルドの真髄{しんずい}。凄惨な殺人事件にかかわり、傲慢な金持ちや刑事たちと渡りあう私立探偵にとって、ユーモアは欠かすことのできない要素だと思う。チャンドラーに「タフでなければ生きてゆけない。優しくなければ生きている資格がない」という名文句があったはずだけれど──はてどこに?──、僕は「ユーモアのセンスがなければ、ハードボイルドと呼ぶ資格はない」とか思っている。
 でもって、僕が知っている中でも、もっともユーモアの比重が高いハードボイルドが、このスペンサー・シリーズ。初期の頃はそうでもなかった気がするけれど、最近の作品は、ハードボイルドではなく、ある種のシチュエーション・コメディなんじゃないかというくらい、全編にユーモラスな会話が満ちあふれている。ときおり行き過ぎなんじゃないかと思うことがあるくらいで、今回もラストシーンはスーザンのエロティックなほのめかしで、失笑を誘って終わる。それでもそうしたユーモアとハードボイルドならではの情感がしっかり同居しているところがこのシリーズの魅力だ。
 今回の作品は、ポール・ジャコミンがダリルというガールフレンドを連れてスペンサーのもとを訪れるところから始まる。彼女の母親は二十八年前に銀行強盗事件に巻き込まれ、射殺されたという。未解決のまま迷宮入りとなったその事件の犯人を見つけて欲しい――そう頼まれたスペンサーは、ポールとのよしみで調査を引き受ける。調査料は二人が持ってきたクリスピィ・クリーム・ドーナツ六個ということで。
 スペンサーが捜査を始めてみると、過去の秘密が暴かれることを快く思わない何者かが殺し屋を差し向けたりする。スペンサーはよくあるパターンで、盟友ホークの援護を受けつつ、捜査を続けてゆく。そのうちに事件の関係者がパラダイスに住んでいることがわかり、その土地を訪れたふたりは、警察署長のジェッシィ・ストーンと対面することに……。
 かくして、パーカーズ・ワールドでまたひとつ、記念碑的な出会いが果たされたのだった。
(Dec 15. 2007)

芸術家の奇館

デイヴィッド・ハンドラー/北沢あかね・訳/講談社文庫

芸術家の奇館 (講談社文庫)

 映画評論家ミッチ・バーガーと黒人女性刑事デジリー・ミトリーのカップルが殺人事件を解決する新シリーズの第二弾。今回は二人が住まう村(町?)で隠遁生活を送る老齢の天才芸術家の娘が殺されるという話。
 前作で恋に落ちた主人公ふたりが、今回からおしどり夫婦さながら、手に手を取り合って難事件に挑むという趣向かと思えば、そんなことはなく――ミッチは被害者の家族の友人として、一方デズ(デジリーの愛称)は警察の担当官として、それぞれ別々の角度から事件に関係することになる。おかげで妙にツーショットのシーンが少なくて、なんだか肩透かしをくったような気分になった。
 それにしても、なにかというと登場人物に天才という枕詞{まくらことば}をつけないといられないあたり、デイヴィッド・ハンドラーという人は、あいかわらず慎み深さが足りない印象がある。今回の事件の中心人物も「アメリカの現代立体芸術を、たった一人で再評価させた男」だという。年がら年中、そんな風にセレブばかり描いていて、一般人なんか描いたってつまらないといわんばかりの姿勢には、とてもじゃないけれど共感できない。
 ということで、個人的な意見としては、シリーズ2作目にしてすでに失速気味。
(Dec 15. 2007)